第4話 使者
いくらお金がないとはいえ世間知らずの王位継承者にアルバイトをさせるわけにはいかない。イスベルが反逆者たちから命を狙われているという事情を差し置いても少女一人が護衛もなく仕事ができる情勢ではない。
仕方がないのでナツメが稼ぐことになる。代わりに家のことはイスベルが担当することになった。共同生活である。イスベルに炊事や洗濯ができるのかとナツメは疑問に思ったが、海外留学をしていたときには全部一人でやっていたのだと彼女は自信満々に答えた。
そういえば、アリーからお金を受け取る以外にも、イスベルを事務所から放り出すという選択肢があるのを頭から排除してしまっていた。あのときアリーが「お金を受け取るか、受け取らないか」という二択に話をすり替えたからだ。やはり自分はアリーに踊らされているような気がする、と改めて警戒心を強めるナツメだった。
「さて、共同生活を始めるにあたっていくつかのルールを決めておこうと思う。まず寝床だが、ソファは曜日ごとに交代で使う。さすがに毎日椅子で寝ると私の体が持たない」
「それは受け入れられぬ。寝るときは横になるものだ」
太陽は東から登るものだ、と言わんばかりにイスベルが答えた。
「あのね、私は働かなくちゃいけないんだ。十全に働くためには体を休めないといけない。体を休めるには椅子で寝るんじゃ不十分なんだ。道理だろう?」
「ソファで二人並んで寝ればいい」
「棺桶とベッドには一人で入るもんだ」
「ベッドじゃなくソファだろ。それにベッドに一人で入るならお前はどこで――」言いかけて、イスベルはごほんと咳払いした。「失礼、何でもない」
「とにかく、二人で並んで寝られるほどうちのソファはゴージャスじゃない」
「だったら稼いでベッドを買うことだ。とにかく、僕は椅子で寝るのは御免こうむる」
「オーケー、幸先の良いスタートだ。とりあえず寝床問題は棚上げしよう。無料でマットレスを融通してもらえないか知り合いに当たってみるとして……。次はタバコだ。まさか君もアリーみたいに事務所を禁煙にするなんて言わないだろう?」
「その点は譲歩しよう。好きなだけ寿命を縮めるといい。ただしアリーを説得するのはお前の役目だし、お前がタバコを吸っているときに僕が迷惑そうに顔をしかめたとしてもそれは僕の自由だ」
イスベルは王位継承者らしく外交を駆使してきた。
「それから、君は基本的にこの事務所を好きに使ってくれて構わないけど、自由に使えるのはこの部屋と台所とバスルームだけだよ。奥の部屋には入らないこと。ドアを開けるのもダメだ」
「開けるとどうなる?」
「爆発する」
「爆死したくはないし、その言いつけは守ろう。ただし僕の方からも要求を出す。僕の服が欲しい。僕が選んで買う。ナツメの服は、センスが悪いとは言わないけど、僕には合わない」
ナツメの持っている服はユニセックスなものばかりだったが、イスベルはより男性的な服を好むらしい。
「ナツメは、僕にまだ要求があるか?」
「いや、ないよ。ところで君は料理は得意か?」
こうして二人の共同生活が始まった。最初の料理当番はナツメだったが、腕によりをかけて作った野菜くずのスープをイスベルが一口飲んだ直後「料理当番は僕が引き受けよう。比較対象がコレなら僕にも勝ち目がありそうだ」と料理担当を申し出た。
これまでのナツメは収入源を警察に頼っていたが、ミラにアレをやってしまった以上は当分は警察からの仕事は期待できない。幸いにもナツメが自分の足で民間の依頼人を探すよりも早く、アリーが父親のツテで様々な依頼人を紹介してくれた。依頼内容のほとんどは人捜しだった。
退屈で非道徳的だが安全で実入りの良い仕事が続いた。
とりあえず、アリーからお金を受け取る事態だけは避けられそうだった……。
イスベルとの生活が半月ほど続いたころ、珍しく事務所に直接依頼人がやって来た。
「こちら、ミズ・ナカザキの探偵事務所でよろしいですか」
スーツを着た灰色の髪の中年男だった。柄物のネクタイには安物ではないネクタイピン。革靴はよく磨かれてピカピカだった。
「いかにも私がナカザキ・ナツメだが。あなたは?」
「どうも、私はヘンリー・ウォレスという者です。私の雇い主が、ナカザキさんに仕事を依頼したいと言っています」
ウォレス氏はポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。ソファに腰掛けると、腹の肉がスーツの下で盛り上がった。
「どういったご用件かな」
「私の雇い主は用心深い方で、直接会ったことのない人間は信用しません。私の雇い主は用心深い方で、会った上で雇うかどうかを決めたいと言っています。もちろん、実際に依頼するかどうかに関係なく、会っていただけるのであれば、お足代としてこの場で500ドルお支払いします」
「なるほど。私のことは誰から?」
「このあたりで探偵を探せばあなたの噂がすぐに聞こえますよ。事件捜査の天才でしょう」
そのとき、台所からイスベルが出てきた。手にはステッキを持ち、男性向けの黒いジャケットを羽織っていた。男にしか見えない。
「ナツメ、冷蔵庫にあるタマネギだが――おっと失礼」
ウォレスを見てイスベルが奥に引っ込もうとする。
