第7話 ママと薄い本と小学四年生

 カコは膝の上にきちんと手を揃え、すっと背筋を伸ばして座っていた。僕に気づくとふわっと柔らかな微笑みを浮かべた。


「ごめんごめん、ちょっと混んでて」

「ううん、イチローを待つの、好きだから全然平気」


 少し恥ずかしそうにカコが言う。


 ……可愛い。


 悔しいけど、可愛い。怖いけど、可愛い。

 これからどうなろうが、こんな可愛い子に愛されるんだったらいいじゃないか、という気持ちが膨らんでくる。人生初めての彼女と生涯を添い遂げるなんて、理想じゃないか。


 でも、その一方で、地雷原の中の一本道を歩き続けるような人生に対する不安もある。今のところ、カコには僕を束縛する気はまるでないようだけど、この先どうなるかはわからない。

 場合によっては、バッグの中からカコと夕日の海を見つめるNice boat.なエンディングだってないとは言えない。


「こちらでどうぞ」


 そんな僕の葛藤を破ったのは店員の声だった。

 隣のテーブルにカトラリーを置きながら、店員はスカジャンの男に笑顔を向ける。


 あろうことかミクだった。


 なにやってんだよこいつ、プレッシャーかけすぎだろ。

 だが、当のミクも隣の席は想定外だったのか、呆然とした様子で立ち尽くしている。


「あの、こちらでよろしいでしょうか?」


 不安そうに訊ねる店員に、ミクはサングラスを中指で押し上げつつ、こくこく、と無言で頷く。しゃべったら声でばれかねないもんな。

 ミクは観念したようにソファに座ると、僕に向けてかすかに顎をしゃくった。

 声はなくても、何を言っているのかはわかる。


(さっさとやれ)


 ええい、くそっ。

 僕はピザを切り分けているカコに話しかけた。


「ねえ、ママ?」


 言っちまった! 恐る恐るカコの顔を見る。

 カコはぽかん、と口を開けて停止していた。


「え? ママ……?」


 うわぁ、すっげぇ恥ずかしい。顔にかああっと血が上るのが分かる。


「ごめん、間違えちゃった。い、いつも家でママって言ってるから」


 僕は膝に手をついて俯いた。とてもカコの顔が見られない。自分の肩が羞恥にプルプルしているのが分かる。


「そう……イチローはいつもママって言ってるんだ……」

「う、うん」


 しばしの沈黙。辛い時間だった。

 先に口を開いたのはカコの方だった。


「もし……イチローがよかったら、私のこと、ママって呼んでくれても」


 は?

 なんだよ……この状況は。


 予想もしない言葉に顔を上げると、そこには僕以上に顔を赤らめ、両手を頬に当てて恍惚としたポーズをとるカコの姿があった。きゅっと上げた肩がゾクゾクっと震えていて、蕩けるように口元が緩んでいる。


「大丈夫だよ。大丈夫。イチローは……私が守ってあげる」


 熱に浮かされたようなその言葉に、僕はいよいよもって本能的な恐怖を感じたのだった。


    *


「失敗ね」


 駅近くのマックでは、ミクがぐったりとテーブルに突っ伏していた。

 ランチの後、ゲームセンターで遊び、なんとはなしにショッピングモールやら本屋やらを冷やかしてカコと別れた後、僕はミクと再び合流していた。


「イチローは使えないやつだな、ほんとに」

「そりゃ確かに、愛想は尽かされなかったけど、僕の頑張りも認めてくれてもいいんじゃないかな!」


 どれだけ恥ずかしい思いで「ママ」と言ったと思ってるんだ。

 僕の言葉にミクはむくり、と顔を上げると、何も言わずにスマホの画面を向けた。カコからのLINEメッセージだ。


『イチローが私のこと、ママって!』

『やばい、かわいすぎる』

『もう私ママでいい! ママって呼ばれたい!』

『私がママになるんだよ!』

『フォォォォォォォォッ』


 最後はやっぱり日本一有名な変態のスタンプ。これのせいでカコのメッセージが変態じみて見えてしまう。


「駄目だこいつ……早くなんとかしないと……」


 ミクは親友兼思い人のことを「こいつ」と言い放って頭を抱えた。


 弁護のしようもございませんけどね。


 しかも、メッセージの間から溢れでる愛が演技――望んでもいない僕の演技に向けられていることには甚だ不本意な僕だった。

 まるで、好かれるためには靴でも舐めるような、そんな見境のないさかりのついたチェリーのようで、僕の自尊心プライドはかなりのダメージを受けていた。


「どうも、情けない路線は庇護欲をかき立てて逆効果みたいね」

「……僕の削られた自尊心を返してくれ」


 ミクの身も蓋もない言葉に、僕はがっかりと肩を落とした。「庇護欲なんて、難しい単語知ってるんだな」と感心はしたけれど。


「よしっ、切り替えていくよ!」


 重たい空気を断ち切るようにミクが明るく宣言する。


「次はアニメおたくのロリコンでいくぞ、おーっ」


 拳を突き上げるミクが「ほら、おまえも」って目で見てくるけど、そんな嫌すぎるかけ声に合わせる気にはなれなかった。


    *


 週明け。

 僕は学校でミクから大きな封筒を渡された。


「なにこれ?」

「これからどうするかは話しただろー。次、カコに会ったときにさりげなくそれが見つかるようにするんだよ」

「ふーん」


 僕は封筒の中を覗きこんだ。イラストの描かれた薄い本が数冊入っている。


「マンガ?」

「バ、バカ! 学校で出すんじゃない!」

「ご、ごめん……って、なんなんだよこれ」


 渡されたものを見ようとしただけで、なんで怒られるんだ。まったくもってそんな筋合いはないと思う。


「見るならこっそり、自分の部屋で見ろよ」


 なんだか納得いかないけれど、これ以上中身について追求するわけにもいかず、僕は不承不承頷いた。


    *


 自宅に帰って部屋で中身を見てみると、確かに学校で出すべきものじゃなかった。


 表紙こそ、見覚えのあるアニメやマンガのキャラクタだけれど、中身はだいぶ違った。いわゆるR18の二次創作というものだろう。

 どこで手に入れたんだか。


 僕は腕組みして、机に並べたその表紙を眺めた。

 これを、僕の愛読書としてカコに見せるのか?


