電話の人

増田朋美

電話の人

電話の人

今日もノロは、あるカルチャーセンターで、お稽古を続けていた。と言ってもノロのお弟子さんは、高名な人ばかりで、あまり教えることなどないというのが正直な所であったが。何だか次々と師範免許をいろんな人に与えていく、それ自体は別に悪いことでは無いのだが、それをしてしまって、ある人は独立していき、又ある人は、別の教室に移っていくなりするので、自分の手元には何も残らなくなるのだなというところが、ちょっと寂しいところでもあった。

今あるお弟子さんたちは、もうお箏の基礎的な事は大体知っている。だから曲を見てやるにしても、大体の人は、技術的なことは知っているので教える必要もないのだ。其れなのに熱心にお稽古にやってくるのは、単に自分に師事しているという、肩書がほしいというだけなのであった。それをノロは知っていた。だから、本当の所、教えても何も意味がないという生活が、ノロには続いていた。それはどこかに無理があって、何だか味気なかった。

「先生、入門したいという方からお電話が入ってますが。」

ふいに、カルチャーセンターの役員が、声をかけてきた。丁度、お弟子さんのお稽古が終わり、送り出した所だった。次のお弟子さんがやってくるまで三十分ほど時間がある。丁度いいと思い、ノロはカルチャーセンターの役員から受話器を受け取った。

「はいはい、もしもし、野村でございますが。」

「あの、、、すみません。」

中年の女性の声である。

「先生は、山田流の箏曲教室をやっているのでしょうか?」

と、彼女はそう聞いて来た。

「はい、やっておりますが、入門希望の方でしょうか?」

ノロがそう聞くと、女性ははいそうですとこたえた。

「失礼ですが、先生は、どんな曲をお稽古していらっしゃるのでしょうか?」

と、その女性は聞いてくる。

「はい、古典箏曲を中心に、希望があれば高野喜長さんもやっております。」

ノロが、正直にこたえると、彼女は、良かったと思ったのだろうか、ちょっとため息をついた様であった。

「あの、私は、お箏については、まだほとんど何も知らない素人なのですが、お稽古していただけますでしょうか?」

と、彼女がそういっている。

「はあ、となりますと、お箏をならった経験も何もないという事でしょうか?」

かえって、そういう人であれば、そのほうが教えやすかった。山田流を一から仕込んでいく事が出来るようになるからだ。

「いえ、子どものころ、学校で少し習っておりました。お箏の部活に入っておりまして。今でも、平調子程度なら覚えているのですが。」

と、彼女は言った。こういう人に関しては一寸用心しなければならないな、とノロは思うのである。

「はあ、なるほど、その部活というモノでは、山田流の先生がみえていたのでしょうか?」

ここが一番肝要な質問であった。

「いえ、違います。生田流だったと思います。四角い爪を利用していましたから。私、部活では流派の事は教えられませんでしたけど、後でそういう事になっているという事を知りました。だからおそらく生田流です。」

と、彼女はこたえるのであった。其れは一番困る教え方だとノロは思う。生田流であればはっきりと山田流とは違うのだと、しっかり教えてもらわないと、こうして違う流派の先生に習いたいと変な要望を出してくる。本当に困るなあと思うのだが、最近の先生は、箏には流派があって、それぞれの流派では、楽器が違うくらい違うのだという事を、しっかり教えてはいないようなのだ。

「あのですね。うちの教室は、山田流で、生田流とは、爪の形から始まってほとんどのことが違うのでありまして。」

大きなため息をついて、ノロは言った。

「そうですか。でも私、ほかに行くこところがないんです。たしかに生田流で習っておりましたが、そこの先生にどうしてもなじめなかったんです。だったら、ほかの流派でお願いしたいと、、、。」

はあ、これはどう見ても訳ありか。

「あの、失礼ですが、高校では、生田流の箏曲を習っていたんですよね。それでは、おそらく宮城道雄とかそういう物をやったんでしょう。それでは、山田流とは、偉い違いですよ。山田では、おそらくあなたが想像しているような楽曲はほとんど無いのですから。山田では、古典がほとんどで、現代邦楽に至りましては、高野喜長とか、久本玄智みたいな、そういう人しかいないんですよ。もしわからない様でしたら、動画サイトで調べてごらんなさい。酷く地味な曲であることに気が付きますから。」

