27  呪縛との決別


     呪縛じゅばくとの決別






「・・・・・」

 涼介の目にはソファーに座ってテレビを見ているまゆみが映っていた。

何時なんじだろう・・・)

 丸一日眠ってしまった様な、ちょっとぐったりとした感覚に襲われていた涼介はベッドの上で体をじり、コントロールパネルの横に置いてあった腕時計に手を伸ばした。

(12時半か・・・)

 今朝ほんの少し目覚めた時、涼介は二言三言ふたことみことまゆみと会話していた。その会話の記憶は5分前の様に頭の隅に収納おさめられていた。

「・・・・・」

 涼介は体をじったまま腕時計を右腕にめ、そのまま右手をセブンスターの箱にすべらせた。

「おはよう」

 ベッドで煙草を吸おうとしている涼介に気付いたまゆみは、優しい笑顔を向けてそう言った。

「・・・おはよう」

「良く眠れた?」

 まゆみは立ち上がった。

「・・・久し振りに熟睡したかもしれない」

 涼介はラブホテル特有の大きな枕を背中に回し、ベッドをリクライニングシートの様に仕立て、足を投げ出そうとしていた。

「・・・私もさっきまで最高に寝てた」

 ベッドに歩み寄りながら着ていたバスローブのすそ丁寧ていねいに重ねたまゆみは、涼介の足元に座って嬉しそうにそう言った。

「そう」

「・・・コーヒー入れる?」

「そうだね、よろしく」


 まゆみは涼介を背にし、カップボードの前でコーヒーカップにお湯をそそいでいた。

 涼介はベッドから見える室内の景色を煙草の煙でおぼろげにしていた。

 開いているカーテンの間から差し込む太陽の光は、今朝涼介が目覚めた時の様な、はっきりとした輪郭りんかくを作るほどの強さをたもっていなかった。

「ふーぅ・・・」

 まゆみの背中に向けて息を強く吹き出し、まゆみの姿を煙で隠し、昨夜の出来事は幻想げんそうだったんだと自身をさとしながら、脳裏のうりに残る昨夜の全てと正対し、横着おうちゃくで悪びれず、開き直っていた昨夜の情緒じょうちょを正解にしない判断をするよう言い聞かせていた。


「ティーバッグ式のコーヒーも結構美味しいね。」

 まゆみはソファに座っていた。

「・・・そうだね」

 涼介はベッドの中に居た。

「コーヒー好きなんだよね?」

「好きだよ」

「コーヒー豆とかってるの?」

「・・・ね、シャワー一緒に浴びようよ」

 涼介は砂糖の入っていたコーヒーの甘さと、緩慢かんまんと続くかもしれないまゆみとの甘い会話を嫌った。

「えっ、やだ、恥ずかしいもん」

「そう?」

「だって・・・それに私、もうシャワー浴びちゃったもん」

「・・・そう・・・」

 涼介はまゆみの拒否をあっさりと受け入れ、照れているまゆみに笑みを見せながらおもむろにベッドを抜け出した。

「それ・・に・・・」

 まゆみは何か一つか二つ言い訳をひねり出そうとしていたが、全裸を気にせず、性器をき出したまま、まゆみの前をに歩き始めた涼介にうつむいた。


 バスルームは湯気が立ち込めていた。

 全開のシャワーは背中を強い圧で打ち付けていた。

 ラブソファーに座り、綺麗きれいな姿勢でテレビを見ているまゆみの後ろ姿がガラス張りのバスルームから見えていた。

「ふぅ・・・」

 涼介はまゆみから視線を切り、ゆっくりと体を反転させ、熱く強い圧を顔で受け様としていた。

(松岡まゆみ・・・真面目まじめな女性なんだよ・・・それに比べて俺は・・・何なんだろう・・・みにくいい男だな・・・)

 ガラス張りのバスルームの中を一度もうかがおうとしないまゆみの心の中を手前勝手にのぞき込み、涼介は二人の結論を頭の中で冷徹れいてつに整理し始めていた。

(くそっ・・・たれ・・が・・・)

