28  物哀しい情熱


     物哀ものがなしい情熱




 さわやかなBGMが流れている店内とは丸で別世界のごとく、豪雨に悲鳴を上げる街並みが窓ガラスの向こうに見えていた。

 テーブルの上にはハンバーガーの包装紙やナゲット用の余ったソースがバスケットの中でにぎやかに重なっていた。

「・・・・・」

 涼介はコーヒーを片手に荒れる街並みをながめていた。

「・・・・・」

 まゆみは雑誌に落とした瞳を時折り涼介に向けながら、涼介がつくる無言の空間に幸福を感じていた。

(やばい・・・ちょっとニヤけてるかも・・・)

 車の中で涼介が昼食をろうと言った時、まゆみは気障きざまとった涼介が何処どこか隠れ家的でお洒落な店に入るのではないかと思っていた。しかし涼介は何時いつものクールさをよそおう事無く気さくな笑顔でファーストフードを選んでいた。それは過度の演出で格好良く女性をエスコートする時期の過ぎた、親密な関係になった女性に対するゆるぎ無い愛情の表れだとまゆみは積極的にとらえていた。そしてそんな等身大の涼介の行動は、深い自信の下、地に足の付いた最良の関係をはぐくもうとする無言のメッセージが込められているのだと信じていた。

「・・・・・」

 涼介は雑誌を読んでいるまゆみの横顔に気付かれないよう煙草たばこをポケットから取り出す素振りにまぎれて携帯電話の電源を切った。

り切れない男だな・・・)

 食事にファーストフードを選んだ事が、一つの恋愛に結論を出し終えた男の底意地の悪い投げりな選択だと気分を滅入めいらせていた涼介は、なげく心の捨て場所を探すかのよう何処どこを見るでもなく店内に視線を投げた。

(最悪な男だ・・・)

 これから切り出さなければならない、今日を限りに二度と会う事はないだろうまゆみとの決別に、純度の高い自己都合だけで向き合おうとしている自分をさらなげいた。

「・・・ね、涼介って何月生まれ?」

 ほおって置けば何処どこまでもゆるく続きそうな沈黙をまゆみの明るい声が破った。

「・・・ん?」

 涼介はまゆみを見た。

「誕生日まだ聞いてなかったよね?」

 占いのページに目を落としたまま、まゆみははずむ声を涼介に掛けていた。

「そうだっけ?」

 涼介は手に持ったままだった空のコーヒーカップをそっとテーブルの上に置いた。

「・・・ね、何月?」

「3月だよ」

「3月何日?」

「10日」

「10日かぁ・・・魚座なんだね」

「・・・そうだね」

「魚座の男性ってロマンチストが多いんだよ」

 まゆみはオレンジジュースを口に付け、笑顔をはじかせていた。

「そう?」

 涼介は笑顔を作るべきかどうかを迷っていた。

「うん・・・だって涼介、ロマンチストだもん」

 まゆみにとってテーブルをはさんで続く会話は恋人同士以外の何物でもなかった。

「・・・・・」

 涼介はまゆみの言葉に笑顔を見せていた。しかし涼介にとってその笑顔は作り笑い以外の何物でも無かった。



 バイパスは家族連れの車が地方都市の日曜日にありがちな渋滞に拍車はくしゃを掛けていた。

 二人が乗るBMWはその渋滞の中にもぐり込んでいた。

 乱暴に叩き付ける大粒の雨は、車内に流れているメロディを邪魔し続けていた。

 涼介は相変わらず無口のまま、ATのクリープ現象を多用して車を小倉市街へと前進させていた。

「ね、マツキヨって小倉にあるの?」

 ファーストフード店で空腹と一緒に心も満たしていたまゆみは、何かを思い出した様に突然涼介にそう投げ掛けた。

「・・・あるんじゃない?」

 涼介はまゆみの質問に、何時いつかの深夜〝平和通り〟バス停前でタクシーを止めて、斜前はすまえるマツモトキヨシに入って行くエリカの後ろ姿を見つめていた自分を思い出していた。

「じゃぁ行こ!買い物付き合って!」

 まゆみはMr.childrenや雨の音に負けない張りのある声を車内に響かせた。

「・・・・・」

 涼介は黙っていた。

「ねっ、行こ!連れてって!」

 明るく強請ねだるまゆみの瞳は輝いていた。

 まゆみはずっと前から自分の事をもっと深く涼介に知ってもらいたいと思っていた。そうすれば涼介の心の中にもっと剛直ごうちょくに入り込めると感じていた。そして今、そんな天真爛漫てんしんらんまんを実現できる最高のタイミングが自分に訪れていると信じていた。

