第5話 決して開けるなかれ


 約束の夜七時きっかりに事務所の前にウォレス氏の車が到着した。ナツメは約束の時間の少し前から事務所の前に立って待っていた。ウォレス氏に気を使っていたわけではなく、ウォレス氏が事務所の中に入ってくれば、イスベルの不在を感づかれる恐れがあったからである。

 後部座席に座る。座席の黒革がナツメの体重にぎしりと音を立てた。車内には芳香剤の強い匂いが充満していた。

「今日はどうも。私の雇い主はきっとナカザキさんのことを気に入るでしょう」

「そう願いたいがね」

 ナツメはそっけなく返事をした。

 ウォレス氏が内ポケットから懐から黒い布を取り出した。ナツメは受け取ってから、意図が分からずにウォレス氏の顔を見返した。

「申し訳ないが、私の雇い主は何事も秘密裏に進めたい方でして」

「なるほど」

 黒い布を広げると、それは袋であった。ナツメは自分の頭に袋を被せた。それをウォレス氏にしっかりと見せる。

「ナカザキさんの探偵の仕事はいかがですか。最近はどんどん景気が悪くなっていますが、こういう時分のほうが繁盛するのではありませんか?」

 ナツメは暗闇の中で、前を向いたままウォレス氏の雑談に答えた。

「そうでもないさ。不景気なときは誰しもが財布の紐が固くなる……」

「不景気だと店の品揃えも悪くて困りますな。私は甘いものに目がないのですが近頃は甘いものにめっきり手が届かなくなりまして――」

「なるほど。それは難儀だ……」

 ウォレス氏の雑談はナツメにとっては迷惑この上ないものだった。話の退屈さ以上に、ナツメは車の外に聞こえる音、曲がった回数、直進の時間などを頭の中に記憶して、外を見ずとも車がどこを走っているかを頭の中に再現するのに忙しかった。

 ナツメの「測定」が間違っていなければ、車は三回も同じ通りを通ってから、街の西の外れで、地下へ降りてから停車した。

「到着しました。もう取っていただいて結構ですよ」

 言われてナツメは頭から袋を取った。窓の外を見るに、大きな地下駐車場のようだった。しかし他に車が停まっている様子はなく、壁にあるライトは切れたままだ。車のヘッドライトで前方だけが照らされている。

 ウォレス氏に言われて車の外に出ると、彼はトランクから懐中電灯を取り出した。そのままビルの中に入って、階段を四階ほど登る。建物には電気が通っておらず、どうやらこのビルはすでに廃棄されて、しばらく人の手が入っていないらしい、というのが分かった。

 階段を出た先の通路に明かりがあった。懐中電灯がこちらを向いて床に置いてある。さらに通路を進むと、護衛の男二人が微動だにせずドアの左右に陣取っていた。

 護衛の二人はナツメの身体検査を要求した。ナツメの服の上から体を探り、コートの下のホルスターに入れていた拳銃は没収された。

 ウォレス氏はドアを開けてナツメを中に促した。

「お連れしました」

 部屋には椅子が二つしかなかった。さらに、四隅には蝋燭が立ててあり、部屋をぼんやりと照らしていた。入り口から見て正面に、こちらを向いて座っている男がいる。その向かいには空席の椅子。

「お待ちしておりました。どうぞ、おかけになって」

 椅子の男に促されてナツメは大人しく椅子に腰掛けた。男と真正面から向き合う。線の細い、中肉中背の男だった。髪は黒く短く、東欧系の人種に見えた。どこかで見たような気のする特徴のない顔。年齢は三十代前後。ナツメが男の外観から読み取れたことはそれだけだった。

「ミズ・ナカザキ……ナツメと呼んでもいいですか?」

「ご自由に」

「ではわたしのことはシーランと呼んでいただきましょう」

 ナツメの背後でウォレス氏が退室した。ドアの閉まる音を聞きながら、ナツメはシーランと名乗る男から視線を外さなかった。

「こんなところに呼び出してすみません。しかし最近は用心しなければ、ね」

 シーランの身振りに合わせて影が揺らめいた。

「推理が得意だそうですね」

「まあ、多少は」

「わたしを見て、何か分かりますか?」

「あいにくと何も」

「それは残念です」

「しかしあなたは完璧に正体を隠しているがあなたの手下はお粗末なものだ」

 シーランが絵画のように微笑んだ。

「ボディチェックのとき微かに女物のコロンの香りがした。数時間以内に女と一緒にいたのだ。だとしたらまだ仕事中だ。つまり君たちは、ここ一帯の娼婦を仕切ってる。ここの娼婦を仕切っているのはマフィアだ。マフィアなら街の西側の工場地帯は縄張りだ。つまりここ」