「ああ、待ちたまえ。ついでにこの依頼人にお茶を出してくれ」
「何がついでなんだ」
イスベルが呆れた声を返す。
「ああ、いやお構いなく」
ウォレスが慌てて手のひらを向けた。
「それで――ウォレスさん。私はいつあなたの雇い主に会わせてもらえるのかな」
「明日の夜はいかがでしょうか。七時に迎えに来ます」
「よろしい。では500ドルは……そのテーブルに置いておいてもらおう。結構。お会いできて良かった」
ウォレスはナツメの差し出した手を取って握手して、一礼して事務所を去った。
ナツメは窓から事務所の正面を見下ろした。事務所の前に止まっている黒いセダンの助手席にウォレスが乗り込むところを見た。車の窓ガラスはスモークフィルムが貼られていて中は見えない。ナツメは車が走り去るまでじっと眺めていた。
「なんだ、せっかく紅茶を淹れたのに」
トレイにティーセットを乗せたイスベルが台所から出てきた。
「その紅茶は私が貰おう。ところで、あの男を見て何か気づかなかったか?」
「……身なりの良い男だった」
ナツメはイスベルからトレイを受け取ってデスクの上に置き、自分でティーポットからカップに紅茶を注いだ。イスベルももうひとつのカップに紅茶を注いでナツメと一緒に飲み始める。
「見覚えはない? ほんとに?」
「ああ。……僕に何か関係があるのか?」
「君が奥から出てきたときのウォレス氏の反応が妙だ。彼は君のことを見ても何も聞かなかったし、興味深そうに眺めたりもしない。むしろ君のことをなるべく見ないようにさえ振る舞っていた」
「失礼だな。僕を見て反応がないのはそんなに不自然か?」
「これから雇おうという探偵が男装した少女と同棲しているのを見れば、何か聞くか、聞かなくても表情くらい変えるだろう。代理人をよこすほどの立場の人間ならスキャンダルを何よりも恐れる」
「事前にナツメのことを調べたんじゃないか? この事務所を見張っていれば僕と一緒に住んでいることくらいは分かるだろ」
「それにウォレス氏はさっき、車の助手席に乗り込んだ。後部座席には誰が乗っていたんだろうね。あの男の雇い主だとしたら、私との面会をわざわざ別の日に設定したのは何故だろう。それに、これは決定的なんだが」
「何?」
「上流階級の人間は私みたいな移民の探偵は雇わない。たとえ私がどれだけ優秀な探偵でもね。私の経験では、そういう人間が探偵を探すときは、知人から紹介された、アングロ・サクソン人の探偵と契約するものだよ」
このご時世、信用できるものは契約でも親愛でも利害でもない。歴史と血脈だけだ。
「……さっきも言ったが、僕はあの男に見覚えがない」
イスベルが、さきほどと比べれば幾分か真面目な表情でもう一度答えた。
「今夜か……」
「会うつもりか?」
「もし君を探しているのであれば興味がある」
「なぜだ? バーンハード殺しの犯人を捕まえるためか?」
「隠されているものを暴き立てるのが私の性質でね。そして強きをくじき弱きを助ける」
「正義の味方か」
ナツメはティーカップを置いて立ち上がると、再び窓の外を覗き込んだ。
「君はあまり興味がなさそうだ」
イスベルは「ふむ」と相づちを打って、ティーカップの紅茶を飲み干した。
「なに、僕のことを付け狙う輩など、別段珍しくもない。お前は路上に落とした紙幣を誰がくすねるか、いちいち興味を惹かれたりするのか?」
「その紙幣が監視装置の中から消えたのであればどんな奇術師が盗んだのかと興味も沸くがね」
「そういうものか」
つまらなさそうに言って、空のカップを載せたソーサーをテーブルの上に置いた。
「反乱軍は僕の身柄には金に糸目を付けないだろう。であれば僕を狙う輩がいても不思議はないし、その正体をいちいち確認していてはキリがない。危険なのが分かっているのにわざわざ近づくのは愚かだ」
「私の故郷の言葉に『臭しと知りて嗅ぐは馬鹿者』という言葉がある」
「どの国の賢人も似たようなことを言うものだ」
「『枝先に行かねば熟柿は食えぬ』という言葉もある」
「『馬鹿者は熟柿に釣られて怪我をする』?」
「後からであればいくらでも賢いことが言えるということだよ。それに、どちらにしろ私たちには選択の余地はない」
「どういう意味だ?」
「今気づいたが、通りの向こうの男が、ずっとこの事務所を監視している。――おっと、君は視線を送るな。工場の作業員が仕事をサボって煙草を吸っているように見えるが、足元の煙草の煙草の山を見るに、休憩にしては妙に長い。それに先ほどから常にこの事務所が視界に収まるように注意を払っている」
ナツメは窓際から離れて椅子に戻った。ウイスキーをグラスに軽く注ぐ。
「とにかく私は行くつもりだ。君には今夜は安全な場所に身を隠してもらう」
「しかしどうやって外に出る」
「抜け道は用意してある。少し窮屈だがね。隠れる場所は、そうだな、アリーの家がいい。愉快だぞ。彼女のお父上はきっと君のことを気に入るだろうね」
ふふふ、と二人の邂逅を想像してナツメは意地悪な笑みがこぼれた。
「分かったよ。好きなだけ確かめればいい。しかし気をつけたまえ、お前が死んだらアリーが悲しむ」
イスベルは面倒そうに返事を返した。
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