異世界から息子が帰ってこない

有象利路

《三叉路の首元 ―月なき夜―》

 男は走った。身に纏う法衣を脱ぎ捨て、歯を食いしばり、右手を伸ばす。

 眼前で白刃が煌めいている。間に合うかどうか、そんなもの神にしか分かるまい。

 今自分が何を考えているのか、最早男には分からなかった。欲望に基づいているのか、情に基づいているのか、はたまた何も考えられていないのか。

 やがて本能が思考を凌駕し、男は喉が擦り切れんばかりに叫んでいた。

 殺せ、殺せ、殺せ――おれを殺せ!




 男は走った。車のアクセルを踏み潰さんばかりに押し込み、咥えた煙草を噛み千切る。

 全てのものを構わず薙ぎ倒しながら、それでも男の思考は行為と真逆に冴えていく。

 間に合うかどうか、そんなものは知ったことではない。やるべきことは一つだけだ。それ以外のことは些事にも満たない。興奮が熱になり、その熱が男を燃やす。

 やがて本能が思考を凌駕し、男は喉が擦り切れんばかりに叫んでいた。

 殺す、殺す、殺す――俺が殺す!




 男は走った。バイクのギアを最速に切り替え、獣道を駆け抜ける。

 少しでも気を抜けば、そのまま事故でお陀仏だろうが、不思議と今この瞬間だけは自分は無事に辿り着くであろう実感があった。

 こういう時に限って、何故かどうでもいいことばかり頭に浮かんでくる。間に合うかどうか、そんなもの数分後にハッキリするから考えるだけ無駄だ。腹が減った。

 やがて煩悩が思考を凌駕し、男は大口を開けて欠伸をした。

 殺すとか、殺されるとか、そういうのはいいから――もう家に帰りたい。





 ――かくして、物語は始まりを告げる。終幕を迎える、その寸前に。


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