 ナツメが足を鳴らす。

「目隠しをさせていたはずですが」

「目が良いもので」

「なるほど」

「まあ種明かしをすると、日中に事務所を見張っている君の手先を調べたらマフィアにたどり着いた。探偵を見張るならもっと腕の立つ人間を雇うべきだった」

「わたしたちのことを承知の上でここに来たのなら話が早い。イスベルをこちらに渡していただきたい」

「それはできない」

「無論タダとは言いません」

「金の問題じゃない」

「では何です?」

「品位の問題だよ。金で少女の命をやり取りするのは下品だとは思わないか?」

「わたしには品がないと?」

「マフィアも品位を気にする時代か」

 ナツメは挑発するように言ったが、シーランの表情は揺るがない。

「誤解があるようだから答えておくと、わたしはファミリーの人間ではありません。雇われです」

「君も探偵か?」

「ある種のコンサルタントですよ。知恵を貸すのがわたしの仕事。――暴力は効率が悪い。金と話し合いで片がつくならそれに越したことはありません。しかしわたしとて、必要であれば銃を使います。仕事ですから」

 シーランが身を乗り出した。

「あなたの頭に拳銃を突きつけてお願いしても、返事は変わりませんか?」

「試してみるといい。もっと、君にそのつもりはないだろうが」

「お人好しに見えます?」

「何の当てもなく私をここに連れてくる間抜けには見えないがね」

 そのとき、シーランのポケットの携帯電話が鳴った。特徴のない着信音が部屋の中に反響する。

「どうぞ」

 ナツメがおどけてみせたが、シーランは無言のまま電話を取った。

 シーランはしばらく無言で相手の話を聞いてた。

「……分かりました。撤収してください」

 シーランは電話を切った。

「悪い知らせかな」

「これは宣戦布告と受け取ってもよろしいですね」

「先に仕掛けたのはそちらだ」

「勝てる自信がおありで?」

「ベストを尽くすと約束しよう」

「捻り潰してやる」

 シーランが真顔で物騒なことを言ったものだから、ナツメは吹き出してしまった。

「さて、用件はこれで終わった。帰らせてもらおう」

 ナツメは立ち上がった。

「無事に帰れると思っているのなら度し難い楽観主義者ですね」

「確かに。私の頭に銃弾を撃ち込むなら今が絶好の機会だ」

「ウォレス!」

 シーランが叫ぶと、すぐにドアが開いてウォレスと護衛二人が入ってきた。命令を待つ三人に、シーランはナツメを連れて行くように顎で示した。

「来い」

 護衛の一人がナツメの肩を掴んだ瞬間――ナツメは身をかがめてその腕を取ると、背後に回って腕をねじりあげた。さらに脇腹に掌底を打ち込んでから、その男の体を押し出してもうひとりの護衛にぶつける。

 そちらの護衛は、銃を取り出そうとしていたところにもうひとりが突っ込んできたせいで身動きが取れなくなった。ナツメはその隙に接近して、男の下顎に肘を打ち込む。さらに反対側から耳に掌底、注意が頭に向かったところで、銃を取り出した手を掴んでぐるりと捻った。男が激痛に声を上げる。指がトリガーガードに挟まって関節が捩じられていた。

「おい、動くな」

 ナツメは護衛の手から拳銃を取り上げるとウォレスに銃口を向けた。ウォレスは大人しく両手を上げる。銃口を向けながら、足元に倒れている最初に倒した護衛の腰からも拳銃を取り上げた。

「お見事!」

 シーランがのんきに拍手をする。

 ナツメは油断なく、ウォレスとシーランの間で交互に銃口を向けた。

「これは失礼、あなたのことを見くびっていたようですね」

「気にしなくていい、よくあることだ」

 ナツメはそう答えて、シーランに向けていた拳銃から弾倉を落とすと、スライドを引いてチャンバーから銃弾を吐き出した。弾を抜いた拳銃をシーランの足元に放り投げる。

「わたしを撃つ絶好の機会ですよ」

「そして君たちの部下に撃ち殺される?」

「命を代償にわたしを殺せるのなら安いものだ。わたしの他の敵はその機会すら与えられないのがほとんどだというのに」

「私は今夜はこれで失礼するよ。そちらに異論がなければの話だが」

「もちろん。ウォレス、ナツメさんをお送りしてください。今夜はもう手を出さないように。預かった武器もお返ししなさい」

 来たときのように、ナツメはウォレスに先導されて退室しようとした。

「ナツメ」

 背中からシーランが声をかけた。

「わたしと戦った者はみな最後は後悔して死にました」

「もう少しマシな脅し文句を考えた方がいい。それじゃあ三文芝居の悪役みたいだ」

「アドバイスどうも」

 語気を強めてシーランが答えた。

 帰り道は覆面を要求されなかった。車はナツメの事務所の近くで停車した。ナツメが降りると、何の挨拶もなく車はすぐに走り去った。

「やれやれ、どうしたものかな」

 ナツメは事務所のビルを見上げた。窓ガラスはすべて吹き飛んで、壁には焼け焦げた跡が残っている。建物に近づくと煤けた匂いがまだ残っていた。――ナツメが事務所に使っていた三階は爆弾で吹き飛ばされていた。しかし事務所の変わり果てた姿は、ナツメの想像の範疇を超えていなかった。

