第8話 嬉しさも中くらいなりセカンドデート(字余り)

 あっという間に土曜日の朝。


「お兄ちゃん」


 朝食の後、那由多はするりと身を滑らせるように僕の部屋に入ってきた。外を警戒するかのようにドアを静かに閉じる。父親は僕らが起きるよりも早くゴルフに出かけていて、母親がリビングで観ている情報バラエティ番組の音だけがかすかに聞こえていた。


「これ、約束だったから」


 そう言うと那由多は見覚えのある大きな封筒を差し出した。中にはミクが僕に押しつけた薄い本が入っている。

 小学四年生の妹から薄い本を受け取る高校一年生――つまり僕はおずおずと訊ねた。


「その、中、見た?」

「う、うん」


 那由多はドアに背をつけたまま、居心地悪そうに目を逸らす。


「あ、あのさ、ほんとに兄ちゃんのじゃないんだ」

「大丈夫。お兄ちゃんがどんなに堕ちても、なゆはお兄ちゃんの妹だから」

「だから、兄ちゃんの趣味じゃないんだってば!」


 そう言うと、那由多ははっとした様子で僕の方を向いた。大きな瞳には涙が浮かんでいる。


「ごめんね、お兄ちゃん。お兄ちゃんの趣味じゃない妹で」

「そっちじゃなあい!」


 僕は心の中でミクに恨み言をつぶやいた。

 恋人のみならず家庭まで壊す気か。


    *


 傍から見れば週末ごとにデートを重ねるうらやま展開。でも、心の底からは喜べない自分がいた。


 僕はその原因の、バッグの中の薄い本に思いを馳せる。今日、どこかのタイミングではこれをカコに見せなければならない。きっとミクもどこか近くで見張っているんだろう。今日はまだコンタクトをとってきてはいないけれども。


 僕は浅草駅で電車を降りると、隅田川に向かって歩を進めた。


「や、やあ」


 隅田公園の石碑の隣で、当然のように先に待っていたカコに声をかける。怖いから「待った?」とは訊かない。三時間くらい待っていてもおかしくないし。


「おはよう、イチロー」


 今日のカコはストローハットにガーリーなロング丈スカート。手には大きなバスケットを下げている。ばくん、と心臓が跳ねる。これはひょっとして手料理ってやつではないですかね!?

 はやる気持ちを悟られないよう、何気なく訊いてみる。


「そそそそそれって、ももも、もしかしてお弁当だったりする?」

「う、うん。あ、でも、食べなくてもいいし、どこかレストランとかの方が良ければそちらでもいいから、だからその」


 カコはあたふたと言い訳のように赤い顔で言う。どこまでも控えめな彼女が作ってくれたお弁当。きっといろいろ悩んで、考えて作ってくれたんだと思う。僕のいないところで、僕のことを考えて作ってくれたお弁当が楽しみでないはずがない。

 僕は弾む声で答えた。


「ううん、食べたい食べたい! すっげぇ嬉しい。カコの作ってくれたお弁当楽しみだな」

「あ、ありがと……」

「なんでカコがお礼を言うのさ。言うのは僕の方だろ。ありがと」


 僕の言葉を聞いたカコはびっくりしたように大きく目を見開くと、手で口を押さえた。


「嬉しい……私が自己満足で作ったお弁当なのに……」

「だって、今日二人で食べるために作ってきてくれたんでしょ? 自己満足だなんて思わないよ」

「えっ? 二人で……」


 そこ引っかかるとこ?


「そんなこと、考えもしなかった……。イチローが食べるところを妄想……想像して作っただけだったから」

「なんでだよ。先週は二人でサイゼで食べたじゃないの」

「だって、あれはお店の料理で、私もお客だったから。下僕がご主人様の料理を作ったからと言って、それを食べていいなんてことにはならないわ」

「カコは下僕じゃないよね!?」

「下僕じゃ……ない……?」


 すごくショックを受けたような顔を向けるカコ。なんでだよ。


「お、お願いします! なんでもします! 悪いところは直します! だから、捨てないでください!」


 カコは必死に僕に訴えた。

 待て待て。

 いつの間に自分を下僕ポジションに収めてるんだ?