 もし、僕がこの本をほんとに愛しているのであれば、その行動に対してもなんらかの救いがあるだろう。自分はこれが好きなんだ、と胸を張るにしても、「知られちゃった」と後悔するにしても。


 でも、あいにく僕にはその趣味はなかった。原作となったアニメやマンガだって、見かけたことはある、程度であまり知らない。


「お兄ちゃん、ごはんだよー」

「はっ!?」


 そのとき、ドアが勢いよく開いて那由多が入ってきた。

 机の上には薄い本が数冊、広げられたままだ。僕はくるり、と椅子を回転させると、机の上が見えないよう、背中でガードしながら那由多に向き直った。


「ど、どうしたの、なゆ。僕はなにもしてないよ」

「なに言ってるの、お兄ちゃん?」

「だから、なゆに隠し事なんて、なにもしてないよ?」


 那由多が不思議そうに首を傾げる。

 その方向にあわせて椅子を回転させる。


「机の上になにかあるの?」

「なにもないよ! えっちな本なんか、僕の部屋にあるわけないだろ?」

「お兄ちゃん?」


 ハイライトのない瞳で僕をじっと見つめる那由多。僕は那由多の目を見返すことができずに目を逸らす。


「ごはんだよ? お兄ちゃん」

「あ、そうだったね。うん、すぐ行くから先に……」


 ドアの方を手で示す僕に、那由多はにっこりと笑って言った。


「お兄ちゃん、

「はい……」


 僕は諦めて腰を上げる。

 那由多の視線が僕の机の上に向かい、そして一瞬目を大きく見開いたかと思うと、瞳孔がきゅっと狭まった。


「ごはんのあとにお話があります。お兄ちゃん」

「はい……」


 夕食後、僕の部屋には小学四年生に正座で説教される高校一年生の姿があった。


    *


「なゆも分からず屋じゃありません。お兄ちゃんがこーゆーのに興味を持つ年頃だとゆーことも知ってます」


 小学四年生の説教は容赦がなかった。いつもと違う敬語が怖い。


「でも、お兄ちゃんは今、とっても大切な時期でしょ?」

「大切な時期?」


 高校一年の一学期。受験を終えて、大学受験までまだまだある。青春を謳歌するのに一番いい頃合いじゃないか。

 那由多はまったくもう、と腰に手を当てる。


「お兄ちゃんには今、彼女さんになりそうなクラスメイトがいるのでしょう? そんな人にお兄ちゃんのとくしゅせーへきがばれたらどうなると思うんですか」


 そのために渡された本なんだけど……。


 那由多は僕の目の前の薄い本をとんとん、とまとめながら言った。


「お母さんには内緒にしてあげます。だから、これはなゆが預かります」

「ち、ちょっと待って。それは困る。預かりモノなんだよ、それ」

「だったらなゆが返してあげます。そのときに『お兄ちゃんに変な本を貸さないで』って文句言います」

「いや、あーえーと、じ、じゃあさ、今度の土曜日までなゆが預かってよ。土曜日にその人に会うから、直接返すよ。それならいいでしょ?」


 とりあえず、土曜日のカコとのデートのときに手元にあればいいのだ。そのあとミクに返してしまえばいい。どうせ反省会があるだろうし。


「お兄ちゃん……?」

「え、なに?」


 那由多が怪訝そうに僕の顔を覗きこむ。


「土曜日デートって言ってたよね? そんな時間あるの?」

「うん、それは大丈夫」

「その人に会うのはデートの前、後?」

「後、かな?」


 僕は適当に答える。那由多はなぜかじぃっと僕の顔を見つめて訊いた。


「その人、女の人?」


 ぎくっ。

 な、なんで今の会話でその結論に達するんだ?

 思いもかけない那由多の指摘に僕は目を逸らしながら答える。


「な、なんでそんなこと訊くのかな」


 那由多はやれやれ、と答える。


「デートの後に別の予定を入れるなんて不自然だもん。そんなことしたら、せっかく雰囲気がよくなってきたところでお別れになったり、水を差しちゃうかもしれないでしょ」

「それは確かにそうかもしれないけど、別に時間まで約束してないかもしれないじゃないか」


 実際そうだしね。

 でも、那由多はまったくひるむことなく続けた。


「そんなことはどうでもいいの。その後の態度でばればれだから」


 まるで僕がカマかけられてばれちゃったようなことを言う。こう言っちゃなんだけど、こないだミクに褒められたとおり、僕は口のうまさにはちょっとばかり自信があるのだ。小学四年生にバレるようなヘマをするはずがない。


 那由多は薄い本に手を伸ばし、ぱらぱら、とめくるとはーっとため息をついた。


「お兄ちゃん、なゆ、お兄ちゃんの彼女さんと仲良くできるかなあ……」


 そのときの僕は那由多の勘違いにまだ気づいていなかった。

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