七. 夢の欠片、想いの赤

 誰にだって好みのスタイルがあると思う。当然、私にだってそういうものはあるわけで、先程から私の前を歩いているこの女性にだって何かしらはあるのだろう。

 結局はそれが大きいか小さいかだけの問題である。無論、例外はあって然るべしであるが。他人に迷惑を掛けさえしなければ、それは何だって構わないだろう。他人にいちいち口出しをされる筋合いもない。


 店内は冷房が効いているようで、歩いて来たときに少しばかりかいていた汗が段々冷たくなって引いていく。ほんの少し前までは、何か冷たいものを一気に飲みたい衝動に駆られていたのに、今では少し肌寒いとは不思議なものだ。


 例年より長かった梅雨が明け、今は七月も半ばになろうとしている。風がある時はまだましであるが、気温はもうすっかり夏といえるだろう。

 私はハンカチを取り出すと汗を拭った。放っておいてもよかったが、じんわりした手や格好で本を触るのはやっぱり少し気が引けたからだ。


 そんな時、ふと視線を感じ、ゆっくりと隣に目を移動させる。ばっちりと目が合った人物は、確か先程から私の前を歩いていた女性だろう。

 ああ、あの人も汗をかいているのか、となんとなく察する。しかし、別にそれは恥ずかしいことではない。こんなに暑いのだから、外を歩いていれば汗をくらいかくだろう。それが普通だ。よって、おかしな点を挙げるとすれば汗ではない。人のことを見過ぎている点だ。私なら目が合いそうになれば、慌てて視線を逸らすだろう。