 ……心当たりがあるとしたらミクしかいない。あいつ、なんか変なこと吹き込んだんじゃないか? しかもそれが盛大に誤爆したような気がしなくもない。


「お願いです! もう一度チャンスをください! 舐めていい、と言われれば足の指の間も舐めます!」

「ち、ちょっと待ってカコ」


 最後の言葉はちょっとおかしいような気がしたけれど、僕の方も土下座すらしそうな勢いのカコを必死で止める。

 道行く人々の視線が痛い。


「お願いです! お願いです!」

「いやだからカコ聞いて……」


 カコは両手を強く握りしめ、祈るように僕にすがる。訴えることに必死でまるで人の話を聞いていない。回りには足を止める人まで出てきた。


 くそっ。僕は勇気を振り絞って叫んだ。


「ママ!」


 はっとしたようにカコが目を見開く。


「僕のママになってくれるって言ったのは嘘だったの! ママ!」


 カコはしばらく固まっていたが、ふっと正気に戻ったように表情を和らげた。


「……そうだったわね。おかしいわね、ママ、とっても大事なことを忘れてたわ。ママ失格ね」


 全然正気じゃなかった。

 憑き物が落ちたように泣き笑いするカコを見て、僕はもう自分がかなり後戻りできないところまで来てしまっていることを自覚した。


「最近の若い子はすごいわねえ」「変態は変態を呼ぶんだな」「変態同士、お似合いね」


 回りの人たちが口々に言いながら去って行く。カコは自分の都合のいいところだけ聞き取って「お似合い……だって」と頬を赤らめる。


 ……もうどうにでもしてくれ。


「じゃ、行こっか。それ、僕が持つよ」


 僕は話を切り上げるとカコに手を差し出した。


「え、いいよ。だって重いし」

「大丈夫大丈夫。ちょっとはカッコつけさせてよ」


 そう言って僕がバスケットに手を伸ばすと、弾みで肩にかけていたバッグがずり落ちた。バランスを崩したバッグからぱさっ、と薄い本が落ちる。


「「……」」


 こんなに早く薄い本を見せつける羽目になるとは思ってもいなかった僕だった。


「あ、いやこれはその」


 薄い本を拾い上げたカコはじっと表紙を見つめる。

 裏返して凝視。もう一度、表紙に返して凝視。ぱらぱらとめくって無表情に僕を見つめる。


「さ、さあ、もうすぐ時間だから行こっか」


 僕はへらへらとよくわかんない笑顔で誤魔化しながら薄い本を奪うと、カコを促して船着き場に向かった。カコは納得いかないような、怪訝そうな顔のまま僕の後をついてきた。


    *


 水上バスは宇宙船のような、SFチックなデザインだった。

 僕は船内で買った二人分のコーヒーを持って、遊歩甲板に出る。


 梅雨が明けたばかりの七月はまだ熱量も穏やかで、手をかざさなくても空を見上げられる。

 青白い空には薄い雲が流れていた。

 アサヒビールの金色オブジェ。その向こうにはスカイツリー。

 僕らが普段暮らしている東京も、さすがは首都。ほんのわずかばかり足を伸ばせば有名な観光地だらけだ。日常から少しだけ外れた景観は小旅行の雰囲気で、さっきの薄い本の印象はすっかり薄くなった。はずだ。


 船の遊歩甲板は風が強くて、カコは脱いだストローハットを胸に抱えていた。

 乱れた後ろ髪を耳の後ろに流すと、小さめの耳が露わになる。

 風を受けて細める瞳をそっと覆う長い睫毛まつげ。カコは微かに笑みを浮かべて川面かわもを眺めている。


 まるで絵画のようにすべてが調和していて、僕の胸はずきん、と高鳴った。無防備な表情を晒したまま、それでも目が離せない。


 僕の視線に気付くとカコは、はにかむように口元を緩めた。金縛りが解けたように、僕は再び歩き出す。


「水のそばって好きなの」

「へえ。マイナスイオン効果とか?」

「どっちかというと音かな。水の流れる音」

「落ち着く?」

「うん」


 僕はコーヒーをカコに手渡すと、穏やかな気分でその隣に佇んだ。船が切り裂くように残していく波の跡を二人で眺める。


 いいぞ、いいぞ。なんだかこう、熱く燃え上げる感じじゃないけれど、ゆったりと互いの存在が居心地良い、そういう「いい感じ」だ。

 これはもうミクに確認するまでもなく、「付き合ってる」と言っていい。

 先が思いやられるようなスタートを切ったデートだったけれど、今日はいい日になりそうだ。


「ね、イチロー」

「なんだい、カコ」


 僕の口調もこころなしか恋人的で。余裕のある大人な感じでコーヒーに口をつける。


「さっきの薄い本はどこで手に入るの?」


 ぶはぁっ! 盛大にコーヒーを吹く僕だった。

 いろいろ台無しだった。お互い様だとは思うけど! 思うけどさ!


「ど、どうして?」

「私、あの本読んだことないの」


 そうだった。

 僕はカコが図書室で僕が読んだ本を片っ端から借りていたことを思い出した。カコが読んだことのない本なら、当然読もうとするに決まってるじゃないか。

 ミクはそこまで読んでたんだろうか。もし読んでたとしたら相当タチ悪いな。


「さ、さあ。本屋さんで売ってるんじゃないかな」


 僕はしどろもどろに答える。


「ISBNが付いてないのに?」

「え? アイエス……?」

「インターナショナル・スタンダード・ブックナンバー」


 ああ、あれね。……ってなるかい。

 なんのことかよくわからないけど、よく考えたらこれ、内容もアレだし、著作権とかいろいろやばいんじゃないだろうか。普通の本屋で売ってるようなものじゃない気がしてきた。


「わかんない。ごめん、実はこれ借り物なんだ」

「誰から借りたの?」

「ど、どうしてそんなこと訊くの?」


 貸してくれたのはミクだなんて、言えるはずがない。


「その人に貸してもらおうと思って」

「じ、じゃあいいよ、これ貸すよ」


 僕はバッグを掲げた。


「いいの? 又貸しになるけど」

「大丈夫大丈夫、ちゃんと僕から言っとくから」

「――でも、その人に迷惑かけちゃうね」

「いいよ、それくらい」


 もっと迷惑かけたって、それでもまだ僕の貸しの方が大きいはずだ。


「そうだ! ね、今日一日だけ貸して! 明日、持ってくるから!」

「え、それって」


 二日続けてデート、てことか。

 なんか、こういうの嬉しいな。自分から二日連続では誘いにくいけれど、向こうから言ってくれると「ああ、カコも嫌じゃないんだ」と分かってほっとする。


 ……その理由に目をつぶれば、だけれど。

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