誘うは夢の国、ミラージェン
山岡流手
一. 夢の色、始まりの音
いつ頃の話だろうか。いや、一度のことではないのだから、いつからの話だろうか、とするほうが正しいのかもしれない。
眠っている時に夢を見た、そんな経験はおそらくは誰しもがあると思う。もちろん、夢を見ない人だっているかもしれないし、夢を見ることが普通だとも思わない。それでも大半はそうだろう。
夢とは、まるで突拍子のないものであったり、ある程度現実を取り入れたリアルなものであったりと内容も様々、多種多様である。
私にしてもそうだ。人並みに幸せな夢を見ることもあったし、途方もない悪夢にうなされた夜もある。難しいことはわからないが、眠る前のコンディションにもよるのだろう。
それでも、朝が来て起きてしまえば、うっすらとした記憶の残滓が残るだけで、内容なんてものは大抵はっきりとは覚えていない。無論、例外だってあるだろうが。
話は変わって、もし夢の世界があるとするなら行ってみたいと思う人はいるのだろうか。
何が言いたいのかといえば、例えば朝から晩まで働いて、ようやく眠りについたとする。本来ならばその時に得られるはずの休息が、今度は夢の世界に切り替わることにより、その結果、精神的にはずっと活動しているのことになりかねないのではないだろうか。くたくたに消耗した日などは苦痛にはならないのだろうか。
私はそんな疑問を抱かずにはいられない人間なのだ。
──私は夢の国には行きたくない。
あの日の私は確かにそう告げた。それは、本当にそう思ったからだ。つまりは本心だった。
しかし、“そいつ”は毎日やって来て、あの手この手で私を夢へと誘うのだ。あなたの望みを叶えるために、と。
もうどれくらい経ったのだろうか。あの日から、私はずっと旅をしている。
◇
聞き慣れた音と体に感じる振動で時間を把握する。そう、アラームだ。
ただし、感じているのは“現実の私”である。今、ここにいる私は“夢の中の私”とでもいえばいいのだろうか。
といっても、細かいことはどうでもいい。他人に話すことなどないのだから、自分の好きにすればいいのだから。
“私”の体は二つある。または、“私”は二人存在する。
今の状態を“眠っている”ということにするのは多少の抵抗があるが、体が休んでいることには変わりはない。
休息が取れているのか? と問われれば、精神が休んでいない以上、否である。……と答えたいが、なんとも悔しいことに切り替わるとスッキリしている部分も多く見られるために、どういう原理かわからないが、骨休めにはなっているらしい。つまりは休息も取れている。
「あなたの一日が始まったようですね。いってらっしゃい」
「ああ。行ってくる」
幸か不幸か今では切り替わりさえも自分の意思で行っている。……勝手にされても困るのだが。
しかし、融通が効きすぎるのも違った意味で困ったもので、絶えず自己管理をしなければならないというのは少々窮屈に感じてしまう。
──さぁ、戦闘開始だ。
そう呟くと、振り返らずに目を閉じた。……これから目覚める為に。
◇
目を覚ますと、すぐに洗面所へと向かう。
まずは顔を洗ってうがいを済ませる。そして、そのまま歯を磨く。
さっぱりとしたところで、少し長くなってきた髪の毛に荒々しく櫛を引っかける。
……少しデコが気にならなくもない。
元々広い額は一時のコンプレックスであったが、年々気にならなくはなっている。大丈夫、進んではいない。元々広いのだ。
最後に電動の髭剃りを走らせ一通りの作業、もとい嗜みを済ませると時間を確認する。
午前七時三十分。タイムリミットは後二十分というところだろう。
朝食にヨーグルトを二つほど用意すると食卓についた。
慣れないものである。ずっと起きている感覚であるのだが、体はそうはいかないらしい。そう、食事が苦手なのだ。元々も朝は抜かないにせよ、軽いものを少量口に入れる程度だったのだが、その性質はしっかりと継続されているようだ。もっとも精神的、というよりは体が受け付けてくれないのだから当然ではあるのかもしれない。
食卓に据え置いた端末を起動させると、手早くネットニュースと天気予報を確認する。今日は雨が降るらしい。
どうやら傘がいりそうだ、などと考えていると、タッタッタッタッと小気味良い音が耳に入る。ようやくお出ましのようだ。
その姿を視界の端に捉えながら、ゆっくりとスプーンを口に運んだ。
◇
私の名前は柑名という。今年で三十三になる。会社員をやっているが、天職でないことは既にこの十年で身に染みてわかった。
文句を言うつもりはさらさらないが、大学時代に就職氷河期というものが到来し、企業からの内定が困難な時期を経験した為、夢をもって仕事に就くという感覚はない。
通勤時間が一時間以内で土日が休み、そして残業がなければどこでもいいだろうと自ら選んだ道がこれである。
このままずっとこうなのだろうかという窮屈さから、最近では学生時代に趣味にしていた物書きを再開するようになった。
性格については、多少理屈っぽい部分があり、それは自分でも認めている。ただし、なんでもかんでもそうだというわけではない。
気になったら、もしくは気に入らなかったら拘ってしまうというだけの話だ。
「いいのですか? そろそろ出なければ間に合いませんよ」
「大丈夫だ。ぎりぎりという意味ならまだ少し時間はある」
通勤手段は徒歩と電車である。自宅から最寄りの碧庭台まで約十分、そして地下鉄に乗り約三十分。最後に到着駅の加賀美町から会社までの約十分と合計五十分程あればなんとかなる。
「走ることにならなければいいのですが……」
心配なのか嫌味なのかは未だに不明だが、いつものことなので特に反応はしないでおく。間に合わなければその時はその時だ。なんなら別に走ってもいい。
「くぁぁぁ……」
押し寄せる欠伸を吐き出すと、大きく伸びをする。
「昨日は少し夜更かしだったということですね」
「そのようだ。特別疲れているというわけではなかったんだが」
このあたりが未だに慣れないところである。ついつい旅立つのが遅くなると、睡眠時間が削れていくことになる。そして、内面的にはずっと活動しているためにその認識を忘れてしまい、翌日に辛い目をみることも少なくない。
そう、現実に戻れば眠たいものは眠たいのだ。とはいえ、定時に旅立つように心がければ、安定した生活を保てることはわかっている。それがまた難しいのだが。
「まだ慣れませんか?」
「そういう問題ではない。いいか? 急激な変化に即座に対応できる人などそうはいないんだ」
不思議と夢の中での不調はほとんど経験していない。朧気に、頭で元気だと思っていれば元気なのだと推測している。だからだ。もし、自分のコンディションを決めることができるとなれば、誰だって最高の状態を希望するだろう。私だってそうだ。それで実際に体調をコントロール出来ているのだから、そうであると信じていたい。
一番の問題は、この落差だ。
想像してほしい。絶好調の状態から一瞬にして睡眠不足の気だるい調子に転落する様を。もし、そんな切り替えを自然にできる者がいるのならば、そいつはもう機械である。なんなら一目見てみたい。
「今日は早めに迎えに行きます」
「そうだな。来なくてもいいぞ」
一言言わずにはいられないのは、性格だろうか。それとも本心だろうか。
「それと……私のご飯は?」
「今用意してやる。忘れてはいないよ」
「わぁ、ありがとうございます」
時計を確認すると、針がそろそろ限界を指している。
「じゃあな。行ってくるぞ、ミラージェン」
そう言い残して私は家を後にする。返事がないのはきっとご飯に夢中なのだろう。
なぜなら“そいつ”は犬なのだから。
──これは、犬と私の夢のような物語だ。
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