「お話するのは初めてですね」


 それだけ言うと、彼女はクスッと小さく笑った。


「すみません。全く記憶にないようだ」


 改めて向き直ると、私は軽く頭を掻いた。


「いえ、お気になさらずに。貴方は少し目立っているから」


 そう言う彼女は、再び小さく笑っていた。


「なるほど」


 私は一年中、長袖と長ズボンを着用している。肌が弱いわけではない。日焼けをしたくないわけでもない。単純にそういうスタイルなのだ。

 考えてほしい。どちらでもいいような時、長袖を着るか、半袖を着るかを。どちらでもいいのだから、もちろん自分の好きな方を着るだろう。

 私にとってそれが長袖なだけだ。ズボンは単純に半ズボンが好きでない。


 確かに、外を歩いていれば暑いのは認めるが、室内では大抵冷房やらが効いており、長袖でもなんら問題はない。むしろ、半袖のほうが寒い時がある。最悪腕捲りをすればいい。

 もっとも、年がら年中長袖では目立っていても仕方がないことくらいは理解できるので、いちいち指摘されたからと目くじらを立てるようなことはしない。


「あ……」


 何か思い当たったのだろうか。彼女が口元を手で急に押さえ、真顔に戻る。


「気にしなくていい。これは病気でも何でもないよ」


 大方、肌の病気か何かの可能性に思い当たったのだろう。それについては無理もない。


「ごめんなさい。でも……良かった」


 心底ホッとしたように胸を撫で下ろしている。そんな彼女が見ていると、素直だなとそう思えて、私はどこか微笑ましい気持ちになる。


「よく言われる。会社でもしょっちゅうですよ」


 私がそう笑い掛けると、ようやく相手もニコリと笑った。


「貴方が汗を拭いているのが、どうしても可笑しくて。それでつい、じっと見てしまって」

「こんな格好をしているのにって?」

「ええ。私はとても暑がりだから、そんな服装だときっと汗だくになってしまうと思います」


 そう言うと、自身の襟元を軽く触った。


「室内だと丁度いいのでね。どちらでもいいなら長袖を着たいのです」

「あ、それはわかる気がします。でも、それなら私は半袖かなぁ」


 そういう彼女は確かに涼しげな格好をしている。洋服には疎いので、私にはよくわからなかったがきっと実際にそうなのだろう。


「確かに。それもわかる気がします」


 自然と私もそう答えていた。


「わかりますか?」


 私の返事を聞くと、彼女は少し悪戯っぽく聞き返してきた。


「ああ。……わかる気がする」


 私がもう一度頷くと、彼女も軽く微笑んで頷いた。


 ◇


 その後、私たちは近くの喫茶店に入り、特製のコーヒーを飲んでいた。有名なお店らしいが、こうして立ち入るのは初めてかもしれない。

 誘われた時は少々驚きもしたが、急ぐ用事も特になければ他に断る理由も見当たらない。何より、私自身がもう少し彼女と話をしてみたいと思ったのも少しはある。


 そういった事情もあり、こうして共に席につくことになったのだ。

 彼女のほうはよく通っているのだろうか。まるで指定の席でもあるかのように淀みのない足取りで進んでいたのが印象的だった。


「驚きました。断られると思っていたので」

「どうして?」

「だってそれは……普通なら警戒して構えてしまいませんか?」

「確かに、それはそうかもしれないな」


 返事を残し、そのまま席を立つと、直ぐに慌てるような大きな声が追い掛けてきた。


「あっ! あっ! いえっ! 違うんです!」

「違う?」

「はい! 違うんです」


 とりあえず席に座るように促され、私は再び席に戻る。思った以上に焦っていたようで、少し呼吸を乱したように肩で息をしているのが窺えた。

 少し可哀想だったかもしれないと、罪悪感のようなものが滲むのを感じた。


「ちなみに、別に帰ろうとしていたわけではないよ」


 彼女が何か切り出すより先に、謝るわけではないが伝えておく。これ以上何か気を遣わせるのも本位ではなかったのだ。

 その途端に、彼女の顔が朱に染まる。思えばやはり、私が少し意地悪だったのかもしれない。


「ぇ……」


 何か少し口が動くが、声にはならずに消えてしまう……のかと、思ったのだが、それは違った。


「もうっ!」


 次の瞬間には、誰が発したのかがわからないような、凛とし、そして、明確な意思を持った怒声へと変わる。


「意地悪をしたのね! 信じられない!」

「まぁ……そうなるな」


 周囲の人達が一瞬こちらを見たような気がしたが、確かめる余裕はもちろんない。ざわつきも、単なる賑わいかもしれないが、そうでないかもしれない。


「私が止めなかったらどうするつもりだったの?」


 覗き込まれるように見つめられ、思わず目を逸らす。


「答えて」


 段々と強くなる口調に、まるで逃げ道が塞がれていくような感覚を覚える。よもや、“帰っていた”とは答え辛い。

 数秒後の思案の後、私はゆっくりと口を開く。


「さあな。止めて欲しかったかもしれない」


 自分でも訳のわからないことを言っているとは思うが、思えば確かにそうだったのかもしれない。まるで、小説の中の登場人物にでもなったような気分でいたのだろうか。


「私は“夢”を見ない。いや、見れないのだ」


 悪い癖だ。考えれば、確かにそうだったのかもしれない。つい、知らずのうちに物語のような展開に心を惹かれてしまっていたようだ。

 そうだ、私はこの続きが知りたい。早く次のページを捲りたいのだ。


「だから、また“夢”を見たくなったのかもしれない」


 そんな私の話をどう思ったのだろうか。彼女は黙ったままで聞いていた。


 ──人は“本”だ。


 何も現実とフィクションの区別がついていないわけではない。ただ、私は“私”の先が知りたくなったのだ。


「っぷ。あはははっ!」


 急に聞こえる笑い声で我に返るり、思わず呆然となる。一体何が起こったのか。

 一先ず自らの置かれている状況を把握しようと顔を上げると、なるほど、直ぐに理解できた。


「ははっ。まったくだ」


 要は、仕返しをされたらしい。


「あははっ!」


 はぁ、と頭を押さえる私を尻目に大笑いをするその無邪気な姿に、思わず苦笑いが込み上げる。こんなに天真爛漫に笑われては、もう為す術などない。

 そのまましばらくそれを眺めながら、彼女はこんな顔をして笑うのだなと何気なく考えていた。


 一通りの笑いが収まるのを待って、私は話題を変える。これもう懲り懲りだった。


「ここへはよく来るのか? いや、ここじゃないか。本屋のほうだ」


 落ち着いたタイミングを見計らい、彼女へと視線を投げる。多少目立つとはいえ、私のことは知っていたようだし、定期的でないにせよ頻繁に足を運んでいるのは間違いなさそうだ。

