第3話 消された事件


 結局、ロバート・バーンハード氏の死は事故死ということで公表されて警察の捜査もそれで打ち切られた。刃物の刺し傷で死んだ上にその刃物が現場になかった状況からはどのような屁理屈を付けたところで事故死という結論にはならないが、そもそも事件の詳細自体が公表されなかったのでその矛盾を指摘できる人間はいなかったし、いたとしてもバーンハードの権力で握りつぶされていただろう。

 事件がそのように決着に向かっている間、ナツメは警察を騙して事件現場に入ったカドで四八時間の間ずっと留置場に入れられていた。今度ばかりはさすがにアリーの父親の加護があっても即釈放というわけにはいかなかった。

 留置場に入れられていたナツメが事件の経過を知ることができたのは、もちろんミラが親切に教えてくれたというわけではなく、勾留者の監視役の制服警官を二日掛けて丸め込んで聞き出した情報である。

 逮捕から四十八時間が経過した夜、留置場の前にミラがやってきた。

「……出ろ。釈放する」

「それはどうも」

 長椅子から立ち上がって鉄格子の部屋から出ようとすると、ミラが露骨にナツメから体を退いた。

「そう露骨に警戒することないだろう」

「どうだか」

 ナツメは、警察の取り調べに対して「携帯電話は拾ったものだ」という証言を繰り返して譲らなかった。

 今度はアリーの出迎えはなかった。いつ釈放されるか分からないのだから仕方がない。ナツメの懐具合は四十八時間前に逮捕されたときと同じだ。したがってタクシーを捕まえたとしても料金の代わりに銃を突きつけるしかない。ダメ元でミラにお金を貸してくれないか頼んでみたが、彼女が早口で罵倒するスラングを連発し始めたのでドーフマン警部補が慌てて奥に連れて行った。

 徒歩で事務所のビルにたどり着いたときには日付が変わっていた。真夜中の肌寒さにもかかわらずナツメの全身は汗でべとべとだった。

 シャワーに恋い焦がれながらビルを三階まで登って事務所のドアを開ける。そのまま一直線にバスルームに向かい、その途中の廊下にコートや靴やシャツやズボンや下着を、足跡のように脱ぎ散らかした。

 シャワーが水からお湯に変わるころ、ナツメは建物の中に自分以外の人間の気配があることに気づいた。シャワーを流したままバスルームのドアに耳を近づける。遠くでドアの軋む音と足音が聞こえた。

 しまった、拳銃は廊下の服の中だ。

 ナツメは水音の中に含まれる足音を慎重に聞き分けようとした。ナツメはいきなりバスルームのドアを開け放って、相手に飛びかかろうとした。

「侵入者め!」

 ナツメではなく、相手が発した声だった。飛びかかろうとしたナツメの眼前にステッキの先を突きつけていた。暗闇に浮かぶ相手の顔は、バーンハード屋敷の隠し部屋にいたあの少年だった。

「すぐに出て行けば見逃してやる。小兵と思って侮るなよ」

「待ちたまえ。出て行くも何もここは私の家だぞ。仮にどちらかが出て行く必要があるなら出て行くのは君の方だ」

「……何だと?」

「そもそも君、警察に連れて行かれたはずだが、どうしてここにいるんだ? しかもその格好――」

 ナツメは少年のつま先から頭までを指さした。それはナツメが普段寝るときに着ているジャージだった。丈がずいぶんと余っていて、両腕と両足が余った布で盛り上がっている。

「ふむ」と、少年はステッキの先を下ろした。「つまり、お前がナツメということだが、相違ないか?」

「相違ないね」

「名探偵と名高いと聞く」

「ひょっとして君をここに連れてきたのはアリーかな」

「いかにも」

 アリーはナツメにとても良くしてくれているが、彼女のことを名探偵だと過大に宣伝する悪癖があった。

「あの少女には世話になっている。食事もあの子が用意してくれている」

「アリーはどうして君をここに連れてきたんだろう」

「警察署を出たときに行くあてのない僕を拾ってくれたんだ。アリーが語ってくれたが、隠し部屋を見つけた推理力には脱帽したよ」

「ただの観察眼だよ……」

 答えながら、ナツメは頭の中で状況を必死に整理していた。

「ええと、つまり君は行くあてがないのでずっとここに住むということなのかな」

「ずっと住むわけじゃないよ。祖国に帰るまでの、まあほんの一ヶ月ほどで十分だ」

「祖国?」

「ああ、ひょっとして謝礼のことを気にしているのか? ふふん、僕が祖国に帰ったら君たちにはたんまりと礼を弾むよ」

「つまり君は、故郷の国を追われて亡命してきたのか」

「それは正確には違う。亡命ではなく一時的に非難してきたんだ。クーデターが起きて、僕以外の王族はみな処刑されてしまった」

 クーデター! 王族!