こういうことは、始めに入門希望者が調べておくべきことなのだが、今の時代はこういうことを言って、断らなければ、いけないんだということも予め知っていた。

「も、申し訳ありません。そういうことは知っているんです。でも、私は、お箏という楽器自体は好きなんですけど、生田流のあのけたたましい音楽になじめなかったんですよ。だから、先生の所で習わせてもらいたいと思っただけなんです。それではダメでしょうか。」

なるほど、つまりこの人は、沢井系あたりだったのだろう。沢井忠夫の作品は、若い人にはロックみたいでかっこいいと言われるが、すべての人がそう思うという訳ではないと思われる。

最近の邦楽は、何だか、ショスタコーヴィチみたいで、肝心の日本の音楽らしさをどこか失くしているような気がしてならない。そして、そういう音楽状況に、疑問符を付ける音楽家も余りいないというのが現状である。

ショスタコーヴィチのような音楽をわざわざお箏で再現しなくても、いいような気がするのだが。

そうじゃなくて、古典箏曲をもっと気軽に習えたり、聞いたりできるようになればいいのになあ。

ノロは、そう感じている。

「失礼ですが、古典箏曲をやった経験はありますか?」

とだけ聞いてみた。全く経験のないというのなら、お断りだというつもりでいた。

「ええ、一曲だけ。たしか四季曲という。」

なるほど、組歌の四季の曲か。たしかに生田流の出版社でも出版されているらしいが、生田流の人がそういう風に山田の曲を扱うのを、ノロは邪道だと思っていた。

こういう人はかえって、山田流の冒涜だ。

非常に困ると思っていたそのとき、

「先生、お願いですよ。あたし、数週間は下働きでも大丈夫ですよ。先生が山田流の中ではかなり高名なのは知ってますよ。そういう先生につくのなら、始めの頃は、玄関掃除とかそういうことをさせると、高校時代の先生から言われたことがありました。だから、あたしもそういう覚悟は出来てますから。だから、先生、入門させていただけないでしょうか?」

と、電話口の女性はそういっているのであった。たしかに、師匠も家元とか位の高い師匠になれば、入門を認められても、始めのころは、師匠の家の庭掃除とかそういう下働き的なことをされても、当たり前という時代もあった。でも、今そんなことをしたら、人権侵害で大問題になる。

「いえいえ、そんな下働きのようなことはさせませんよ。それでは、いけないですから。しかしですねエ、生田流と山田流ではかなりの違いがあり、生田流に順応してきた方が、山田流になじむのは難しいと思われます。そこだけちょっと考えさせてください。よろしくお願いします。」

と、とりあえずの結論を出して、ノロは電話を切った。女性は是非よろしくお願いしますと言っていたが、正直に言うと彼女を入門させるかは、まだ迷いがあった。

とりあえず、最後のお弟子さんまでお稽古を付けて、全部のお弟子さんを出してしまうと、もう夜になっていた。ノロは、お稽古場の楽器を片付けて、カルチャーセンターの役員に丁寧にお礼を言って、建物を出て行った。

数日後。またノロがお稽古を続けていた頃の事である。

「先生、お稽古中の所すみませんが、またお電話が入っておりまして。」

と、カルチャーセンターの役員が、また受話器を持ってきた。はあ、又ですか、とノロはため息をついて、受話器を受けとる。

「はいはい。野村ですがお電話変わりました。」

「はい、わたし、川口真貴子と申します。先日は名前を名乗らずに、申し訳ないことをしました。其れは本当に失礼しました。漢字で書きますと、真実の真に貴重の貴、其れに子どもの子と書いて、真貴子と書きます。」

電話口の女性は、初めて名前を名乗った。川口真貴子さんか、その口調に合わず、長ったらしい名前だな。と、思った。電話口で話しているうちは、とても、明るくて、ちょっと考えの軽い人のようにみえる。そういう人は、どうなんだろうな?とノロはちょっと不安になる。

