第23話『楽園』

 多くの人々の様々な想いを乗せて、電車は走る。

 疲れた人、期待に胸を膨らませる人、緊張している人。

 急いでいる人、不安な人、楽しいことを考えている人——。

 荒井浩次は、たまたま同じ車内に乗り合わせた乗客たちに何気なく視線を走らせる。

 そして頭の中では、とりとめもない思考に身をゆだねていた。

 隣りの男子学生は、部活の帰りだろうか。今日も、必死で練習したんだろうか?

 帰ったら、母親の用意した温かい夕食が待っているのだろうか。それとも、親も忙しくて、温めたらよいだけになっている作り置きの食事が待っているのだろうか?

 目の前のOL風の女性はどうだろうか。

 結婚しているのか、まだなのか。

 それとも、結婚を意識した彼氏がいて、うまくやっているのだろうか。

 誰かが彼女の帰りを家で待っているんだろうか。それとも、誰もいない一人暮らしのマンションに帰り、真っ暗な部屋にため息をつきながら明かりをつけるのだろうか——。



 人の人生と自分の人生とは、どう違うのか考える。

 貧乏な家に生まれるか、金持ちの家に生まれるか、人並みか。

 生活も大変で紛争も絶えない発展途上国か、物質的に恵まれた先進国か。

 男か、女か。

 勉強ができるか、できないか。

 美男・美女か人並みか、はたまたその反対か——。



 浩次は、『人生はポーカーのようなもの』だと思った。

 皆に5枚、カードが配られる。

 ある者は、あと一枚変えるだけでうまくすればかなり良い役が揃うような、恵まれた手札が配られてくるかもしれない。またある者は、てんでバラバラな組み合わせ……いわゆる『ブタ』で、一度の交換くらいではせいぜいいいとこワンペア、などという運の悪いカードかもしれない。

 もはや、それは自分ではどうにもならない世界。

 オレは、望んで『荒川浩次』として生まれてきたわけじゃない。

 気がついたら、親がいて今みたいに育てられてきて浩次という名前で——。

 とにかく、与えられた手札で戦うしかないのである。

 しかし、もともとの手札が悪すぎれば、いかにゲームの腕があっても、そこには限界というものがある。そこそこよいカードが配られてきてこそ、そこから手腕が生きようというものだ。

 彼は今、自分の不幸な境遇を、そういう考え方で処理しようとしていた。



 結論から言ってしまうと、浩次はリストラされた。

 それは、晴天の霹靂であった。

 社にどんな事情があるか知らないが、当然彼は不服であった。

 訴訟を起こして裁判で戦う道も頭をよぎったが、そんなことすれば当然お金も時間も労力もかかる。そして、絶対に勝てるという保証もない。

 それなら、すぐにでも新しい職を探して働くほうが、よっぽど現実的であった。



 ……妻は、このことを知ったら何と言うだろうか。

 娘は、ただでさえバカにしているオレのことを、いっそう軽蔑するだろうなぁ。



 女子高生である彼の娘、紗優は父親である浩次を嫌っていた。

 洗濯は絶対に別々。風呂は自分が一番。

 たまたま浩次が残業もなく帰ってきたり、休みの日で家族で食事ができるときは、紗優は父親と絶対に視線を合わせない。もちろん、自分からしゃべることなどない。そのくせ、母親には普通にしゃべる。

 だからここ最近、娘とまともにしゃべった記憶がない。

 そこへ、実はリストラされたんだなどと言えば……?

