二. 夢の道、日々の声
朝の地下鉄は人が多い。
私が乗車する碧庭台は始発の駅から数えて三駅目にあたるのだが、電車が到着する頃には既に当然のように人で溢れている。
幸いにも私の通勤範囲では、ラッシュと呼べるような混雑はなく、そこまでのストレスは感じない。もちろん、それは朝だけでなく帰宅時間の夕方から晩にかけても同様だ。
「くぁぁぁ……」
いつもの車両の先頭にある端のほうのスペースに体を滑り込ませると、壁にもたれ掛かるようなポジションを取る。そして、大きな欠伸を手で隠しながらも一発放つ。非常に眠い。
単なる予想であるのだが、今ここで眠ったとしても“旅立つ”ことはないだろう。別に私自身が夢と繋がっているわけではなく、ミラージェンからの干渉によって繋げられているというのが正しい解釈だ。つまりは今なら普通に眠りに落ちることができるだろう。
──でも、今じゃない。そう、今じゃないのだ。
鉄道のダイヤグラムはそのほとんどが正確だ。それについては疑うことはないだろう。
仮に居眠りをしていても、時間さえ把握できるのならば起きる時間を調整することで、概ね予定通りに活動を再開できる可能性は高い。
何が言いたいのかといえば、至って簡単だ。つまりは、夢の中へと旅立てるほうが都合がいいのである。
例えば、今のように眠たい時には、三十分、いや、多少の保険を入れて二十五分程か。その睡眠がきっちりと約束されるだけでも充分に効果が望めるのではないだろうか。
そんなことを考えながら、携帯端末を起動させる。そう、私は眠らない。いや、外では眠れないのだ。
仮に向こうへ旅立つことができるにしても、こちらに残る私の体が心配である。一応の繋がりは残るものの、細かいことには気が付かない可能性だって大いにある。そういう意味では眠っているのと変わらない。
そんな無用心な真似は出来るわけがないのだ。眠るのは自宅に限る。神経質はおちおち寝てもいられない。
気持ちを切り替えると、手元の端末に目を向ける。そろそろ始めよう。
私はノートアプリを開くと新たな世界に意識を馳せる。毎日の日課である。
前に少し話をしたかもしれないが、私は細々と小説を書き綴っている。元を辿れば、読書好きの父の影響かもしれない。
私の父は元来寡黙な男であったが、その父がよく口にしたある二つの言葉だけは、今も記憶に残っている。
──キャッチボールするか?
──本屋行くか?
この二つである。
これが習慣となって、大人になった今でも、つい足繁く書店へと足を運んでしまう。特に欲しい本があるわけでもないが、その空間に用があるといえば伝わるだろうか。
わかる人にはわかる。そういった類いの話かもしれない。また余談だが、父は未だに健在だ。
──キィィィッ!
一気に現実に戻されるようなブレーキ音と共に車両が大きく揺れるように減速する。
周囲を見れば、バランスを崩している者もちらほらと見られる。停車するわけでもないところをみると、これは単に運転が荒いということだろうか。
もし眠った場合や旅立った場合、こういった揺れに対応できる自信は全くない。ダンッ! と大きな一歩を踏み込む姿が目に見えている。
──……やっぱり電車では、ないな。
そう結論付けると自分の世界に没頭した。
そうだ。飛び込むならこれくらいが丁度いい。
◇
いつも通り定時で仕事を終えると、真っ直ぐに家を目指す。
私は基本的に寄り道をすることがほとんどない。出掛けるにしても、一旦は家に帰って着替えやらを済ませてからだ。
「私だ。今帰ったぞ」
玄関のドアを開けるとすぐに、私の帰りを待っているであろう“そいつ”に声を掛ける。
「おかえりなさい」
奥のほうから声は聞こえてくるが、迎えに出てくる気配は一向にない。
口ではいつも、待っていましたよ、などと言う割にはそんな雰囲気を感じたことは全くなく、そろそろ本当のところを知っておきたい気持ちはある。
「相変わらず散々な一日だった」
「そうですか。では、早速出掛けますか?」
軽く愚痴を溢しながら靴を仕舞うと、着替えを済ませてリビングへと向かう。
「いや、まだ早すぎる」
“眠る”のなら先に他の用事を済ませてからだ。
「そうですか……」
どこか残念そうな声の主は、ソファーの上で丸まるように横になっていた。
「眠れたか?」
「はい。ぐっすりと」