 一端いっぱしの孤独感に襲われている不条理ふじょうり辟易へきえきまみれていた涼介は、汚い心を映し出す様な下品な言葉で自身のなげいた。


 全開になっていたカーテンの向こうでは、薄明るく所々暗い空が日差しをベランダや室内に届けるのかどうか迷っていた。

 テーブルやカップボードの上には、昨夜からのワイングラスやボトルがそのまま放置されていた。

「出ようか」

 身支度みじたくととのえ終えた涼介は、上品な姿勢でベッドに座っていたまゆみに言った。

「うん」

 すですきの無い姿に自分を仕上げていたまゆみは笑顔で立ち上がった。

 先に歩き出していた涼介は部屋の出入り口ドアの前で立ち止まって振り返り、まゆみを待っていた。

 まゆみは動かない涼介との距離をゆっくりと縮めていた。

「・・・・・」

 まゆみは涼介の柔らかくて優しいキスをもっと感じていたいと思っていた。

「・・・・・」

 後悔こうかいというキスを涼介はまゆみに贈っていた。

「・・・長居ながいしちゃったね」

 はにかみながらまゆみはそう言った。

「そうだね・・・」

 まゆみに見せる笑顔の裏で、涼介は自分の行為のおろかさをなげいていた。


 ラブホテルの駐車場は冷たい風が吹き抜けていた。

 まゆみは涼介の後を追い掛ける様に歩いていた。

(2時半か・・・)

 涼介はほおでる風を嫌う仕草しぐさまぎれて腕時計をと見た。

(本当に長居しちまったな・・・)

 涼介の頭の中は車の中に置いたままにして来た携帯電話に届いているだろう声や文字に飛んでいた。

「涼介」

 まゆみは運転席側に回り込んだ涼介を呼んだ。

「?・・・」

 涼介は車越しにまゆみを見た。

「好きよ」

 まゆみは微笑を満面まんめんに浮かべていた。

「・・・・・」

〝涼介の御株おかぶを奪ったよ〟とでも言いた気な、屈託くったくの無いまゆみの笑顔に涼介は愕然がくぜんと自分を見つめさせられていた。

「・・・あれ?何も言ってくれないのね」

「・・・了解」

 まゆみの得意気な表情に涼介はそう言いながら、恋愛というに鼻持ちならない思い上がった態度でぬるく接していた自分を見つめさせられていた。


 空模様は二人を乗せた車に日差しを届ける事に苦労していた。

 町外まちはずれの旧道に続く裏道は、涼介の恋愛の様に急なカーブが続いていた。

「何か欲しいものある?」

 車に乗り込む間際まぎわ、まゆみの前では携帯電話に触らない方がいいと直感していた涼介は、小倉市街へつながるバイパスに乗る前にコンビニエンスストアに寄ろうとしていた。

「・・・涼介が欲しい、ははっ!」

 まゆみは涼介との時間を満喫まんきつしていた。

「・・・・・」

 涼介は作り笑いを浮かべた横顔をまゆみにさらし続けながら、シーホークホテル最上階のBARで同じ様なジョークを聞いた時、瞬時しゅんじに全身をおそった絶望的な鈍痛どんつうを思い出していた。そしてまゆみと自分の心の状態が真逆である事をあらためて気付かされていた。

