第3話『天使がくれた再会』

 黒川智津子がそれに興味を持ったのは、まったくの偶然だった。



 いつもは、地下鉄の改札を通れば脇目もふらずに真っ直ぐ駅のホームへ降りて行くのだが——

 行き帰りの電車の中ではヒマだから、何か退屈しのぎに読む本がほしい。

 でも月末でお小遣いがピンチだから、出来るだけ本や雑誌を買うのは避けたい。

 じゃあ、どうすれば? と考えたときに、「ああ、そういえば 『駅文庫』っていうのがあったっけ」と思い至った。

 それで智津子は、今まで足を向けたこともなかったそのスペースに立ち寄ったのである。



 『駅文庫』というのは、駅構内にある小さな図書館のようなものである。

 乗客の読み終わった本などが、厚意により寄贈されたもので成り立っている。

 JRなどの比較的大きい路線では、こういったものはほぼ見られず、ローカルな私鉄に多い。本の数も、それほど多くはないのが相場である。

 きちっとした貸し出しシステムもないので、全ては利用客の良心に任されている。中にはちゃんと返却しない不届き者もいるため、本の冊数は減ることはあっても、増えることはあまりない。

 だから智津子は、はなからいい本があるとは期待していなかった。

 タダ、というものの価値を知っていた彼女は、まぁ多少はくだらなくても時間が潰れればそれでいいや、くらいの感覚で本を物色した。



「…………!」

 気まぐれに襲った運命のいたずらが、智津子の心臓を高鳴らせた。

 彼女は真剣な眼差しで、手にしたある本のページを必死にめくっていく。

「間違いないわ」

 その本をあわてて脇に抱え、智津子は到着が二分後に迫っていた電車に乗るためホームへ駆け下りた。



 智津子は電車の中でも、そして自分のアパートに帰ってからも、熱に浮かされたようにとにかくその本を読み続けた。

 読み終わるまでは、他の一切の用事が手につかなさそうだった。

 今年で35歳になる彼女は、独身の銀行員だった。だから、仕事以外の時間はすべて自分のために使えたのだ。

「……ふぅ」

 本を読み終えた彼女は、ため息をひとつついた。

 そして、彼女がまだ20代前半だった頃に付き合ったことのある男性の顔を思い出した。

 


 今の仕事に就く前、智津子にはキャバクラ嬢をしていたり、少しばかり風俗の仕事をしていた時代があった。

 その時期に知り合って一年ほど付き合ったのが、神藤壮太という作家志望の男性だったのだ。

 彼はよく、自分の書いた作品を読ませてくれたが、そこそこに面白かったのを覚えている。

 でも、文学界というのは厳しいんだよ、と彼はよく苦笑していた。

 色々な文学賞に応募したりしているらしいのだが、なかなか日の目を見ないようだ。

 そこへ行くと有名人は得だ。「そこそこ面白い」というレベルでも、知名度・そして宣伝効果というアドバンテージの後押しのお陰でそこそこ売れる。

 だから、まったく無名の人間が同じレベルの『そこそこ面白いもの』を書いても、見向きもされないのだ。無名の人間が作家になるには、そこそこではなく「かなり面白い、ハイレベルなもの」を書かなければならないのだ。 

 この時の智津子は気付いてはいなかったが、実は彼女は 『鬱(うつ)』というものに心が侵されつつあったのだ。

 ある日、仲の良かった二人は実にくだらないことがきっかけで口論となってしまった。

 もう、お互いに折れることができぬところまで、話がこじれた。

 そして、そのまま喧嘩別れをした。


 