やっぱりお箏教室という所へ来る以上、お箏をならうということは、其れなりに、日本の文化を学ぶという事だ。そういう訳であるから、生半可な気持で来てもらうことはしてほしくない。最近では、着物と浴衣の違いすらわからないという人も数多いが、そういう人は、出来ればお箏何か習うのはやめてもらいたいなと思うのだ。今の時代、それを探し求める方が難しいのかもしれないが、人生について、のんべんだらりと生きている人ではなくて、ちゃんと真剣に生きようとしている人に、お箏を習いに来てもらいたかった。

「川口真貴子さんね。で、今日はどういうご用件なんでしょうかな?」

もう一回ノロは聞いた。

「はい。用件は先日と同じです。先生に是非入門させていただきたくて、お電話いたしました。先生は、高名なかたであることは、すでに知っていますから、もし下働きとかそういうことをする必要があれば、なんでもしますから。」

「だから、むかしのお箏教室ではないんですから、そんな変なことはしませんよ。そうじゃなくてね、わたくしは、生田流と山田流では明らかに違うんだということを申し上げたいんです。例えば、使用する爪であっても、其れは生田流とは違うんですから。その違いもお分かりにならない様では困るんですよ。」

そういってくる川口真貴子さんに、ノロはそう言葉を掛けた。たしかに山田流の箏曲教室に、生田流の爪を持ち込まれたら困るのだ。

「わかりました。私、学生のころに生田流の爪を買っていたのですが、其れは廃棄処分にすることにして、山田流の新しい爪を新調してから行きますから。其れは、お箏屋さんに行けば普通にうっているんですよね?山田流の爪と言えば、購入できますよね?もし、そうなれば、そのようにいたします。」

そうだけど、山田流の爪は、生田流の爪の倍くらい金がかかるのである。

「普通に売っているかもわかりません。山田流はやる人数が少ないので、取り寄せになるとかそういうことになるお箏屋のほうが多いですし、値段も倍くらいかかります。」

ノロは正直にいった。

「はい、それでも構いません。お金がかかるならちゃんと払います。取り寄せになるのであればちゃんと待って、爪を新調してから行きます。ですから、お願いします。もう生田流の世界に帰りたくないんです。」

と言ってくる川口さん。最後の一文が気になった。生田流の世界に帰りたくないとは?

「そうですか。なにか生田流の教室でいじめでもありましたかな?」

とりあえずノロはそこを聞く。

「ええ、先生が、急に怒ったり、怒鳴ったり、一種のパワーハラスメントのようなことをして、とても生田流のなかではやっていけないと思って、高校時代だけでやめてしまったんです。でも、大人になってからまたお箏をやりたくなって。でも、高校時代のような教室ではまたたのしくなくなってしまうかなと

思ったので、思い切って違う流派に行ってしまおうと思ったんです。」

「はああ、なるほどねえ。」

と、ノロはいった。そういうことはお箏の世界では当たり前の事だ。というか、むかしの日本社会では怒鳴ったりたたいりすることは度たびあった。それを、パワーハラスメントと言って、裁判沙汰にしてしまうのは、極最近になってからだ。でも、ノロはそういう事から逃げてしまうのではなく、立ち向かってほしいと思っている。其れに逃げて裁判沙汰になっては、いくら指導しても、肝心なものが亡くなってしまうと思っている。

だから、そういうのから逃げるのではなく、自分もむかしながらの方法でお箏を指導していた。さすがに怒鳴ってしまうことは、防音の関係でしなかったけど、それ以外の事、例えば着用していい着物は色無地だけとか、琴柱や箏爪はむかしながらの象牙の爪として、今のプラスチックの爪で満足しないこと、などは厳しく指導していた。さすがに、山田流本来の楽譜を使ってもらいたいという思いもあったけど、其れはもう手に入らないので、手に入るものは古本屋などに買いに行かせて、そうじゃないものは、ノロが自ら配る様にはしていた。

そのような事情を知っているのか知らないか、まではわからないけれど、とにかくこの川口真貴子さんは、そういう指導から逃げようとして、うちの教室にやってきたがっている。其れは、いいのか悪いのかは、個人の価値感に寄るが、山田流が生田流の人から逃げる場所という解釈になってしまうことは