「・・・ね、コンビニに寄るの?」

「そうだよ・・・買って来るよ、欲しい物があれば」

「いいよ、私も降りる」

「そう?・・・でも煙草買うだけだし、直ぐ戻って来ちゃうよ」

 まゆみを車に残し、コンビニエンスストアの中で携帯電話を開く事を画策かくさくしていた涼介は、まゆみの意思に抵抗した。

「そうなの?・・・だったら私が買って来てあげる」

 まゆみは笑っていた。

「いいよ、居なよ車に・・・ゆっくりしててよ」

 車内の雰囲気ふんいきこわさない様、涼介は優しい口調で強力なおだやかさを重ねて抵抗していた。

「大丈夫・・・ね、一緒に行こっ」

「・・・そう・・・じゃぁ悪いけどセブンスターとボルビック、いいかな」

「行かないの?」

 当然二人で行くのだと思っていたまゆみは涼介の答えに愕然がくぜんと目を丸くして驚いた。

「・・・二人で行く程の事でもないよ」

「行こうよ」

 まゆみはまだ驚いていた。

「いや、いいんじゃない?どっちか一人で」

「・・・何かおかしいよ涼介・・・ひょっとして・・・照れてる?」

 まゆみは驚愕きょうがくを止め、意味深いみしんな笑みを浮かべていた。

「・・・まぁ、そんなとこかな・・・」

 涼介は予測していなかったまゆみの粘りに不自然な言葉をつらね、心にもない言葉で対応している自分にあきれていた。

「しょうがないなぁ・・・じゃあ、行ってあげる」

 まゆみは涼介をからかう様な仕草しぐさ無邪気むじゃきに見せていた。

「・・・・・」

 涼介は薄く作る笑顔に苛立いらだちが出ていないか気になっていた。そしてまゆみがこのまま女性が持つ特別な第六感を働かせない事を祈っていた。


 小倉市街の空は何時いつの間にかミディアムグレイの雲でおおくされていた。

 まゆみの居ない車内はエンジンのアイドリング音だけが響いていた。

 涼介は外の様子をうかがう事もままならないまま、指先に全神経を集中させようとしていた。

(何でこんなに会いてぇんだよ・・・)

 涼介は携帯電話の画面を見つめたまま、強過つよすぎる心の在り方のままそう思っていた。


 携帯電話には純一からの着信が二度残っていた。メールはエリカからの二通と、魚町店の店長、恭子から一通ずつ届いていた。

「・・・・・」

 涼介はエリカ以外の連絡には見向きもせず、エリカからのメールを何度も何度も読み返し、その液晶画面を瞳と心に焼き付けていた。

 空はとしていた。

 店内は混雑していた。

「・・・・・」

 涼介は携帯電話を閉じ、ヘッドレストに頭を乗せた。そしてフロントガラスの向こう側に見える様子を漫然まんぜんと瞳に取り込みながら、エリカから届いたメールの文章に心を奪われている自分を客観きゃっかんしていた。

「マキ・・・」

 エリカでもまゆみでもなく、そうつぶやいた涼介は重く広がる低い空に目をった。そして10年前、横浜の空のもと、二人が蜜月みつげつだった頃の元気なマキの姿を思い浮かべていた。

 涼介はしみなくそそいでくれていたマキの甘くて強く、うるおいいやいつくしみをたずえた愛情を思い出していた。更にその愛情に答え様としていた自身の朴訥ぼくとつ実直じっちょくな、果敢かかんで純粋な情熱を思い出していた。

(・・・マキ・・・)

 マキの幻影は同時に自身の情緒じょうちょに激痛を呼び込んでいた。

 心の中でもう一度そうつぶやいた涼介の、うねり上がるようにじれる情緒じょうちょが激痛におそわれていた。

 忘れる事など出来ない美しい時代を完封しなければならないという、これからの行動や態度を明確にするという、にがくて重く情緒じょうちょが激痛に押しつぶされていた。

 恋愛の理想として心の中にマキを君臨くんりんさせ続けていた涼介は、自身のみにくいエゴイズムと決別すべき時が来ている事を、自身が選んだコンビニエンスストアの駐車場で突き付けられ、意外に打たれ弱い幼稚な情緒じょうちょをマキの幻影に蹂躙じゅうりんされるがまま、非常に重要な決断を突き付けられていた。

「ふぅ・・・」

 涼介は鼓動こどうを落ち着かせる為に大きな息を一つき、携帯電話を再び開いた。

 日曜日の午後だった。

 駐車場は車でまっていた。

 店内は更に混んでいた。

「会いてぇ・・・」

 涼介は湧き出る思いを言葉にした。

(・・・会いたい・・・)

 涼介はその願いと共に、このあと助手席に戻って来るまゆみの全てを消し去り、脳裏のうりぎり続けるマキの一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくにさよならを告げながら、メール画面に誠実で実直じっちょくな真実をつづり始めた。