 涼介はまゆみの問いには答えずCDを止めた。

 まゆみは笑顔で涼介の返事を待っていた。

 CDの代わりに車を叩く雨音が車内に響いていた。

 沈黙には程遠ほどとおい沈黙が訪れていた。

 涼介は時間がにごり行くような空間に耐えがたさを感じていた。

「・・・・・」

 まゆみは二人の間に沈黙が来ているとは思っていなかった。

 小躍こおどりしそうな程まゆみはご機嫌だった。

「・・・このまま駅迄送るよ」

 涼介は落ち着いた眼差まなざしでまゆみをとらえ、心に決めていた事を口にした。

「そう・・・」

 まゆみは微笑を浮かべ、涼介を見つめ続けていた。

(涼介ってやっぱりあんな場所好きじゃないんだ・・・)

 幸福感に包まれているまゆみの心は涼介の言葉にそんな解釈かいしゃくた。

 涼介は真っ直ぐ前を向いていた。

 まゆみは涼介を見つめ続けていた。

(・・・でも、駅まで送るって言ったよね?・・・って事は、今日はこれでお別れって事なのかな?・・・)

 南国で生活する人々が刻むリズムのごとく、まゆみはゆっくりと涼介の言葉の意味を解きに掛かっていた。しかし心のベクトルは涼介の言葉の意味を深くさぐる方向ではなく、涼介を思いる楽天的な発想の方に向いていた。

(何かこの後仕事でも入ってるのかなぁ・・・)

 そう考えた直後、他愛の無い話の割には余りにも長い沈黙が二人の間に続いている事を意識した。

「・・・仕事、入ってるの?」

「いや、仕事じゃないんだ」

 涼介は前を向いたまま冷静に亮然りょうぜんとそう言った。

(仕事じゃないんだったら、何か用事でもあるのかな?)

 まゆみは涼介の返事に対して素直にそう考えた。

「・・・じゃぁ、何か約束があるとか?」

「約束も無いんだ」

 涼介の言葉は鮮然せんぜんだった。

「?・・・」

 まゆみの心は涼介が放つ現実にって次々とき出て来る疑問符に収拾しゅうしゅうを付けられなくなりつつあった。

「・・・じゃ、何?」

 まゆみは仕事も約束も無い涼介が、何故なぜデートを早い時間で切り上げようとしているのか理解出来ないままそう聞いた。

「・・・・・」

 涼介は黙っていた。

「・・・ねぇ、何?」

 まゆみは少し悲しそうに見える涼介の横顔にもう一度聞いた。

「・・・もう会えないんだ。」

「??・・・どういう事?」

 涼介の少し太い截然さいぜんとした声に、まゆみは唯事ただごとでは済まされそうに無い雰囲気ふんいきさっした。

 土砂降どしゃぶりのバイパスにスモールランプの明かりが連なっていた。

 ワイパーはきる事なくフロントガラスをぬぐい続けていた。

 涼介は真っ直ぐ前を向いていた。

 まゆみは真っ直ぐ涼介を見つめていた。

「・・・ね、どういう事なの?」

 まゆみは無理に笑顔を作り、涼介の横顔に詰め寄った。

「終わりにしよう」

 涼介は顕然けんぜんとそう放ってアクセルを強く踏み込んだ。

 車は高架線こうかせんに続くのぼり坂でエンジンの回転数を上げていた。

「??・・・終わりにしようって・・・えっ??・・何を??・・・」

 まゆみは涼介の方にじっていた体を急加速の反動にってシートに引き戻されていた。しかし混乱を如実にょじつに物語る呆気あっけに取られた顔は涼介に向けたまま耐えていた。そしてもう一度涼介に顔を近づけ、手探てさぐり状態の瞳で涼介を見つめ続けていた。