 考えただけで、浩次は胃が痛くなった。



 電車内のつり革広告を見上げると、ジャンボ宝くじの広告がある。

 お金になど困ることのなさそうな西田敏行のリッチな笑顔を見て、ため息をつく。



 ……1億円でもポン、と入ってくればなぁ。



 でも、浩次は冷静に考えてみた。

 例え今1億が入ってきたところで、うちはハッピーになるのだろうか。

 果たして、そういう問題なんだろうか——。



 視線を逸らすと、別の広告が目に入った。



 ……『ハワイ六日間』 格安ツアー、か。



 海外旅行など、新婚旅行でオーストラリアに行ったきりだ。

「そうか。あれから、もう20年もたつのか」

 いいなぁ。

 しばし、浩次は夢想にふけった。

 ハワイのビーチで、妻と娘と一緒に何の心配事も憂いもなく、バカンスを楽しむ自分を想像してみる。刹那、自分がリストラの憂き目にあった事実を忘れ去った。

 彼にとってハワイは、『この世の楽園』のように思えた。

 でも、彼はすぐに現実に引き戻された。

 家族仲良く、なんてことがこの先あり得ないように思えたから。

 そして、自分の降りるべき駅に到着したから——。



「私、やることいっぱいあるんだからね。早く済ませちゃってよね」

 浩次は帰宅後、大事な話があるから、と妻の美智子と娘の紗優をリビングに集めた。

 案の定、紗優にはやれ今度にしてくれだのウザイだのと悪態をつかれたが、さすがに一家の一大事に関することだけに、言わないというわけには行かない。

 やはり、予想していた通りの反応が返ってきた。

「あなた、これからどうするの……。今から職探しったって、またお給料いちからでしょ? ボーナスだって当てにできるかどうか分からないわよね。この家のローンだって残ってるし、紗優の大学進学だって物入りだし……」

 浩次は、一家の主人として、穴があったら入りたかった。決して自分が怠けたせいではないとはいえ、美智子の言うこと一つ一つが深く心に突き刺さった。



「お前、これからどうしてくれるんだよ!」

 キレた紗優は、父親をお前呼ばわりした。

「高卒で働くなんてヤダかんね! せめて私が大学出てからリストラされればよかったのにぃ! 私の頭じゃ国立は狙えないし、奨学金だって狭い門だし……ああヤダッ、考えただけでもイヤ」

