第6話 店長

 その後も店長は優しかった。


 珈琲の話や音楽の話、映画や本の話


 店長は優しく、穏やかに話してくれる。


 多分私が彼と喧嘩して傷ついてると思ったんだろうな。


 私は全然傷ついちゃいなかったけど、店長の優しさに甘えていた。


 店長の話は心にスッと入ってくる。


 強いて言うなら、寝付けない幼い娘の為に、優しくお話ししてくれてるお父さんの感じ。


 もちろん私は幼くなんか無いし、話しの内容も子供用の話しじゃない。


 でもそんな風に感じたんだ。


 だから店長の話には男の人特有の嫌らしさが全くない。


 自慢が入ったり、知識をひけらかそうとしたり、更に下心見え見えの話をしてきたりする男達。


 社会に出てるとそんな輩ばかりだ。


 店長の話を聞いていると心が穏やかになる。


 世の中も捨てたもんじゃないと思えるくらい。


 ちょっと大袈裟だけど、こんな人も世の中には存在するんだ。


 顔も声も話し方も好きだ。


 だから楽しくて、嬉しくて、もっと一緒にいて話しを聞いていたかった。


 そして気がついた時には、いったい何時間過ぎていたのか分からなかった。


 もう終電の時間はとっくに終わっていた。


 店長は

「泊まって行けば良いよ」と言ってくれた。


 私はこんなに優しい人に今まで出会った事がなかったので、ある意味感動していた。


 なんだろう?


 母親の無償の愛とも違う包み込まれるような安心感。


 一目惚れとか愛してるとか越えた想い。


 明日香さん、もうわけワカメです。


 私は店長の前では借りてきた猫だ。


 誰かが言ってた

「明日香は黙ってたらいい女なのに」って言葉が頭に浮かんでいた。


 今までは反発してた言葉なのに・・・


 私は店長に好かれたくて、『いい女』に見られたくて、私からはあまり話せなかった。


 多分、店長は私の事おとなしくて無口な女だって思ってるんだろな。




 翌日も優しい笑顔は変わらなかった。


 開店前に店長は私に珈琲の入れ方を真剣に教えてくれた。


 優しく丁寧に。




 そして駅まで車で送ってくれ、あの珈琲豆を持たせてくれた。


 小さな駅のプラットホームで、私は何度もお礼を言い、別れを惜しんだ。


 電車が入って来た。


 私は乗り込む。


 私はハッと気づいて

「店長、お名前教えてもらえませんか?」と言った。


 この時まで名前さえ聞いていなかった。


 明日香さん、完全に舞い上がってました。


 店長は

「俺は健太、君は?」と言った。


「明日香です」と言うのと同時にドアが閉まった。


 聞こえたかな? 聞こえてて欲しい。


 健太さんはあの笑顔で手をふってくれてる。


 私も一生懸命、手をふった。


 電車がカーブして姿が見えなくなるまで・・・


 空いてる車内の座席に座ると、私は声を出して泣いてしまった。






 家に帰ると玄関でお母さんが仁王立ちで待っていた。


「明日香ちゃん、今までどこに行ってたの? お母さん心配で昨日は眠れなかったのよ」と言ってまた泣き出した。


 そうだった。連絡するのをすっかり忘れてた。


 やっぱり舞い上がっていた。


「ごめんなさい。忘れてた」


「忘れてたって・・・ひどい子。お母さん心配で心配で・・・」


 お母さんは泣き虫だ。


 特に私の前ではほんとによく泣く。


 でもそんなお母さんは嫌いじゃない。


 特に今日は心が優しくなってるから、お母さんを抱きしめて

「ごめんね、お母さん。心配させて」と言ってあげた。


 お母さんは

「もう黙って外泊したら駄目よ。お母さん、明日香ちゃんしかいないんだからね。寂しいんだからね」って言ってる。


 やっぱりお母さんがモテモテなの分るわ。


 素直で可愛い人。

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