     ■新規メール作成■宛先■エリカ■

     エリ 昨日はごめんな


     会いたい

     今夜迎えに行くから

     ■SUBMENU■編集■戻る■14:46■


 降り注ぐべき太陽の光をさえぎられている街並みは薄暗さを増していた。

 涼介は液晶につづったエリカへの決心を見つめ続けていた。

「ふぅ・・・長い・・呪縛じゅばくだった・・のかな・・・」

 自らの心にめていた〝マキ〟というかせを外した涼介は、送信実行ボタンの上に親指を乗せたまま、大きな息を一ついた後でそうつぶやいた。

「マキ・・・か・・・」

 アイドリングのエンジン音が聞こえていた。

 閉じたひとみの奥にはんだマキの姿が見えていた。

(・・・なに格好かっこつけてんだよ・・・ひとりよがり過ぎなんだよ・・・マキにもエリカにもいい迷惑だよな・・まったく・・・)

 激震げきしんのような決心は、思いが届く事を願っていた。

 決別した呪縛じゅばくは、涼介の心の中でみ続けていた。

 穏やかな時間が車内をおおっていた。

 涼介は決心と決別がこんなにも優雅ゆうがなものだったんだと驚感きょうかんしていた。

「ふーっ・・・」

 涼介は区切りをつけた。そして現実をにらむ様に車外を見つめた。

 開いた瞳に飛び込み続ける如実にょじつは、更に強く誠実で実直じっちょくに乗り越えなければならない真実と現実だった

「・・・まったく・・・」

 エリカへの想いをつづったメール画面を開いたまま、左手で携帯電話を優しくいじり続けていた涼介は動きをめ、車外をにらみながら深い溜息ためいきいた。

(・・・・・)

 おだやかで優雅ゆうがな時間にひたり続け、刻み込み続けたいエリカへの決心や切なる思いは、眼前がんぜんせまり来る、大問題として目の前にぶら下がってしまった、メランコリックなもう一つの現実に根こそぎき消されていた。

畜生ちくしょう・・・」

 もの哀しい、得体の知れないインディビジュアルな情熱や、鼻持ちならないセルフィッシュな美学はまゆみを太刀持ちから露払いに変えただけだった。

 心をみにく冷徹れいてつな鬼にして、機械的に処理しなければならないせまり来ていた。

 人の心をもてあそび、踏みにじる作業がせまり来ていた。

「・・・・・」

 助手席にはまゆみのバッグがと座っていた。

 後部座席には綺麗きれいに折り畳まれたジャケットが置いてあった。

自業自得じごうじとくなんだよ・・・)

 呪縛じゅばく決別けつべつしたはずの涼介は、一人の女性を生涯しょうがい愛し続ける決心をしていた。しかしその数時間前、自ら招き入れた新たなる呪縛じゅばく陳腐ちんぷな一夜を共にしていた。

「どうするよ・・・」

 商品を抱え、混雑しているレジの最後尾に並んでいたまゆみを涼介は一瞥いちべつしてそう言った。

「ふぅ・・・」

 涼介の心は絶対的主観でおおい尽くされ、美しくうるおわす事の出来た決別と決心に難癖が付く事を嫌った。それにはまゆみという新たなる呪縛じゅばくに対して誠実で真摯しんしな解き方をみつける必要があった。畢竟ひっきょう、判断と決断を間違えない適切で最良のタイミングとその所作しょさや行動を模索もさくする必要があった。

(・・・・・)

 涼介はもう一度、今度はまゆみに対して全神経を集中させ、人の感情を蹂躙じゅうりんする作業を淡々と準備を始めた。

 ほんの一時間前迄の涼介は、まゆみから離れて行こうとたくらんでいた。しかし今の涼介にとってそのたくらみは、左掌ひだりてのひらで輝いているエリカへのメールの価値を無にする事に等しかった。

(エリカとまゆみが重なっちゃいけない・・・二股のようになる事は許されない・・・)

(腐った野郎だな・・・)

(全部自分がいた種じゃねぇか・・・自分で刈り取るしかねぇんだよ・・・)

「どう刈り取るんだよ・・・」

 涼介は目にうつる現実をなかば捨て台詞ぜりふの様な言葉でなげいた。

(・・・・・)

