3. ばらばら
世界は「影」で頑張っている人たちのおかげで動いている。その人たちは自分の頑張りが日の目を浴びるかどうかは気にしていない。むしろ大勢の人たちの幸福を祈り、顔も知らない人たちの笑顔を願って、その一心で自分の役割を果たしている。僕にとってそれは何よりも尊敬すべきことで、そして何よりも追随すべきことのように感じた。僕が見る世界は、それが晴れであれ、雨であれ、曇天だったとしてもいつも明るかった。それは僕も顔を知らない誰かのおかげなのだろう。僕以外が入ってこない世界の代表である僕の自宅は、脱ぎ捨てられたジーンズが僕の抜け殻をそのままにして、散らかった淀んだ世界のまま時が止まっていた。
僕は今、自分のことで精一杯だ。自分の仕事が終われば、その結果に一喜一憂し、うまくいけば美味い飯を食って満足感と共に寝床につき、うまくいかなければ悲しい曲をイヤホンから流して真っ暗な夜の空をただ見つめるといった生活をしているだけだった。今日の夕食に選んだサラダも味がしなかった。途中でドレッシングを大量に足してみたけど、味覚は刺激されても満足感はなんら変わらなかった。時間は止まってはくれない。今こうして流れる曲は僕に勇気はくれても、僕にお金はくれない。生活の質を高めてくれるようで、実は変化を与えてはいない。僕の生活が無機質で、ひとつも色がないのは、最後のサビが終わったところでより強烈に主張された。
とうとう親から催促に近い、僕にとっては半ば脅迫にも近い連絡がきた。
「就活用のスーツは要りますか」
こんな質問、普通の親ならしない。本来なら「いつスーツを買うか」を前提にして話をするだろうから。これは額面通りに僕がこの言葉を受け取らないのを知ってのものだ。買えよ、と。買う人生を選べ、と。この言葉の裏には、親が子供を心配する気持ちに加えて、自分たちの思い通りにいかない息子を咎める気持ちが混ざった本心が隠されていた。親不孝の息子が返した言葉は、相変わらずその思いをふいにするもので
「買っても無駄になりそうです」
随分と捻くれた返信だった。凡庸な無料のスタンプだけが返ってきた。こんな子を産んだことを後悔しているだろうか。地元に就職して一人前に身を立てた僕の兄を誇らしく思うだろうか。自分たちのこれまでの教育を恥じるだろうか。どれも、僕が自分勝手に下した決断のせいだ。近い人々を傷つける結果になるなんて、思いもしなかった。でもそこに慎重さは微塵もなかった。20年の人生の中で、多分一番大きな出来事だ。多くの人の期待を裏切って、多くの人の信頼を失ってでも、僕にはやらねばならないことがある。色のない部屋のベランダで、真っ暗な夜に灯った煙草の赤い火だけが、僕の心を少しだけ落ち着かせた。煙を吐いて、火を消して、また僕は色のない世界へと戻ることにした。
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