 冴えない風貌の浩次から生まれたにしては、結構美少女に育った紗優なのだが、こと父親に関することで文句を言う時だけは、そのきれいな顔も醜く歪むのだった。

「父さんを、許しておくれっ。何とか、頑張るから。絶対仕事見つけるから——」

 浩次は、弱々しく娘に頭を下げた。

 しかし、それがかえって紗優の神経を逆なでしてしまったようだ。

「あ~もうっ。勝手にするわよ!」

 降ってわいた不幸に、やぶれかぶれになった紗優は、ムチャクチャを言った。

「金無くなりゃ、何とでもするわよ! 私もあと一年で18だし、女は若けりゃそれなりに稼げる仕事にもつけるしぃ。お水の仕事もあるし、その他にも色々——」



 おそらく、紗優にしてみれば腹立ちのあまり言った言葉であり、特に深い意味はなかったであろう。しかし、親の心子知らずとは、よく言ったものである。

 今の一言は、甲斐性がない父親とはいえ、今まで育ててくれた親に対して、冗談でも言ってはいけない言葉であった。

「馬鹿っ」

 左の頬をはたかれた紗優は、リビングの端のソファーまで弾き飛ばされた。

 妻の悲鳴が上がる。

 子煩悩な浩次は、紗優が生まれて初めて、娘に手を挙げた。

 それが結果として、紗優を我がままで親を馬鹿にする子に育ててしまったのかもしれないが……

 ズキズキする頬を押さえる紗優の目に、涙がにじんだ。

 やたら鉄臭い味が舌にまとわりつく。口の中を切ったようだ。

 紗優が手で口を拭うと、血の赤が鮮やかに目に飛び込んできた。



「えええええ~ん」

 やがて、メソメソと肩を震わせて泣き始めた。

「悪かったなっ!」

 浩次が家で怒鳴る、というのも、荒井家始まって以来の出来事であった。

「そうだよっ。オレはな、どうせダメな父さんだよっ。お前に必要ともされないクズパパだよっ!」

 男泣きに泣きながら、浩次はそのまま家を飛び出した。

 美智子はその場で膝を折って嗚咽を漏らし、顔を伏せた。

 そして娘も、理性による感情のコントロールがきかなくなり、泣きわめきながらそこらじゅうを転げまわった。

 まさに、絵に描いたような崩壊した家庭の地獄絵図だった。



 夜の9時になった。

 父・浩次が飛び出して行ってしまった時にいたそのままの場所で、母と娘はまんじりともせずに座り込んでいた。

 紗優は、泣きはらした目を上げた。

「お父さん、帰ってこないね」

 浩次がこの場にいたなら、小躍りして喜んだに違いない。

 なぜなら、紗優が高校生になってから初めて、浩次のことを『お父さん』と呼んだからだ。

 「まさか……家出!?」

 美智子も、ハッとして思わず泣きやむ。どうも精神状態のよろしくない時というのは、人間は物事を悪いほう、悪いほうへと考えてしまうようにできているらしい。



 紗優は、夜の街を走った。

 あてがあるわけでも、父の行く場所に見当がついているわけでもない。

 ただ、探さずにはいられなかった。

 何か、体を動かさずにはいられなかったのだ。

 羅針盤のない船のように、フラフラと街を走るしかできなかった。



 お父さん——。

 心の奥底では、多分分かっていたんだ。私が間違ってる、って。

 でも、表面的な嫌悪感ばかりが先に立ってずっと避けてきた。

 悪い、悪いとは思いながらも。

 こんなことにでもならないと素直になれないなんて、どうかしてる。

 自分で怒らしといて、そしてそれを自分でまた探して——。

 そのうち、走る体力もなくなった。

 夢遊病者のように歩く彼女は、ここがいったいどこの何丁目なのかすらも、もう分かってはいなかった。



「……あれ、紗優ちゃんじゃない?」

 すれ違いざまに、そう声をかけられた。

 そこで初めて、今何も気付かずにすれ違った人物が、クラスメイトだと分かった。

「ああ、麻美……こんなに遅くまで、部活?」

 クラスの女子の中で一番背が高い柚月麻美を見上げて、紗優は固い笑みを向ける。

「うん。弓道部は地区予選が近いからね」



 ……クラスメイトとすれ違っても気付かないんだから、私ってばかなりの重傷よね。



「お隣さんは、トモダチ?」

 麻美は、あまり見慣れない女子生徒と並んで歩いていた。

 制服が同じだから、他学年か別のクラスかどっちかだろう。

「ああ、紗優ちゃんには紹介してなかったっけ? 彼女はC組の、藤岡美奈子ちゃん」

 当の美奈子も、よろしくと頭を下げてきた。



 美奈子が顔を上げた時、表情が急に変わっていたので紗優は不思議に思った。

 何を思い出したのか、かなり深刻そうだ。

「あなた、今何か困ってるわね……?」

 そう言っていきなり美奈子が手をつかんできたので、紗優は戸惑った。

「えっ、えっ」

 そこからは、不思議なことのオンパレードだった。

 美奈子は次に、麻美と手をつないだ。

「……なるほど」

 何がなるほどなのか、麻美はやたらとうなずいている。

 暗がりの中で、麻美の瞳はサファイヤのごとく青く輝いた。



 クレッセント・シューター



 ……なにそれ~~~~!



 何も知らない紗優は、たまげた。

 麻美の手に、光の塊でできたような、まばゆく輝く大弓が夜空から降りてきた。

 麻美は道の真正面に向かってその弓を構えると、ギリギリと弦を引き絞り——



 ビュン!