 そして今。十数年の時を越えて、彼女が手にしたもの——

 それはまぎれもなく、神藤の書いた本であった。

 そしてその内容は、そっくりそのまま智津子との別れを描いたものだった。

 もちろん、名前は変えてある。智津子は『千春』になっている。

 著者名は、本名と変えていない。そっくりそのままである。

 同姓同名の別人、という可能性もあったが、智津子は確信していた。

 話の内容がすべて、地名や店の名前は変えてあるにせよ、本の中で起こる事件や交わしている会話などのすべてが、智津子の身に覚えのあることばかりだったからだ。

 実は智津子は心残りだったのだ。いや、後悔していると言ってもいいかもしれない。



 ……彼はいい人だった。ただ私の精神状態が普通じゃなかっただけ。

 それを自分で把握もせずに、今から思えば実にくだらないことでケンカしたものだわ。



 神藤と別れた後、智津子は病院通いをして、鬱をかなり克服した。

 その後、親友のツテで銀行員に採用してもらって、何とか今日まで暮らしている。

 しかし、神藤とのことを無意識に引きずっているのか、あれから智津子はオトコを作っていない。



 ……できることなら、もう一度彼に会いたい。



 よりを戻せたらなんてムシのいいことは言わないから、せめて一度謝るだけでもいい——

 そう思った彼女は、神藤を探してみよう、と思い立った。



 智津子は神藤のその後の住所も電話番号も、一切の情報を失っていた。

 その本が置いてあった駅で、智津子はこの本を寄贈した人の記録はないかどうかを尋ねた。

 駅員は言った。

「さあねぇ。寄贈してくれた人の名前や連絡先は聞いてないですから」

 一年だけの付き合いの中で、神藤の実家も、彼の知人のことも何も聞かされてはいなかった。

 作家を目指して書くことに専念していたから、きちんとした仕事もなかった。

 苦肉の策で、本の出版社の電話番号に問い合わせてみた。

 あまり聞いた事のないこの出版社は実は 『自費出版専門』の会社で、五年前に倒産しているのだという。



  ……なるほど。だから本にはなっても世間的には話題にはならなかったのね。

  なってたら、私が気付かないはずがないもの。



 当然、出版社の線からも、神藤の消息はたどれなくなった。

 とうとう、智津子は八方塞がりになって、神藤探しをあきらめた。

 探偵事務所などに、探し人を依頼する手もないではなかったが、智津子は躊躇した。

 理由ははっきりとは言えなかったが、そこまでするのは何だか違うような気もしたし、何より智津子が会いたいと思うほどに神藤が会いたいと思ってくれているとは限らないのでは? という懸念があった。

 むしろ、「会いたくない」と思っているかもしれない可能性だってあった。

 智津子は、すべて自分のせいとあきらめた。

 一抹の寂しさとともに、駅文庫の棚に神藤の本を返した。

「……さようなら。本当にこれでお別れね」

 智津子は万感の思いを込めて本から手を離し、目を伏せた。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 学校帰りの女子高生・藤岡美奈子は冬の寒さの中、白い息を吐きながら地下鉄の改札をくぐった。

 彼女はこれから、二駅先にあるファミレスまでバイトに行かなければならないのだ。

「そういえば、買った本って昨日読み終えちゃったよなぁ」

 『退屈』 の二文字が大嫌いな美奈子は、何気に横手にある『駅文庫』に気付いた。

「しめしめ。いいものがあるじゃございませんか」

 さっそく彼女は、棚から面白そうな本を物色し始めた。



「……何だか、ヘンな本ばっかり」

 囲碁や将棋の本だったり、頭の痛くなりそうな文語体の日本文学だったり、まるで聞いたこともない作家だったり。

 今時の女子高生の美奈子が興味をそそられるような本は、無いに等しかった。

 でも、辛うじて美奈子でも読めそうな一冊の本を見つけた。

「なになに。たった一年でありながら、悲しくも美しく燃え上がった男女の恋と悲しみを描く……か。将来の参考になるかしらね?」

 美奈子がその本を手に取った瞬間。

「…………!」

 ビクッと体を震わせた彼女は、ため息をついた。

「また、やっちゃったぁ」



 藤岡美奈子は、ただの女子高生ではなかった。

 彼女には特殊な能力があった。

 そう、それは超能力——。

 超能力にも色々ある。念動力・透視力・テレパシー・サイコメトリー・予知……

 美奈子はまれにみる『すべての種類の超能力の最高レベルを備えたESP(エスパー)』だったのだ。

 注目されたりせず平穏な日常を送りたい彼女は、普段はその力を封印している。

 しかし、ごくまれに、美奈子は自身の恐るべき能力を意図的に使うことがあった。そう、それは困っている人や助けを求めている人を見た時である。

 美奈子は、駅文庫にあった本を手に取った瞬間、サイコメトリー (残留思念を読み取る能力)で、その本にまわつわる物語の全貌を知ってしまったのだ。

 美奈子は一瞬どうするか迷ったが、やっぱりほっとけないや……と独り言を言いながら、構内の公衆トイレの個室に入ると、鍵を閉めた。



「ワイズマンズ・サイト!(賢者の目)」



 美奈子の眼球が青く光った。

 精神を、宇宙空間の人工衛星とリンクさせ、日本全体を検索範囲として、二人の人物の居所を割り出そうとした。女性のほうは、かなり存在を近くに感じるため、楽に見つけられそうだ。だが問題は、男性の方だった。