ノロはしてほしくなかった。そうではなくて、生田流も山田流も、それぞれ独立して、互いに良いところをほめあう様な関係であってほしかったが、どうも山田流は、生田流より一段格がしたとみられているようだ。そして、山田流の方が曲もより簡単で、比較的取り組みやすく、また何と言ってもやるものが

少ないから、生田流の先生のような、厳しい指導はせず、入門しやすい、と、思われているらしい。

それが、ノロには悲しかった。

少なくとも、山田流はやるものは少ないが、お箏の簡単バージョンではなく、ちゃんとした一つの流派であり、一つの音楽であるとわかってもらいたかった。

今、電話してきた川口真貴子さんは、どういう経緯でうちを知ったかは不詳だが、少なくとも山田流をそういう風にしか見ていないのだろうと思われる口ぶりだった。

「すみませんが、山田流を軽い気持で見ているような方にご指導は出来ません。どうぞ、お引き通り

くださいませ。」

「ええ、それくらい、わかっております。そのようなことは一切しておりません。私は、お箏という楽器が

すきで、流派など、本来はどうでもいいのです。ただ、私が以前習っていた先生がとても怖い先生で、その先生がいる生田流の世界には居たくないだけの事なんですよ。其れだけの事なんです。

それでは、いけませんか?」

と、川口さんの口調もいつの間にか真剣になっていた。そういう事は、日本の文化を指導するうえでは当たり前のことだ。其れに耐えられないのならやめた方がいい。ノロはそれを伝えたかったが、其れは言わないでおいて、

「お引き取りください。山田流は生田流の下位集団ではなく、独立した流派です。」

と、だけ言って、電話を切った。

その日も、全部のお弟子さんにお稽古をして、ノロは楽器を片付けて、とりあえずカルチャーセンターを後にする。カルチャーセンターをでると、すでに夜になっていて、空は真っ暗になっていた。


カルチャーセンターから富士駅はスグだった。歩いて五分もかからない。駅前商店街の一部である、果物屋さんの前を通りかかると、黒大島の着物を着て、杉三が、店長さんと話しているのを目撃した。

「おう、ノロじゃないか。ひさびさだな。」

通りかかったノロに、杉三がすぐあいさつした。

「どうしたんですか。こんなところで。」

見ると、杉三の車いすのポケットには、袋に入ったバケットが、ぎゅうぎゅうと押し込まれているのがみえた。

「おう、製鉄所にお客さんがみえているので、フルーツサンドでも食わしてやろうと思ってな。」

と、杉ちゃんはいうのだった。こういうもてなし方をするのは、杉ちゃんならではのもてなし方である。

「誰かお客様でもみえたのですかな?」

「お客さんというかお弟子さんがな。浩二君が、自分のお弟子さんを連れてきたのさ。何でも、ピアノのコンクールに出させるんだって。ちょっと不安なところがあるから、見てやってくれないかと水穂さんにお願いしたんだよ。」

ノロがきくと杉三はサラリと答えた。

「はあ、コンクールですか。いいですねえ。洋楽は人前で演奏をさせる機会が多くて。」

「まあ、まだ、十五にもならない少年だけどね。コンクールと言っても、難易度はさほど高くないんだけどね。なんでも、浩二君の話では、学校にいけなくなってしまったそうで、コンクールに出して、自信を付けさせたいんだって。まあ、其れも不登校克服の一つの手だよな。そうなれば、合唱コンクールなどで伴奏をしたりして、学校で人気者になれるかもしれないしな。」