 矢は、どこへともなく飛んで行った。

 不思議なことに、矢の飛んだ軌跡が、青い光の線となって、道に残っている。

「これを辿っていけば、きっとお父さんが見つかるよ」

「エッ、本当に?」



 ……父のことなど一言も言っていないのに、なぜ分かったのかしら? まぁ、不思議な術を使えるくらいだから、私の考えてることが読めたって別に不思議じゃないか。



「早く行ってあげるといいよ」

 初めて知り合った美奈子は最後に、紗優にこうアドバイスするのだった。

「お父さんを見つけたらね、こう言ってあげて。『夢で終わらせずに、それやったらいいよ』って」



「うゎ…ホントにいたよ」

 麻美の放った矢の光の跡を辿り、歩くこと15分。

 隣り街の高架下にある、屋台のおでん屋。

 浩次が淋しそうな背中をこちらに見せて、座っている。

 紗優は、静かに後から父に近付き、何も言わずに父の隣の席に座った。

「いらっしゃい」

 屋台のオヤジは目を丸くした。女子高生の客など、滅多にないからだ。

「さ、さ、さっ、紗優!?」

 あり得ない、とばかりに首を振る浩次。

「おや、娘さんでしたかい? とっつぁんに似ずべっぴんさんですねぇ!」

「やだぁ、オジサンったらぁ。あ、父がお世話になってます~」



 ……今、何て?



「お父さん、この店でおいしいの、何?」

 最後には、これは夢ではないかと自分の頬をつねる始末であった。

 でも、ただ痛いだけだったから、やはり娘は自分を父さんと呼んだんだ、と確信した。

「そうだなぁ、ちくわときんちゃくと卵と大根と、あと牛スジってところでどうだ? あとは、足りなかったらその都度、追加すりゃいいから」

 紗優の目の前に、湯気を上げるおでんの具たちが並べられる。

「いっただきま~す」

 おいしそうにちくわにかぶりつく娘を見て、浩次は思わず目を細めた。

 二人の間に、リストラのことや連れ戻しに来たとかいう話題は一切上らなかった。

 まるで、初めから二人でおでんを食べるために来たかのようであった。



「やっぱり、ここだったのね」

 振り返った紗優と浩次は、またびっくりした。

「み、美智子ぉ!?」

 思わず牛スジをのどにつめそうになった紗優は、ゲホゲホ咳き込んだ。

「かっ、母さんどうやってここが分かったの?」

 母、美智子も負けず劣らず、狸にでも化かされたような表情を浮かべていた。

「それがねぇ、あんたの友達っていう子が来て。麻美ちゃん、だったかな。ヘンテコな弓使って、矢の跡を追っかければ旦那さんと娘さんが見つかりますよ~って」



 ……麻美ちゃん、そこまでしてくれたんだ。



 荒井一家は、不思議な成り行きでおでんの屋台に集結するに至った。



「あ、そうそう」

 紗優は、先ほど美奈子に言われたことを思い出した。父への伝言だ。

「お父さん、何のことか分からないけど……やりたいなぁって思ったこと、夢で終わらせずにやってみたらいいよ、だって。友達が、父さんにそう言えってさ」

「え、何だって」

 浩次は、しばらく目を閉じたまま考え込んでいたが——

「決めたっ」

 突然そう叫んで、立ち上がった。

「なっ、何?」

 何のことか分からないでいる妻と娘に、浩次は驚くべきことを宣言した。

「すぐに荷物をまとめて、手続きも取って、ハワイに家族旅行だ~~~!」



 全員のパスポートを取るのに思いのほか時間がかかったため、すぐにというわけには行かず……結局、実際の出発まで二週間ほどかかった。

 ちょうど春休みの時期にも重なり、紗優も学校を余計に休まずに済んだ。

 三人は、意気揚々と日本を発った。

 あれだけいがみ合いっていた家族が、ウソのように仲良くなった。

 娘も、もはや父をバイキン扱いしなかった。

 それどころか、父と世間話もし、食事も一緒にし、洗濯物を分けることもそこまで徹底してはこだわらなくなった。

 ちょっと極端だが、まぁ人というのは変われば変わるものである。

 リストラという憂き目に遭って、これからどうしようかという時に海外旅行というのもヘンな話だが、逆にこういう時こそ気分転換が必要なのだ、と浩次は思った。



『人生はポーカー。配られる手札がみな違う理不尽な世の中——』

 この前までそう思っていた浩次は、考えを改めた。



 ……人から見て幸せだろうが不幸だろうが、成功だろうが失敗だろうが——

 オレにとっては、やっぱり最高のカードが配られたんだ。

 これが、最良だったんだ。

 愛する妻と娘を見て、そう思った。 

 リストラには遭ったが、オレはやれる。



 ハワイの地で浩次は、自分が本当の 『楽園』 に来たような気がした。



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