 二人を乗せた車は渋滞のバイパスに別れを告げ、都市高速道路横代としこうそくどうろよこしろI.C入り口手前のアプローチをのぼっていた。

 雨は相変わらず激しく車をたたき、走行を邪魔じゃましていた。

「・・・終わりにしようって、どういう事?」

 声を少し張ったまゆみから笑顔は消えていた。

「別れよう」

 涼介は近づいて来た料金所を前にアクセルをゆるめ、スーツの胸ポケットから財布を取り出し、その言葉を確然かくぜんと放った。

「えっ!?」

 まゆみは事の重大さにやっと気付こうとしていた。

「・・・・・」

 涼介は表情を変えずブレーキに足を乗せ、パワーウインドウのスイッチを押した。

「別れようって!?」

「・・・・・」

 まゆみの質問にもくしたまま料金所で紙幣を渡し、おつりの硬貨と領収書を無造作むぞうさにポケットに入れた。

「涼介!ねっ!!どういう事なの!?」

 まゆみは再び詰め寄った。

「・・・今日で終わりにしよう」

 加速させ続けている車のドアガラスが閉まり切るまで待った後、涼介は結末までの無責任なプロローグを強い声で歴然れきぜんと投げた。

「・・・・・」

 まゆみは声を迷っていた。

 どんなトーンで声を作り、どんな言葉で何をばいいのか迷っていた。「・・・・・」

 涼介は真っ直ぐ前を向いていた。

 大凡おおよそこういう時に見せるだろう感情の欠片かけらすら涼介はのぞかせていなかった。

(分からない・・・何が起こってるの?・・・)

 まゆみの姿勢や態度は緊張で硬直していた。そして言葉を見つけられないまま涼介を見つめていた。

「・・・ねぇ涼介、分かんないよ・・・別れるってどういう事なの?・・・」

 涼介と知り合って以来何度も不意ふいを打たれ、意表いひょうを突かれていたまゆみは、無意識の内に過去の不意や意表を振り返り、思い返していた。しかしまゆみの胸の中に在る涼介の不意や意表という遊び心のある情熱は、ほろ苦くも幸せを感じられる微笑ましい〝もてなし〟ばかりだった。

「ねぇ、涼介・・・」

 まゆみは微動びどうだにしない涼介の横顔にそう問い掛けた。そしてどんな言葉を投げかけ、どんな態度を見せれば涼介の言った不意打ちを上手くしょする事が出来るのか懸命けんめいに考え始めていた。

「涼介・・・ねぇ涼介、今日で終わりって・・嘘だよね?・・冗談だよね?・・・別れようってどういう事??・・何か言って・・・お願い・・・」

 涼介から受けた霹靂へきれきに混乱しているまゆみは精一杯平静せいいっぱいへいせいを装い、涼介にすがった。

「・・・愛せないんだ」

 涼介は黙り込んでいるまゆみに瞭然りょうぜんを押した。

「・・・・・」

 まゆみはまばたきもせず、涼介に瞳を泳がせていた。

「ごめんな・・・」

 豪雨の中、車は九州道へとつながる紫川むらさきがわジャンクションを通り過ぎていた。それは氷のように硬く冷たい心で別れを告げるタイミングを計算していた涼介が、まゆみを車から降ろす最適の場所がまゆみの住む博多ではなく、小倉駅だとはじき出していた事を意味していた。

「・・・ごめんな」

 まゆみの心情など無視し、別れをせにかり、分かり込ませようと涼介はもう一度エゴイズムを口にした。

「・・・愛せない・・・って?・・・」

 茫然自失ぼうぜんじしつになりそうな気持ちをこらえ、涼介から突き付けられた言葉の意味をくだために、心の中で何度もその言葉を反芻はんすうしていたまゆみは気丈きじょうに聞いた。

「・・・・・」

 涼介は黙り、話をくくりにかろうとしていた。

「・・・愛せないって、どういう事?・・・」

 自分なりに考えていた二人の絆を強くする為の計算や目論見もくろみが、さらには二人の未来を夢見る乙女心の様なものが、しかしそんなものより自分の存在自体が涼介にって抹消まっしょうされようとしている現実が、目の前に確実に存在している事実にまゆみは切実だった。

「・・・何でなの涼介・・・何でこんな事になるの?・・・」

 二人の付き合いを最初からやり直す事を、願わくは涼介にもう一度考え直して欲しいまゆみは、心にただよい始めた絶望感を必死で払いけながら言葉を重ねた。

「・・・・・」

 涼介は無表情だった。

「・・・何で答えてくれないの?・・・」

 何もしゃべろうとしない涼介に三度重みたびかさねたまゆみの声は細く、小さかった。

「・・・・・」

 涼介は横顔をまゆみにさらし続けていた。

(どうしよう・・・)

