第6話 うれし恥ずかし初デート

 待ちに待った土曜日。人生初めてのデートの日。


 いつもより早く目覚めた僕は、鏡の前で何度も髪型をいじっては戻し、いじっては戻し、を繰り返していた。


「おはよお、お兄ちゃん」


 眠たそうな目をこすりながら洗面所に入ってきたのは那由多なゆた。趣味は料理、将来の夢は可愛いお嫁さんという小学四年生。

 年が離れているせいもあって、僕にとっては可愛い可愛い、出来のいい妹だ。那由多は少しばかり寝癖のついたショートボブを手ぐしで整えながら鏡に向かう。


「おはよ、なゆ」

「ふぁあ、今日は早いんだね、お兄ちゃん」

「ああ。兄ちゃん、今日はクラスの人と映画観に行くんだ」

「そうなんだ。じゃあお昼はいらない?」

「うん、食べてくる」

「そっか……そのクラスの人って、女の人なんでしょ?」

「ん、まあね」


 少しはにかんで答える。

 那由多はするり、と僕の脇の下をくぐるように洗面台に顔を出して、顔を洗った。


「なゆ、その人と仲良くできると思う?」

「その心配はまだ早い」


 僕は苦笑する。那由多は鏡の中の僕を眺めて言う。


「あんまり気負わない方がいいと思うよ。ちょっとワックスで毛先を遊ばせて、軽さを出すくらいでいいんじゃないかな。お兄ちゃんはそのままで十分かっこいいんだから」

「そ、そうか?」

「ほら、ちょっと貸して」


 言われるまま、ワックスを渡して膝をつく。那由多は慣れた手つきでワックスを伸ばすと、僕の髪になじませる。


「ほら、こんな感じでどう?」


 鏡の中には学校がある日よりも少しだけ、オフ感のある僕の姿があった。


「うん、いいね」


 小学四年生のヘアセットにサムズアップで答える高校一年生だった。


    *


 時刻は十時半。待ち合わせ場所の最寄り駅に着くなり、スマホが鳴動した。


『見てるからな』


 ミクからのメッセージだった。通知だけ見てそっとスマホをポケットにしまい、あたりをきょろきょろ見回す。

 だが、それらしい人影はない。


『わかってる』


 簡潔に返事を返すと、僕はふふふん、と鼻歌交じりで出口への階段を駆け上がった。そんなはったりに騙される僕じゃない。


 二人きりならどうにだって誤魔化しは効く。しれっと、「どうだった? カコは僕にがっかりしてた?」なんて、あたかもミクに従って行動したかのように、後で訊けば済む話だ。

 と、軽く考えていたところに再びスマホが鳴動する。


『映画館は東口。そっちは反対側』


 僕は案内板を見上げる。階段の先は西口だった。


「マジで見てんのかよ……」


 僕はがっくりと肩を落として、のろのろと東口の出口を目指した。


    *


 カコは白いフレアスカートにボーダーのカットソーという出で立ちで、映画館のロビーに佇んでいた。初夏の青空にも、都会の街並みにもしっくりと馴染みそうだ。

 僕の姿に気づくと、カコはたたたっと駆け寄ってきた。


「ごめん、待った?」

「うん、すごく待った!」


 満面の笑みで答えるカコに、思わずずっこけそうになる。


「ごめん、えと、遅刻はしてない、と思うんだけど」

「うん。まだ約束の時間まで二十分もあるわ」

「……いつから待ってたの?」

「ここに来たのは三時間くらい前かしら。待ってたのは一時間くらい」

「そっか」


 それだけ僕とのデートが楽しみだったんだと思うと、嬉しいのが半分と、申し訳ないのが半分。でも「待った?」と訊かれたら普通、「ううん、今来たとこ」と返すもんじゃないの?


「なんでそんなに早くから待ってたの?」

「だって、せっかくなんだもの。待つことも楽しまなきゃと思って」

「へ、へえ」

「すごいの。時計を見て、イチローのこととか、今日のこととか考えて、それから時計を見るとね、最初は十分くらい経ってるんだけど、それがだんだん短くなっていくの。何回時計見ても、一分しか経ってなかったりするのよ」


 いつもと違う状況シチュエーションがそうさせるのか、今日のカコはやたらとテンションが高かった。


「じゃあ、待つためにわざと早く来たの?」

「うん!」


 なんだか遅刻するよりも、早く来たことの方が悪いような気がしてきた。


「カコだったら、約束をすっぽかされることでも楽しんじゃいそうだね」

「それは先週楽しませてもらったわ」

「えっ?」


 僕の軽い冗談に、思いもしない返事が返ってくる。


「イチローのこと、喫茶店が開店してから閉店するまでずっと待ってたの。閉店間際にマスターが気の毒そうに『これ、おごりなんで』ってコーヒーを淹れてくれたときがあの日のハイライトね」


 ちょっと待て。僕、そんな約束してない……と思うんだけど……。なにか行き違いがあったんだろうか。


「その、僕、そんな約束した覚えがなくて……もし、思い違いしてたんだったらごめん」

「あ、大丈夫よ。アポなしで私が勝手に待ってただけだから」

「どこで?」

鶯谷うぐいすだに

「ぜんっぜん縁のないところなんだけど!?」


 そんなのアポなしとか言わないだろ!


「すっぽかされるのって、とっても刺激的だったの。一日中イチローのことばかり考えて、ものすごく思いが深まったわ」


 だからすっぽかしてないってば!


