第13話『見えていますか』

 闇。



 闇、闇。



 闇以外にはまぶたの肉を通じて、光らしいものがおぼろげに感じれるだけ。 

 ほとんど闇しか見えない私には、音だけがお友達。

 でも今、そのお友達のはずの音が、私を恐怖に陥れた。



 迫り来る車の音。

 減速しそうな感じがない。

「あぶないっ」

 道路の向こう側で、誰かが叫ぶのが聞こえる。

 でも、信号は絶対に青のはずだ。

 盲人用信号が、「とおりゃんせ」 の音楽を鳴らしていたから。



 ……となると、信号無視か何か?



 それが人生最後の思考だなんて、もったいない。

 横断歩道の真ん中で、私は死と直面した。


 

「イカロスの翼」



 その時だった。

 私は、足が地面から離れるのを感じた。

 上へ、上へ。

 空気の塊が、私を包んで空中に引き上げたみたい。

 まるで、意思ある生き物のように——



 それは、時間にすれば20秒に満たなかったと思う。

 でも、私には夢を見ているような長い時間に感じられた。

 ものすごいスピードで一気に空中へ引き上げられた私の体は、ある地点から、ゆっくり下降していった。フワッとスカートがめくれそうになるのを、必死で押さえた。

 やがて、足先が地面につく感覚を得た私は体に力を入れ、無事に地面に降り立った。

 私って、一体どうやって助かったんだろ?



「……大丈夫ですか?」

 女の子の声がした。

 きっと高校生ぐらいの子だ。じゃ、私と同じくらいかな。

 手に、私が放り投げてしまったカバンと、盲人用の白杖を持たせてくれた。

 彼女の手が私の手に触れた瞬間。

 私は、体から何かが相手の中に流れ込んでいくのを感じた。

 女の子は、まるで雷にでも打たれたかのようにブルッと震えた。

 まるで、まるで——

 私の全てを、知られてしまったような感じがした。



「……はい、私は生まれつき視覚がないんです」

 私に親切にしてくれた女の子は、藤岡美奈子さん、という女子高生だった。

 年は、私と同じ17歳だった。

 私がもし盲学校ではなく、普通の高校に通えていたら、美奈子ちゃんのクラスメイトになってたかもしれないね! と笑った。



 美奈子ちゃんに誘われた私は、近くの喫茶店に一緒に入った。

 向かい合った私たちは、まるで旧知の友のようにしゃべった。

 温かいミルクティーをすすりながら、私は言った。

「音楽が鳴ったら、盲人信号が『青』なんだな、って思うんだけど……そもそも青っていうのがどんな色なのか、よく分からないの」

 私は『青』というものを想像してみる。

 青は、水の色。海の色。でも水も海も見たことがない。

 きっと優しい、静かな色なんだろうな。



 美奈子ちゃんには、私の考えてることが分かるんだろうか。

 彼女が、泣いている。

 私には、分かる。

 だって、こんなにも空気が震えているもの。

 物悲しい情の波動が押し寄せてきて、私の肌に痛いもの。



「見えるように……なりたい?」

 それは、とっても静かで、重い声だった。

 とても、高校生の女の子の声には聞こえなかったよ。

 まるで、神様に人生に一度あるかないかの重大な決断を迫られている感じだ。

「なりたい」

 ヘンだよね。

 願ったからってかなうものじゃないことは分かっているのに。

 この時美奈子ちゃんが、本当にそれをかなえてくれる存在のように思えたんだ。

 お母さんやお父さんの顔が、友達の顔が——

 空や海や、山や花や、生き物や人間が見えたなら。

 色が分かったなら、光というものをこの目で見ることができるなら!

 それはどんなにか素晴らしいことだろう。

「……分かった」

 そう言った美奈子ちゃんは、テーブルの上で私の手を握った。



「よく聞いてね。

 私は、見えるようになることが必ずしも幸せだとは思わない。

 あなたは、私には信じられないくらい心のきれいな人。

 目は見えないけど、心の目で本当に大事なものを見ている人。

 世間にはね、目が見えてもあなたの見ているものを見れない人が多いの。

 あなたの目を開くことで、ちょっぴり心配なのが——

 見えるようになることで、あなたが変わってしまうんじゃないか、ってこと。

 でもやっぱり、私はあなたを信じる。

 あなたなら、たとえ目が見えるようになっても、真に見るべきものは何かを決して忘れたりはしない、ってことを——」



 そう語った美奈子ちゃんは、私の目に手のひらをかざしてきた。



「アテナの恩寵」



 焼け付くような熱さが、両の眼球を襲った。

 一瞬ビックリしたが、私はじっと耐えた。

 私の体を、何か大きな力がつくり変えてゆく。

 何か、大きくうねる波のような流れが、体中を駆け巡る。

「なん……だろ? これ」

 私の中に、もうひとつの世界がポン、と現れた感じだ。

 一度に膨大な量の情報が目にあふれて、目がかゆい。

 みんなが言う『目がチカチカする』っていうのは、ちょうどこんな感じなんだろう。

 だんだんと、何だか分からなかったものの輪郭がはっきりとしてきた。

 手を、自分の顔の前にかざしてみる。



 ……これが、手?



 そして、手で自分の頬を包んでみる。



 ……これが、顔?



 そして目の前の女の子を見た。

 私は、生まれて初めて見る人の顔が、私の目を開けてくれた恩人の顔であることが何よりもうれしかった。

 たまらなくなって、私は席を立ち美奈子ちゃんに飛びついた。

 急に、見えていた美奈子ちゃんの顔がぼやけた。

 ああ、きっとこれは涙、というやつのせいだな。

 美奈子ちゃんも、私を両手で優しく抱きとめてくれた。

「これからも、あなたはあなたのままでいてね」

 私と同じように目に涙を浮かべながら、美奈子ちゃんはそう言って微笑むのだった。 



 うん、心配しないで。

 私は、私でいるつもり。

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