「……いた」

 案の定、女性はすぐに見つかった。

 彼女は近くの銀行から出てきて、歩道を歩いている。

「男の人のほうは……どうも関東じゃない感じね」

 そう当たりをつけた美奈子は、沖縄から順に恐ろしい速さで広域スキャンを実行していった。

 


「店長、ゴメンなさいっ! ちょっと遅れます~」

 適当な言い訳を考えてバイトの遅刻を職場に伝えた美奈子は、ケータイをカバンにしまいながらゼイゼイと息を継いだ。

 なかなか、根気と精神集中のいる作業だった。

 すでに、探している男は九州・中国地方、関西にはいないということが分かっていた。

「この人、各地を転々としすぎてるから、位置を特定しづらいのよね……やっぱり、片っ端からサーチしていくしかないのかぁ?」

 こうなったら、美奈子にも意地がある。

 何が何でも、男を捜す気だった。



「……は、反側だ」

 それから30分後。

 あまりにも暑いのでコートと制服のブレザーを脱いだ美奈子は、汗だくの顔と背中を丹念にハンカチでぬぐった。シャツが汗で皮膚に張り付いて気持ち悪い。

 よく、探し物をしたらばすべてを探して一番最後に残った場所にあった、という皮肉なケースがあるが、美奈子はそれと同じ運命に見舞われた。

 そもそも、日本の最南端から始めたのがいけなかった。逆にすればよかったのだ。

「北海道の稚内(わっかない)なんて……そんなのありかい!」

 美奈子の絶叫が、女性トイレにこだました。



 6:55PM。

 時刻を腕時計で確かめた智津子は、ソワソワして周囲を見た。

 約束した場所は、駅前の喫茶店。

 アンティークな雰囲気のある、洒落た場所だ。

 茜色の古そうなシャンデリヤの照明が、木目調のシックなテーブルセットを淡く浮かび上がらせている。

 


 智津子は、神藤とここで会う約束をしたのだ。

 それは、まるで夢のような出来事がきっかけだった。

 一週間前、帰宅途中に地下鉄の改札をくぐったところで、智津子は一人の女子高生に声をかけられた。

 会った覚えはない、見ず知らずの子だ。

 その子はいきなり、信じられないことを言ってきた。

 一枚のメモ書きを差し出しながら、「これに神藤さんの住所と電話番号がかいてあります。どうぞ」 と。

「どうして、それを? そもそもあなたなんで神藤さんと私が知り合いだって知ってるの?」

 無数のクエスチョンマークが頭に渦巻く中、それを解決させてもくれないで、少女は「急ぎますので、それじゃあ」とだけ言い残して、立ち去ろうとした。

 去りかけた彼女は思い出したように立ち止まり、固まってしまった智津子を振り返った。

「あ、心配しないでいいですよ。向こうでも、あなたに会いたいって思ってるみたいですから」

 


 紙切れにあった情報から、智津子は神藤に手紙を書いた。

 思いのありったけを綴ったその手紙に対して、返事が来た。

 神藤も、まだ独身であった。そして、智津子のことを思わぬ日はなかった、と。

 是非会いたい、と。

 矢も盾もたまらず、智津子は職場に有給休暇を申し出て、荷物をまとめて北海道に飛んだのだ。



 もう、あの謎の女子高生について、とやかく詮索するのはよそう。

 きっと、あの少女はカミサマがつかわしてくれた子に違いない。

 私の救いのために。

 そして、今こそ私が私自身を取り戻すために。

 真実の愛をつかむために——



 神藤に会えたら、言いたいことはいっぱいあるんだから。

 いっぱい謝りたいんだから。

 そして最後に言いたいんだから。

「私は、やっぱりあなたが好きです」と。



 その時、智津子のテーブルに背後からの人影が差した。

 ハッとした智津子が急に立ち上がったので、椅子がガタン、と音を立てた。



 そして、彼女はゆっくりと後を振り返った。

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