 まゆみとのぬるい関係の清算を等閑なおざりにせず、まゆみにさらし続けて来たおろかな姿を反省し、まゆみの心を切り裂くだろう自分の言葉を吟味ぎんみし、まゆみの心に刻む傷口からの傷跡を最小限に抑えられる、全知全能を有する魔法に頼り、そんな完全無欠な態度を演出しなければならない状況をなげいていた。

(・・・そんな事出来ねぇよ・・・)

〝誠実さ〟を演じる事になる厄介やっかいな自分を俯瞰ふかんし始めた涼介の心は、そんな事は出来る訳がないという、やり過ごせない難題からと何とか逃げ通したいとする、憂鬱ゆううつ思惑おもわくに支配されているぬるくてずるい主観の方に今後の行動を全振りしようとしていた。

(何て男なんだ、まったく・・・。)

 まる所、涼介はまゆみからこの上なく美麗びれい後腐あとくされなくのがれるすべを探していた。さらにはまゆみに対する罪悪感からものがれられるすべを探していた。

駄目だめやつだな」

 涼介は自分を切り捨てた。しかしまゆみという新たなる呪縛じゅばくを解き放つ場面を考える事はめなかった。しかもまゆみが自分に対して愛想あいそかさざるを得ない決定的な場面を貪欲どんよくに考え始めていた。

 まゆみは支払いを済ませ様としていた。

 涼介は考えをまとめられなかった。

「くそっ」

 涼介は下劣げれつな自分に品の無い言葉を放った。そしてまゆみから視線を切り、携帯電話の液晶画面に視線を落とした。

畜生ちくしょう・・・」

 涼介は一人の女性に愛を誓った時の高揚感こうようかん躍動感やくどうかん享受きょうじゅ出来ないまま、左手で握ったままだったエリカへの決心をもう一度確認し、送信実行ボタンを押した。


「お待たせ」

 まゆみは助手席にもぐり込むと同時にそう言った。

「ありがとう」

「ここ置いとくね」

 まゆみはボルビックをドリンクホルダーに入れた後、セブンスターをコンソールボックスの上に置いた。

「・・・ありがとう」

 会話もそこそこに車を動かし始めていた涼介は、ハンドルを切り返しながらまゆみを見ずにもう一度そう言った。

「ガム食べる?」

 涼介を土曜日の夜から日曜日中、ずっと独占する事が初めて会った時からの念願だったまゆみは、その日曜日の午後、涼介が運転する車の助手席に座っている事にこの上ない優越ゆうえつを感じていた。

「いや、いいよ」

 涼介はまゆみを見る事無く旧10号線に車を放り出す為に左ウインカーを点滅させ、走り過ぎる車の群れに視線を投げたままそう言った。



(・・・このまましばらくく付き合う事も出来る・・・来週振られようと思えばそれも出来る・・・)

 涼介はハンドルから手を離しまぶたを閉じていた。

(ほんとくさった野郎だ・・・)

 まゆみの気持ちなど丸で考えず、まゆみの心を踏みにじる場面だけを〝いけしゃあしゃあ〟と考えている自分のぬるさに嫌気いやけが差していた涼介は心の中でそう吐き捨てた。

(今朝あんなに強い日差しで起こされたってのに・・・)

 自分のみにく算段さんだんから逃避とうひする様に、涼介は目の前に重く広がるミディアムグレイの低い空に視線を投げ出した。

 車は旧10号線からバイパスへ合流する交差点の最前列で信号待ちをしていた。

 青く光っていた歩行者用信号は点滅を始めていた。

「・・・・・」

 視界の隅に入り込んで来た青色の点滅に一瞬目を向けた涼介は、再びまぶたを閉じた。

(・・・両方とも駄目だ、今日別れよう)

 アクセルを踏み込む前に結論を下した涼介の心は空の色と同じぐらいどんよりとしていた。

(涼介、何考えてんだろ・・・)

 綺麗な姿勢で助手席に座り、涼介がつくる会話の無い空間を心地良ここちよく受け入れているまゆみは、時折りんだ瞳を涼介に向け、この先ずっと涼介からもらえるだろう愛情に寄り添って行く自分の未来を想像していた。

「俺、雨とデブ嫌いなんだよ」

 二人の間に続いていた沈黙をかくする涼介の最初の言葉は、優しさとは無縁の自分のすさんだ感情をそのまま口にする事に吟味ぎんみ躊躇ためらいも無い安易あんいな自己主張だった。