 つまり、なんだ? カコは勝手に自分が待ちぼうけを食らわされていると設定して、それで僕に対する思いを強くしたってこと?

 なんだこの百花繚乱な萌姫みたいなのは……。


    *


「面白かったね」

「ええ、とっても有意義だったわ」


 映画を観終えた僕たちは少し遅めのランチをとるべく、近くのサイゼリヤで向かい合って座っていた。初デートでサイゼリヤなんて、というツィートはよく見かけるけど、大人は大変だねーとしか思わない。


「蝶の形の痣を見せるシーンは、今思い出しても鳥肌立つよ」

「イチローがぶるっとして肩を抱いたシーンね。あれはよかったわ」


 カコは思い出すように右手を頬に当て、唇で軽く小指を挟んだ。


「それから、耕造が金儲けをしていた理由がわかったところも感動したなあ」

「イチローはポケットからハンカチを出してこっそり目元を拭いていたものね。スクリーンの明かりに照らされた瞳が涙で濡れてて感動的だったわ」

「……」


 カコの唇がふわっと開き、うっとりと虚空を見つめる。


「ご、ごめん。ちょっと失礼」


 僕はたまらず席を立つ。


 トイレの洗面台で顔を洗うと、濡れた顔のままで鏡の中の自分を見つめた。

 こんなことを言うと自意識過剰だ、なんて嗤われちゃうかもしれないけど、でも。


 カコは映画じゃなくて、僕ばかり見てたんじゃないだろうか。


 今更ではあるんだけど、カコはやばい子のような気がしてきた。

 女の子と付き合う――それも、向こうからものすごく愛情を注がれて付き合う、なんてことは彼女いない歴イコール年齢である僕には初めてのことだし、とても嬉しい。

 もともと素材はクラス一(定木評)というカコだから、自尊心も大いに刺激されるし、日に日に可愛い、と思う気持ちも強くなってきている。


 でも、その愛情の強さ、向かっている方向のわけわかんなさに恐怖を感じ始めている自分がいることを、僕は今、はっきりと認識した。

 自分のどこが好かれているのかわからない。ゆえに、愛憎が逆転し、自分がいつ、その憎悪の対象となるかもしれない恐怖。


 今まで「彼女いない歴イコール年齢」で来るものを拒む理由なんてないだろ、とお気楽に考えていた僕だったけれど、これはやばい。


 ふっ。


「もてる男って、こんな気持ちなんだな」


 僕は鏡の中の伊達男に自嘲的な笑顔を向けてつぶやいた。


    *


 トイレから出ると、僕は順番待ちをしていた人にいきなり首根っこを掴まれた。

 ベースボールキャップにスカジャン、ジーンズの小柄な男。サングラスで目元を隠しているから表情が読めない。


「な、なんですか」

「ちょっと、全然ノルマこなせてないじゃん」

「え、人違いじゃ……」


 男はサングラスを外した。


「って、ミク!?」

「バカ、声が大きい」


 男じゃなくてミクだった。いつものギャル巻きはキャップに押し込んでいるようだ。ミクはキャップのつばを指で下げ、周囲を気にするように言う。


「どうすんだよ、このままじゃ愛想尽かされるどころか、ずぶずぶのどろどろ一直線じゃん」

「う、うん。どうしよう……」


 つい素直な反応を返してしまった僕に、ミクは意外そうな声を上げる。


「なに言ってんだ今頃。ちゃんとデートプラン渡しただろーが」


 そうだった。


「あーでも、僕、自分から別れてもいいんだけ」

「っざけんなバカ」


 ミクは僕の襟元をつかむ。


「あんたがカコを振ったら、カコはどうするかわかってる?」

「わかんない……」


 わかんない。ほんとにわかんない。

 ミクははぁ、とため息をつく。


「ねえ、ミク。ほんとにわかんないんだ。もし僕に振られたらカコはどうするの?」


 ミクは諦観気味に顔を横に振る。


「あたしも……わかんない」

「はあ? なんだよそれ! 自分もわかんないのに今の態度か!」

「う、うっさい! わかるわけないじゃん! わかると思うのかよ!」


 確かに。


「そうだね。ごめん」

「……あたしの方こそごめん。ついかっとなった」

「それで、ミクのデートプランだとうまく別れられる――僕が振られる、と思っていいんだよね?」

「少なくとも、あんたが刺される確率は低くなると思う」

「低くなるだけかよ!」


 反射的に返しながらも、僕は少しばかり、自分の中でミクの株が上がっていることに気がついた。やり方はともかく、ミクは僕の身を案じてくれている。


「その……ありがと、ミク」

「は? なんでよ」

「僕のこと、心配してくれてたんだね。てっきり、自分のためだけにあんなこと言ってるのかと思ってた」

「ち、ちっげーし! カコを犯罪者にするわけにはいかないだけだし! 全っ然、あんたなんかどうなっても、全然、全っ然、全っっっっ然、気にならないし!」


 ミクはなぜか赤い顔で僕の首を締め上げる。


「ともかく、いい? あんたも死ぬ気で愛想を尽かされな? あたしもできる限りフォローするから」

「フォローって?」

「あんたがマザコンだとか、ロリコンだとか変態だとか、ことあるごとにみんなに言っとく」

「だからなんで僕の学園生命を殺しにくるんだよ!」

「ほら、もう戻りな。遅いとかなんとか訊かれたら『うんこしてました』って言えばいいから」

「やだよ!」


 僕はミクに背を叩かれて、渋々席に戻った。

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