 まゆみは心に途方も無い虚無きょむ静寂せいじゃくを感じていた。そして目の前に居る涼介の冷めた態度が意地悪な冗談などではなく、まぎれも無い真実である事をはっきりと認識した。

(ほんとにどうしよう・・・)

 再度そう思った瞬間、まゆみは顔から血の気が一気に引いた事が分かった。

「・・・ねぇ・・・涼介・・・」

 背中を伝ういた事の無い冷たい汗に、まゆみは涼介との恋愛関係が修復不可能である事を直感させられていた。

 車は都市高速道路小倉駅北出口に向かう車線で水飛沫みずしぶきを上げていた。

 薄暗うすぐらにごった視界の先には、同じ車線を走る車のテールランプが右曲がりでつらなっていた。

 二人の間には長い沈黙が続いていた。

 まゆみはにじみ始めた涙を絶望のふちで止め、涼介を見つめていた。

 涼介は横顔をまゆみにさらし続けていた。

「涼介・・・何故・・・私だったの?・・・」

 動揺と混乱をさとられまいと涼介に背を向けたまゆみは、胸に迫り来る慟哭どうこくおさえ、雨でかすむ小倉の街並みに瞳を泳がせながら気丈きじょうに聞いた。

「・・・・・」

 涼介は黙っていた。

「・・・聞かせて・・・何故こんな風になったのか涼介の本心が知りたい・・・」

 残酷ざんこくな現実に震えそうになる声をまゆみは必死に耐えていた。

「私の・・・何がいけなかったの?・・・」

 まゆみは涼介の沈黙に従順じゅうじゅんだった。そして涼介と重ねて来た時間をかえりみながら健気けなげにも自分を責めていた。

「・・・・・」

 それでも涼介は黙っていた。

「何故・・・何も喋ってくれないの?・・・」

「・・・・・」

「涼介・・・」

「ごめんな」

「!!・・・」

 涼介との恋愛に断腸だんちょうの思いで終止符しゅうしふを打とうとしていたまゆみの恋心は、涼介のその一言にとしていた。

 車はゆるやかな下り坂を抜け、都市高速道路から199号線への合流を許す為に設けられている信号でアイドリングをしていた。

 涼介は綺麗きれいな姿勢で遠くを見つめていた。

 雨でかすむ街並みを力無ちからなく見つめていたまゆみの瞳は、まるで別人のようするどさで再び涼介を映していた。

「ごめんって・・・何?」

 まゆみの第六感は、一つの言葉と無言を判で押した様に繰り返す涼介の心の中を垣間見かいまみていた。

「ねっ・・・ごめんって、何?・・・」

 まゆみは涙が残る瞳で涼介を刺し、言葉で涼介の心の奥底を刺した。

「・・・・・」

 涼介は黙っていた。

馬鹿ばかにされてる・・・) 

 そう思った瞬間、まゆみは〝涼介〟という人間を信じ過ぎていた自分を哀れむ事を止め、破局の原因は自分にると思う事を止めた。

「ねっ!ごめんって何!?」

 まゆみは語気を荒げた。

〝ごめん〟とだけしか言わない涼介の心に、まゆみは恋愛という情熱的な行為をたくみにあやつ打算ださん垣間見かいまみていた。そして人の心をないがしろにしても痛みを感じない、想像を絶する悪臭を放つくさった性根しょうね垣間見かいまみていた。そしてまゆみは垣間見かいまみたものに、過去に経験した事の無い怒りの感情を体中にき立たせていた。

「・・・もう私に用はないって事?」

 瞳から涙は消え、さっきとは違った震えを唇に感じていた。

「ごめんな」

 涼介は間髪かんぱつを入れず判を押した。

「・・・・・」

 まゆみは涼介の言葉に、背負っていた哀れさやみじめさという重荷の中身を完全に瞋恚しんいに変えた。

「じゃ、あのキスは!?あのメールは!?・・あの言葉は!?・・・」

 短い時間だったけれど涼介を愛して良かったと思える幕切れを望み、涼介にとって都合の良い女などでは決してなかったとしたかった自分への愛情があきれる程生ほどなまぬるく、世間知らずのお人好しだった事を痛烈に思い知らされたまゆみの心には、涼介に対する攻撃的な思考が止めなくあふれ始めていた。