 私のほうに覚えがないのは、今は考えても仕方がない。


「よく来るよ。もしかしたら……貴方より来ているかもね」


 私より来ている? と少し驚くが、確かに平均で考えれば、週一、二回くらいしか来ていない。

 張り合うつもりは無いにせよ、本が好きなら確かにもっと通っている人くらいいて当然だろう。


「本が好きなのか?」

「大好きよ。……でも、きっと貴方ほど純粋ではないかな」

「なるほど。ひょっとして、“書く”側だったか?」

「うそ! どうしてわかったの?」

「さあね。“自分の”本が好きなんじゃないか、とそう思えただけだ」


 それも、何となくはわかる。


「わかりますか?」


 困ったように、はにかむ顔が印象的だった。

 色々な笑顔を持つ人なのだと、どこかで私は見蕩れてしまっていたのかもしれない。


「……ああ。わかる気がする」


 しばらくした後、曖昧な笑みで頷いてみせた。それでもう十分だった。むしろ、これ以上ここにいると、どこか調子が狂ってしまいかねない。

 詰まるところ、段々と舞い上がってしまいそうだったのだ。


「では、私はそろそろ行こうと思う」


 そう言い残し、そっと紙幣を置いて席を立つ。楽しい時間というと何だか語弊があるかもしれないが、有意義な時間を過ごせたのは事実であった。


 ところが歩き始めた途端に、待ってと声が聞こえ、反射的に足が止まってしまう。どうやら、呼び止められてしまったらしい。

 困ることはないものの、ほんの少し驚いた。


「二つほどいいかしら?」

「なんだ?」


 私はぎこちなく立ち止まると、続けてゆっくりと彼女を見る。


「こういうものは、受け取らないことにしているの」

「そういうことか」


 今度は伝票を手に取る私に、彼女はまたもや待つように告げる。


「なんだ?」

「焦らないで。もう一つも聞いて頂戴」


 見ると、彼女のほうもやや困ったような表情をしており、その視線を辿ると再び席へと促される。

 私が座ると、彼女もまた緊張したように一呼吸を置いた後、ようやく話を切り出した。


「貴方の名前を教えてほしいの。……その……頼めるなら連絡先……も、かな」

「なんだ、そんなことか」


 何故か彼女は固まるように下を向いて、私と目を合わそうとしない。まるで、恥じらっているかのようなその態度に、思わず目が離せなくなる。

 何かがおかしい。


「……ここでいいのか?」


 差し出された端末を受け取ると、一応の確認する。

 彼女はただ私の言葉に、こくん、と黙って頷く。


「ほら、これでいいだろう」


 端末を返し、その手に握らせると、彼女はしばらく書いてある内容を確かめるようにじっと眺めていた。

 二人して何を言うでもなく、どちらが口を開くのを待っているような空気が流れる。


「ありがとう。いい名前」


 ぽつりと彼女がそう呟いた。

 それになんと答えていいか私はわからず、曖昧に一つ頷いておく。そして、今度こそ席を後にする。

 正直、まだどこかで呼び止めて欲しい気持ちもなきにしもあらずではあった。振り返ることはなかったが、彼女は一体どんな顔をしていたのだろうか。


 今度は扉を出るまで声が掛かることはなく、気が付けば元の本屋へと戻ってきてしまっていた。そして、そもそもの用事……といっても、あってないようなものであるが、それがまだだったことを思い出す。

 途中でふと、代金を置いてきたことを思い出したが、今回ばかりはもういいだろう。もし嫌なら、次に半分返してくれればいいだけだ。

 今度があるなら、それで話題の足し程度にはなるだろう。


 ──まったく、早起きは三文の徳、とはよくいったものだ。

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