そうですか。それなら、邦楽もそういう道具の一つになってくれればいいのに。と、ノロは思った。

「おーい杉ちゃん、約束通り切ったよ。パイナップルを角切りね。」

果物屋の店主が、パイナップルを一杯入れた、タッパーをもってやってきた。

「おう有難う。パンと一緒に、車いすのポケットの中に入れてくれや。」

しかし車いすのポケットは、すでにバケットで一杯だった。

「わたくしがもって差し上げますよ。製鉄所に寄れるくらいの時間はありますから。」

と、ノロは、店主さんからタッパーを受けとった。杉三が、お、悪いね、じゃあ一緒に来てくれといって、店主に有難うと挨拶し、とおりを歩き始めた。

「では、今頃、水穂さんたちは、その少年に対して、レッスンをして差し上げている訳ですね。」

と、歩きながらノロが聞く。

「まあ、そういうこったな。畳を汚さないように気を付けてもらいたい物だけど。どうかな。」

と、口笛を吹きながらこたえる杉ちゃんだった。

一方そのころ製鉄所では。

一人の、12歳か、13歳くらいの少年が、一生懸命ピアノを弾いていた。曲は、シューベルトの即興曲第四番、変イ長調である。比較的おとなしい感じの曲なのであるが、十六分音符の連続などから、激しい曲と解釈する人も多くいる。逆にエレガントに演奏するピアニストもいるが、前者のほうが最近は多かった。途中の中間部は小指で旋律を歌わなければならないから、結構難しい曲でもある。

浩二が水穂の隣に正座で座っていて、一生懸命少年を応援する目で見ていた。水穂本人は、布団に座っていたが、なにかあるといけないので、天童先生に来てもらって、背中を支えてもらっていた。

「どうでしょうか。」

演奏が終わると、浩二はこの偉大な先生に、聞いてみる。

「そうですね、テクニックはあると思いますが、何だか自信がない感じですね、、、。」

とまで言った水穂であったが、そこから先、激しく咳き込んでしまった。魚の骨でも刺さったかと思われたが、吐き出そうとして強く咳き込むと、また口から朱いものが飛び出してくるのだった。すぐ天童先生が、背をさすってくれたりして、なだめてくれたけれど、指導することは、体力的に出来ず、布団

に倒れ込んでしまった。

と、同時に製鉄所の玄関扉がガラッと開く。

「おーい、材料買ってきたよ。あれれ、返事が無いけどどうしたの?」

杉三がそう声をかけた。

「浩二君、杉ちゃん呼んできてくれる?」

水穂の背中をさすりながら、天童先生が言った。浩二は急いで立ちあがり、杉ちゃんを呼びに行く。

その間に、天童先生は、水穂の背をなでたりたたいたりしながら、とにかくだせるものは出すようにさせていた。少年は、それを真剣に見つめている。こういう現場を見たのは生まれて初めてという顔で。

「何も心配しなくていいのよ。この人がこうなるのは、いつもの事だから。」

なんて、にこやかにいう天童先生であるが、少年は硬くなったままであった。そのうち、天童先生

のハンドパワーの力も借りて、だせるものはすべて出してしまった水穂は、楽になってうとうと眠りだしていた。

「おい、大丈夫かい?またやったの?畳屋さんの御世話になること?」

杉三が、台所へ向いながらそういった。

「そうよ。幸い今回は、大惨事にならなくてすんだわ。布団まで汚すことはしなかったから。」

天童先生がそう言うと、ノロが四畳半にやってくる。あら野村先生、どうしたんですかと天童先生が

きくと、単に杉ちゃんの手伝いのつもりで来たとノロは答えた。

「これでは、レッスンにならなくて、困るのではないですか。」

と、ノロが心配そうに少年にそう尋ねると、

「いいえ、僕は、何て言うわがままを言っていたのだろうと思って、反省しました。僕は学校で、いじめられてて、もう生きているの何て嫌だなと思っていたんですが、ちゃんと生きなきゃダメだって、考え直したんですよ。勿論、ただ、生きなくちゃだめという言葉を聞かされただけでは、何も意味はありませんが、先生は、学校の事とか聞いてくれたから、、、。」

と、小さくなって涙を流す少年であった。

「そうか。学校でいじめられていたの?」

ノロはそう聞く。

「ええ、理由はよくわからないですけど、なぜかいじめにあってしまっていて。」

最近のいじめというのはそうなっている。むかしのいじめであれば、容姿が悪いとか、成績が悪いとか、そういう理由があっていじめに会うことが多かったが、今はそうではない。適当に標的にして、適当にいじめる。ただ、いじめて、嫌がるのがおもしろいだけなのだろうか。

「そうなんです。ですから、幼い時から習っていたピアノで自信を付けてもらいたいと親御さんが思っていたらしいんです。でも、彼の師事していたのは、ヤマハの音楽教室で、そういう所では、熱心な指導はしてもらえないという事で。其れなら、僕の所で個人レッスンの方がいいんじゃないかと、お母さんが僕の所に、連れてきたんですよ。」