「私に見せてた涼介の姿って、全部嘘だったの?」

 まゆみは涼介からもらった愛情表現らしいものの全てを振り返る前にそう言った。

 涼介はブレーキペダルに右足を乗せていた。

 車は199号線に別れを告げる右ウインカーを点滅させていた。

 赤信号の右手にはリーガロイヤルホテル小倉が、左手には巨大なAIM小倉ビルが雨でかすんでいた。

「・・・嘘じゃないんだ」

 涼介は物哀ものがなしい情熱にって創造された独善の正当性を短い言葉にした。

「嘘じゃない??何が嘘じゃないの??・・・馬鹿ばかじゃないの!!・・・分からないよ・・・ねえ!!もっと分かるように話して!!」

「ごめんな・・・」

 涼介は我慢していた。車の中でまゆみを無視し続けて来た事を台無だいなしにしない為にも、傷付き怒れるまゆみの心をおよんで無闇むやみに刺激しない為にも、自分の複雑な心の内を滔滔とうとうと言葉にする事を我慢していた。

「・・・さっきからごめんねって、それだけ言ってれば済むとでも思ってるの?・・・ねぇ涼介何で?何でそんなに格好付ける必要があるの?」

 まゆみは涼介の狡賢ずるがしこい部分を最後の最後まで見抜けなかった自分の経験の浅さや薄さをなげき、いきどおる自分にやり場のない悔恨かいこんを突き付けていた。

「・・・・・」

 涼介は黙ったままハンドルを動かしていた。

「・・・また黙り込むの?・・・ねぇ涼介分からないってば!何か言ってよ!!・・・何だったのこの何ヶ月間・・・何が目的だったの!?全部計算だったの!?セックスをしなきゃ答えが出せなかったって事なの!?それとも最初からセックス迄って決めてたの!?ねぇ!!そのつもりだったの!?その為に見たくも無い映画に付き合ったの!!」

 平然と構えている涼介の隣で体を震わせている事に耐えられなくなったまゆみは、自らの手で理性を粉々こなごなくだき、涼介がつくる沈黙を切りいた。

「何で黙ってるのよっ!!」

 まゆみは涼介をにらみ、幾重いくえあるのか分からない涼介の化けの皮を最後の一枚までぎにかった。

「・・・・・」

 涼介は前を向いたまま静かに呼吸をしていた。

「ねっ!!最初から嘘だったの!?キスもメールも、好きとか愛してるとか、ついさっき迄〝好きだよ〟みたいな事言っといて、ねえっ!!何故!!」

 まゆみの声は荒々あらあらしさを増していた。

 涼介は心に訪れている葛藤かっとうを静かに押さえ込んでいた。

「いい加減にしてっ!!・・・黙ってたらそのうち私が大人しくなるとでも思ってるの!!それとも図星ずぼしだから何もしゃべれないのっ!!・・・人の心をにじって、無視して投げ捨てて・・・そんな事が許されるとでも思ってるの!!」

 嵐のような雨が街をたたいていた。

 エンジン音がき消される程の雨が車を叩いていた。

 まゆみは呼吸を乱し、涼介をにらみ、瞳で叩いていた。

「・・・・・」

 涼介は全てを閉じていた。

「・・・・・」

 もっときつい言葉で涼介をなじり、傷付け、泥々の世界に涼介を引きり込もうとしていたまゆみは、涼介の向こう側に見える景色が動いていない事にふと気付き、ゆっくりと周囲を見渡した。