「私も雨は好きじゃない」

「なんかデリカシー無いでしょ? 雨もデブも」

「・・・ひどい人ね」

「でも好きでしょ?」

「・・・自信たっぷりね」

「でも、好きでしょ?」

 涼介はまゆみを一度も見る事無く同じ言葉を淡々たんたんと重ねた。

「・・・・・」

 涼しく核心かくしんを突く涼介の意地悪な問い掛けに、まゆみは恋心をさらに心地良くじ伏せられ、涼介の横顔から視線を外せなかった。

「・・・軽くメシでも食っとこうか」

 予想外に車の流れがとどこっているバイパスを嫌った涼介は会話の脈絡みゃくりゃくを無視し再び安易な自己主張をした。

「うん」

「渋滞避けよう」

「うん・・・」

 まゆみは穏やかな表情で涼介を見つめていた。

(何であんな事言っちまうんだ・・・駄目だな俺は・・・くそっ、仕方ない・・・)

 涼介は再び自分を吐き捨てた。そして吐き捨てた自分を庇護ひごし、開き直り、横顔に刺さり続けるまゆみの視線に笑顔を向けた。

「・・・・・」

 まゆみは涼介の笑顔に満面の笑みで答えた後、満足した様にゆっくりと街並みに視線を変えた。

「・・・・・」

 涼介はまゆみが残した意味有り気な余韻よいんに、しばらくまゆみの横顔を見つめさせられていた。

(恋愛ってのは夢とか希望とか、願望とか理想とか、そんな様な物を振りかざしてるうちは空回からまわりするだけかも知んないな・・・)

 正面に向き直った涼介は自分の傲慢ごうまん素性すじょうたなに上げ、まゆみの意図的な行動に心の中でそううそぶいた。

 車内は静かだった。

 まゆみはサイドブレーキの辺りに雑然ざつぜんと重ねられているCDを一枚一枚手に取っていた。

(・・・家まで送ってくなら西公園降りた辺りだし、駅迄なら食後の車の中だな・・・)

 涼介は視界に捕らえているファーストフード店迄の距離を流麗りゅうれいに縮められない事に少し苛立いらだちながら、まゆみに別れを告げる場面を考えていた。

 まゆみは中央区の唐人町とうじんちょうに住んでいる博多の女性だった。涼介の住む小倉とは都市高速道路、九州自動車道とつないでも70分近くの距離があった。

「ミスチル、好きなの?」

 CDの中から〝Mr.children〟を見つけ出したまゆみは無邪気むじゃきな笑顔を涼介に向けた。

「・・・そうだね」

 涼介は前を向いたまま笑顔を作った。

「何か意外だね・・・私もミスチル好き」

 まゆみはそう言って嬉しそうにCDをプレーヤーに差し込んだ。

(降って来たな・・・)

 涼介はまゆみの言葉をひろわず、フロントガラスに姿を現した雨粒あまつぶに心の中で舌打したうちをした。

 涼介は一人の女性を傷付ける事の重大さを真摯しんしに受け止め、同じあやまちを二度と繰り返すまいとする自戒じかいの心をも当前の様にずっと等閑なおざりにしたまま、まゆみに切り出す別れ話のタイミングと、別れを告げた後、まゆみが車から降りるまでに交わすだろう言葉の選び方や使い方と向き合っていた。

 まゆみは微笑をにじませていた。

 10月19日の日曜日、午後3時を過ぎた小倉市街へつながるバイパスは渋滞が始まっていた。

 雨粒あまつぶは街のいたる所ではじけ合い始めていた。

 車内には〝Mr.children〟のメロディと、この先ずっと交わる事は無いだろう二人の思惑おもわくただよっていた。

「・・・ぬるいな」

 邪魔な雨をぬぐうワイパーのスイッチを入れた時、涼介は心の声を思わず口にした。

「えっ?何か言った?」

「いや、何でもないんだ」

 涼介は正面を向いたまま努めて自然にそう答えた後、まゆみと一度視線を交わし、ドリンクホルダーのボルビックにゆっくりと手を伸ばした。




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