浩二が四畳半にもどってきてそういうのだった。たしかに大手の音楽教室は有名ではあるが、専門的に習うとか、マイペースで習いたいという人にはちょっと物足りないのかもしれなかった。そういうひとは、たしかに個人レッスンのほうが早く上達する場合がある。

「まあ、ヤマハを退会する時に、個人では上達しないと講師の先生に、酷く言われたらしいんです。個人の教室ではどうしても集団授業には追いつかないからって。ああいう教室って、僕たちみたいな個人教室を馬鹿にしちゃうんですよね。なんでかな。やっぱり大手の教室ってのは、そういう優越感があるんでしょうかね。」

浩二は、その問題に頭を抱えているらしかった。たしかに、ヤマハと言えば世界にも通用する楽器メーカーの一つだから、そこに在籍している人は、一寸鼻が高くなるのかもしれない。そして、それが嫌になってしまうという、生徒も少なからずいるのだろう。この少年もその一人なのだ。

「なるほど、眠っている水穂さんには申し訳ないのですが、演奏を聞かせてもらえませんでしょうか。」

と、ノロが言った。少年はわかりました、といい、ピアノに向かって、またシューベルトの即興曲を弾き始めた。

なるほど、たしかにテクニックはよくできている。それにしては音量が小さく、たしかに自信がなさそうだ。テクニックはちゃんとあるんだから、もっと自信をもって、堂々と、演奏したらいいのではないか

と励ましてやりたいくらいだ。

「うまいじゃないですか。ただ、もう少し元気のよい演奏を聞かせてほしいですね。」

ノロが言うと、少年はしょぼんとした顔をした。

「でも、ヤマハの先生は、そんな派手な演奏はしちゃだめって、怒ってました。」

「そんなことないよ。音楽は十人十色さ。君の演奏とほかの人の演奏は全く違う物だよ。少なくとも君の演奏に文句を付ける人がいても、支持してくれる人だって、きっといると思うよ。音楽は一人ひとり

違っていいんだ。それを楽しむのも、聴衆の仕事だからね。」

と、ノロは言った。そんなことを言いながら、あの川口真貴子という人も、若しかしたらそれを求めて電話をよこしたのかもしれないと思った。お箏と言えばすぐに思いつくのは生田流。ある意味、ヤマハと同じくらい数多くの教室がある。そこで、変な言い方をされて傷ついてしまっては、同じ生田流の教室ではやっていけるか不安になってしまうのかもしれない。

彼女は、それを経験して、少数派の山田流にやってきたのではないだろうか。

この少年だって、今はにこにこしているけれど、不登校という重大な問題を抱えている。不登校であるというのは外から見ただけではわからない。川口真貴子も、ああして明るくしゃべってはいたけれど、若しかしたら、裏では重大な問題を抱えているのかもしれなかった。人間は重大な問題を抱えていればいるほど、相手の事を思いやれるように出来るから、かえって本人の問題がわからないようにみえてしまうことが結構あるから。

「さあ、フルーツサンドが出来ましたよ。皆さん食べてやあ。」

台所から、杉三がでかい声で言った。おそらくフルーツサンドを乗せたお皿をもって、杉ちゃんは、この部屋にやってくるだろう。

「じゃあ、ちょっと休憩して、杉ちゃんの料理をいただこうか。」

浩二が、にこやかに笑って、水穂を起こした。みんなおいしい料理がやってくるのを待った。


そしてその翌日。

「先生、またお電話です。あの、川口真貴子という方です。」

カルチャースクールの役員は、ちょっと嫌そうな顔をして、また受話器を持ってきた。

「しつこいですね。先生。」

役員はそんなことを言うけど、今度はノロが、そんなことはないと首を振って受話器を取る。

「あの、度たびすみません、川口真貴子です。私、先生に怒られる覚悟は出来ています。生田流の人間が、山田流に寝返るのはいけないってよくわかっています。でも、私はお箏がすきです。この気持ちは変わりません。どうか入門させていただけないでしょうか!」

今度は、初めから真剣な口調で話す真貴子さんに、

「はい、わかりました。いいですよ。」

と、にっこりしながら言う、ノロであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

電話の人 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る