「はぁ・・・」

 突然まゆみは二人の間に続く無言の空間に大きな溜息ためいきいた。

「・・・・・」

 全てを閉じたままの涼介は眉間みけんしわを加えていた。

「・・・何だったのよ涼介と私って・・・」

 まゆみは涼介の仕打ちに愕然がくぜんとしていた。

 雨が伝う助手席のドアガラス越しに頑丈な建物が見えていた。

「・・・何だったのよ・・・涼介と私って・・・」

 建物の壁に大きく貼られた小倉駅北口という文字を見つめながら、まゆみはもう一度そうつぶやいた。

 豪雨なのに静かだった。

 動かしているはずの空気が張りめていた。

「・・・分からないよ涼介・・・何故なぜこんな突然なの?・・・何が気に入らなかったの?ねぇ!何故!?・・・」

 はじき出した感情の欠片かけらにすらさわってくれない涼介に、まゆみは思いを振りしぼった。

「何か言ってよっ!!・・・」

 狭い車内をつんくまゆみの心は虚空こくうに押しつぶされそうになっていた。

「・・・ねぇ!何か言ってよ!!・・・ねぇってば!!・・・」

 再び瞳に涙をにじませ、涼介の体をすり、懇願こんがんした。

「・・・・・」

 涼介は黙り続けていた。

「はあっ・・・」

 まゆみは涼介の沈黙に完全に打ちひしがれてた。

 涼介の左肩を握りしめたままうつむき、むせび泣いていた。

 ワイパーは動きを止めていた。

 車内には車を叩く雨音の隙間に、ハザードランプの点滅音がかすかにひびいていた。

「ごめんな・・・」

 戸惑とまどいも躊躇ためらいも、言い訳も反駁はんばくも、感謝も反省も、思いりや誠実さも、不埒ふらちなぐさめやいたわりや詭弁きべんさえ、おおよそこんな状況の時に男として最低限見せるべき殊勝しゅしょうな態度や言葉を何も選ばず、涼介は二人の間にただよう重い空気に低い声を置いた。

「・・・ごめんって・・・何よ・・・」

 まゆみは声をふるわせながら〝涼介〟という遊び人にもてあそばれた事をなげいた。そして涼介という〝遊び人〟を真剣に愛した事で、自分の恋愛観がしばらく荒れる事になるだろう現実が直ぐ目の前に迫って来ている事に唇をんだ。

 涼介は瞳を閉じ、眉間みけんしわを寄せ、唇を一文字に閉じていた。

 まゆみは視線を涼介から切らなかった。

 色取りどりの傘の群れが小倉駅に吸い込まれていた。同時に傘の花を開いた人達が小倉駅から歩き出ていた。

 傘を持たない人達は出入り口周辺で困っていた。

 濡れた瞳で、涼介を凝視ぎょうしし続けているまゆみも困っていた。

 何をどう足掻あがいても、一言もしゃべらない涼介にまゆみは困っていた。

「・・・・・」

 まゆみは腹をくくった。まゆみにも最低限譲れない、引き際に対するプライドがあった。

「・・・・・」

 まゆみは涼介から涼介越しに見える雨の小倉にゆっくりと焦点を合わせた。

 濡れた瞳で濡れた街をしばらく眺めていた。

「・・・さようなら」

 これ以上の仕打ちは堪えられないと、頬を伝う涙もそのままに声を振り絞った。

 涼介がにじんでいた。

 綺麗きれいな姿勢で座り直していた。

 まゆみは天をあおいだ後、うつむいていた。

 脱力や無力が全身をおおっていた。

 何かに気丈きじょうに耐えていた。

「・・・・・」

 バッグを握り、ドアに手を掛けた。

〝ガチャッ〟

 ドアが少し開いた。

 まゆみは涼介に背中を見せたまま動きを止め、一つ息を吐いた。

 冷たく湿った空気がまゆみの体に一気に染み込んで来ていた。

 まゆみは一瞬にして正気に戻された。そして自分に降り掛かった現実の怖さを思い知らされていた。

 

 涼介の視線が背中に向けられていて欲しいと願っていた。

 りんとせざるを得ない空気が流れている事も分かっていた。

 振り向けない事も分かっていた。

 向き直れない事も分かっていた。

「・・・・・」

 まゆみはドアを大きく開けた。

 左足を路上に降ろす事を躊躇ためらっていた。

 振り向きたかった。

 もう一度向き直り、もう一度話がしたかった。そしてもう一度涼介にすがりたかった。


 強い雨が体をたたいていた。

 背中を涼介に向けたまま路上に立っていた。

 強烈な孤独を感じていた。

 傘の群れが不思議そうに見ていた。

 知らない街の駅に向かって歩き始めていた。

 歩き出すしかすべが無かった。

 何故なぜ歩いているのか分らなかった。

 誰の意思で何処どこに向かっているのかも分らなかった。

 ほおを打つ雨に、みじめな心も体も溶かして欲しいとしのび泣いていた。


「ごめんな・・・」

 傘の波にまぎれ、らと構内へ向かう静かなまゆみの背中に涼介はそう呟いた。







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