 ポケットに手を入れると指先にタバコの箱が触れる。ここで一服する分には困らないが、酒がすべて吹っ飛んでしまったのは問題だった。




 ナツメがシーランの元を訪ねている間、無人の事務所に来訪者が来た。

 来訪者は少なくとも三人……鍵を開けて外の見張りをしたのが一人、中に入って探索したのが二人。中に入った二人はすぐに事務所が無人であることに気づいただろう。

 しかし目的のものがないからといって手ぶらで帰るわけにもいかない、何か手がかりがないかと事務所の中を探り始める。

 そうしているうちに、「決して開けるなかれ」の張り紙のある奥の部屋に気づく。懸念は一つだけ、鍵がかかっているのではないかということだけだ。本気で開くとは思わず、無意識に、試しにノブを引いてみた、その瞬間――。

 火薬が炸裂し、無数の釘と金属片が吹き飛んで、ドアや内壁をスパスパと撃ち抜いて侵入者の体を穴だらけにした。

 ドアを開けた人物は吹っ飛んできたドアで潰された上に体を穴だらけにされて即死。別の部屋にいたもう一人も出血死した。外で見張りをしていた鍵開け人は即死こそ免れたが、爆発で大怪我をして、出血しながらもなんとか一人で逃げ出した。

 というのが事務所の爆発跡を観察したナツメの推理だった。それを、崩壊した事務所を呆然と見上げるアリーとイスベルに話して聞かせていた。

「あの部屋って……」

「侵入者用のトラップだよ。『開けるな』と書いてあっただろう」

 アリーだけでなくイスベルもドン引きしていた。

「でも……これからどうするの? 泥棒は退治できたかもしれないけど、代わりに事務所が無くなっちゃったわ」

「別の建物を探せばいい」

「ナツメにそんなお金あるの? それにこの事務所も……」

「そもそもこの事務所は私の持ち物ではない。空いていたから勝手に使わせてもらっていただけだ。それでこれまで文句を言われたことはなかったぞ」

 アリーが信じられないものを見る目でナツメのことを見た。

「まあ事務所の家具が全部燃えたのは痛いが……」

「やりすぎよ!」

「次はもっと穏当なトラップにする」

「それよりも、これからどうするのだ。そのシーランというやつはまだ僕のことを狙っているんだろう」

「そのとおり。だから次はこちらから打って出る。とあえずアリーはもう帰っていいよ。イスベルは安全な場所を見つけるまで私と一緒に行動してもらう」

「わたしも一緒に行きたい!」

「ダメ。子供は寝る時間だよ」

「わたしを連れて行かないならもうお金貸さないから」

「残念ながら今の懐具合はそう悪くないのでね」

 ナツメはコートのポケットを上から叩いた。アリーに言われてここ一ヶ月仕事に奔走した成果だった。

「むー!」

 それから、駄々をこねるアリーを家に帰すのには忍耐強い説得が必要だった。最後はイスベルも面倒がって「もう連れて行ってやったらどうだ」と無責任に言い出す始末だった。

 タクシーを呼んでアリーを強引に乗せて帰宅させてから、ナツメはイスベルを連れて歩き出した。

「それにしても、これからどこに行くつもりだ。シーランというやつに殴り込みにでも行くつもりか?」

「それも悪くないがもっと良い手がある。事務所の中にあったのは死体二つ、玄関ドアの鍵は開けられていたが二人の持ち物に鍵開けの道具はなかったし廊下には血の跡が続いていた。ここから推理して一人はあの現場から逃げ出したと考えられる」

「それは聞いた」

「あの出血量なら、その人物は何はともあれ病院に向かったはずだ。もしくは途中でのたれ死んで死体安置所か。どちらにしろ病院には行くはずだ。というわけで君たちが来るまでの間に片っ端から病院の知り合いに連絡して調べていたら、すぐに見つかったよ。シーダーズ病院だ。歩いて二〇分」

「なあ、いいかげん車を買わないか」

「落ちてる車があったら拾うよ」


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