──やっぱりか。
寝ていたらしい。
文句や嫌味の一つくらいは投げてやるべきかと立ち止まるが、考えを改める。こいつもこいつなりに疲れることがあるのだろう。
「……そうか。休めたのか?」
「どうでしょう。でも、珍しい夢を見ましたよ。これもご主人のおかげかもしれませんね。続きを見るのが楽しみですよ!」
こういうところは見た目通りに可愛いものだ。手洗いうがいを済ませると、私はその小型犬の頭を撫でる。“パピヨン”という犬種に似ているので、本当に犬という生物であるなら、こいつはきっとそうなのだろう。
「そうか。ならば、今日はそこに行けばいいのか?」
問いかける声は自然と優しくなっている。我ながら甘いものだ。
「えーっと、どうしましょう?」
行き先を決めるのは基本的に任せている。というより、行きたい場所など特にないし、やりたいことも特にない。ただ、怖いものは苦手なので、悪夢の類いに入り込むことだけは断るように徹底している。
「どこでもいいぞ。なんなら行かなくてもいい」
「出掛けるのは絶対です。あなたの望みを叶えるまでは帰るつもりはありませんよ」
少しの意地悪に、食いつくようにピョンっとソファーから飛び降りると、私のほうへ近付いてくる。
「ああ、それは楽しみだ。もし、君さえよければその望みを教えてはもらえないだろうか?」
悪びれもなく子供のような問いかけをする。当然だ、私に望みなどない。強いていえば働くのを辞めたいくらいだ。
「自分の望みくらい自分で見つけてみてはどうでしょうか。最近は小学生でもしっかりと答えるみたいですよ」
相手も負けじと言い返してくる。むきになるなんて可愛いところもあるらしい。
「小学生と一緒にしてもらっても困るな。未来ある若者と会社の愚痴を溢す大人とでは見ているものや考え方に差がありすぎる」
付け足すとすれば、新しいことに挑戦するような気力だって枯れている。もはや比べるなんてもってのほかだ。そもそも、そんなものがあるならば、自分の力で何とかしている。
「……そういうことではありませんよ」
余程に衝撃だったのか、はたまた冷静に戻ったのか。心なしか少しばかり小さい声になっている。気を遣われるのも本位ではないが、この話題を続ける気にはならなかった。
ひとまず私は気にしないことにし、棚にカップラーメンがあることを確認する。今日は簡単に済ませよう。
あえてミラージェンを見ないように移動すると電気ケトルに水を注ぐ。顔を見なくても私にはわかる。あいつが心配そうな表情をしていることくらいお見通しだ。おそらく小学生ではそうもいくまい。
ケトルをセットし、湯を沸かすためのスイッチを入れると、力強く言い切った。
「愚痴は言う」
駄目だ。油断した。このまま口に出していると堰を切ったように饒舌になってしまいそうだった。
人間には話せないことも、こいつには話せてしまうのだから仕方ない。
「……色々大変なんですね」
「まぁな。何せ睡眠中まで予定で埋まっているくらいだ」
「じゃあ会社と探検、どちらが嫌いですか?」
探検? あれは探検だったのか。しかし、既に答えは決まっている。
「答えるまでもないと思うが」
「……そんなに会社、嫌だったんですか」
一周回って感心したらしい。
「さぁな。もうこの話は終わりだ」
私は話を打ち切ると、カップラーメンに湯を注ぐ。
「でしたら、天職が見つかるように望めばいいのでは? 協力しますよ」
私の中では一旦終わった話であるが、小さいワンコはまだ話を止めるつもりはないらしい。
「断る」
お湯がカップの線を越えないように慎重に返事をする。濃いのも薄いのもごめんだ。
「何故ですか? 何もないならお互いに悪い話ではないと思いますよ」
後は三分、いや五分か。待つだけでいい。
「お互いに? まぁ、今はそれはいい。しかし、そもそも望みとは自分で叶えるものだ。悪いが、他人に叶えてもらう望みなど初めからない」
そうだ。自分で決めなければ続かないことは経験済みなのだ。いわばこれは自戒なのだ。
「そうですか……困りましたね」
「探検には出てやるさ。元気をだせ」
励ますように食事を用意すると、目の前に置いてやる。
そして数秒後、二人は同時に食べ始めた。
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