 この国で探偵を始めてそれなりの数の事件を解決してきて、「暗殺」とか「爆弾」とか「密室」というような言葉は何回か出てきたことがあるが、「クーデター」や「王族」という言葉はさすがにこれが初めてだった。

 わたしの仕事もだんだんと政治色が強くなってきたなあ、これも時代かなあと感慨にふけっていると、少年は小さなあくびを漏らした。

「失礼。お前には宿の恩義もあるし、僕の事情をつまびらかに説明したいのだけど、さすがにもう僕の眠気も限界だし、続きは明日にさせてくれ……」

 そう一方的に打ち切ると、少年はまたあくびをしながら奥の部屋に引っ込んでいった。

 そういえば自分はシャワーを浴びている途中だった、とナツメは自分の裸を見て思い出した。気づいたときには体が冷え切っていた。

 シャワーを浴びて服を着替えてから応接室に行くと、いつも寝床に使っているソファは少年に先に使われていた。

 仕方がないので椅子に座って眠ることにした。ただでさえ疲労している上に、ダメ押しでウイスキーを一杯飲み干すと、ナツメはあっという間に意識を失った。




 あまり休まらない姿勢だったが、ナツメは翌日の昼まで爆睡していた。はっと目を開けると、目の前にはソファに座ってティーカップを上品に傾ける少年の姿が見えた。

「やっと起きたね。ぴくりとも動かないからひょっとして死んだんじゃないかと何回か確かめたほどだよ」

 少年はジャージではなく、ジーンズに灰色のニットのシャツだった。どれもナツメのクローゼットの服である。その横には、昨晩見せたあのステッキがソファに立てかけてある。カジュアルな服装にはミスマッチなステッキだ。

 ナツメの視線に気づいた少年が微笑む。

「ああ、服を貸してくれてありがとう。僕の趣味じゃないんだが、持ってきた服はあの屋敷に置いてきたままだからね。そうだ、あの服だけでも返してもらうように警察に交渉できないかな」

「でもイスベルさん、そういうシンプルな服も似合いますよ」

 ティーセットの乗ったトレイを持ったアリーが出てきた。ナツメのデスクにカップを置いて、ティーポットから紅茶を注ぐ。

「これは?」

「紅茶よ」

「ありがとう。おかげで私の嗅覚は死んでいないことが分かった。ついでに聞くと、こんな道具は私の知る限りこの家にはなかったはずだが……」

「そんなの、わたしが家から持ってきたに決まってるじゃない。だってこの事務所、食べ物どころかお茶のひとつもないんだもの。女王様を泊めるのにそんなんじゃ外交問題になるわ」

「王女様?」

「違うよアリー。まだ即位はしていないから王女だ」

 少年が訂正した。

「そうか、君は少女だったのか」

「ああ、自己紹介がまだだったね。僕の名前はイスベル・ドナ・イェルケ・カルファウンターシャ。マリクセリア王国の王位継承権を持っている」

 ここで賢明な読者諸君はすでにお気づきであろうが、ナツメたちの会話はすべてこの国の言語、すなわち英語で行われている。英語では一人称に「私」や「僕」や「ウチ」というバリエーションはなく、すべて同じ「I(アイ)」で表現される。

 ナツメはイスベルの話し方(特に一人称)によって彼女を少年と間違えたのではない。イスベルの語彙や話し方、会話の態度など、彼女のすべてを総合して「男っぽい」と判断したのである。

 なお、以降もイスベルの一人称を「僕」と表記するが、これはイスベルの話し方がいかにも男らしいという、聞き手の印象を文章に反映させたものであると考えていただきたい。

「そうか、お前は僕を男だと思っていたか。まあ仕方がない。僕の故郷では、王族はみなこのように話す。強くあらねばならないからな」

 力強く、というよりはやり過ぎて舞台俳優のような仰々しい仕草でイスベルが答えた。

「わたしも最初は男の人だと思ってたわ。おとぎ話に出てくる王子様みたいな格好良い人だなーって」

「期待させて済まない」

「ううん、ぜんぜん。わたしはもう心に決めた人がいるから」

 ね、とアリーはナツメに微笑んだ。何の話か分からなかったので適当に頷いた。

「ところでアリー、どうして……えーと、イスベルを私の事務所に連れてきたのかな」

「だってバーンハードさんが亡くなって、泊まるところがどこにもないって言うんだもの。それにイスベルさんは事件があったときにお屋敷の中にいたんだから、事件の捜査には必要でしょう?」

「事件の捜査はもうしないよ。バーンハード氏は事故死だよ。警察はそう結論づけたんだ、私にできることはこれ以上ないよ」

「でもナツメはそれを信じてないんでしょう? わたしには分かるもん」

「市井の市民である私が事件捜査に介入できるのは『警察が顧問として雇っている』という大義名分があったからだよ。……まあ、あの日はそれすら私が偽造したわけだけどね……。ともかく、もう私は警察から目をつけられていて、捜査どころか屋敷に近づいただけで逮捕されるよ」

 これは脅しではなかった。勾留だけで済んで起訴されなかったのは奇跡に近い。アリーの父上のご加護だろうか。

「でもナツメ」

「なんと言われようと私にはこれ以上は無理だよ」

「イスベルがどうしてあの隠し部屋にいたのか、詳しい話を聞きたいんじゃないかしら?」

「どうせ事故か何かだろう」

「それどんな事故よ!」

 アリーを適当にあしらいながらタバコに火をつけようとしたら、怒ったアリーにタバコをぶんどられた。

「今日からこの事務所は禁煙です!」

「そんなご無体な」

「だって王女様がいらっしゃるのに、タバコなんか吸ったらダメ! あとお酒もダメ!」

「私がアルコールを摂取してもイスベルには影響ないだろう」

「健康に悪いからダメ!」

 こうなってはもう理屈も何もない。

 ナツメたのやり取りを見ていたイスベルがくすくすと笑い声を漏らした。

「いや、失敬。お前たちはまるで親子のようだな」

「それ、私は親と子のどっちの役が当たってます?」

「念のために言っておくと、僕がバーンハードのところにいたのは事故ではないよ。僕はバーンハードに匿われていたんだ。マリクセリアのクーデターが終わるまで」

「クーデターは終わりそうなのかい?」

「すでに王家の軍が首都を包囲しているんだ。一ヶ月ほどで反乱軍も降伏するだろう」

「そもそも君とバーンハード氏はどういう関係なんだ」

「おっと、そのあたりの事情は話せない。悪いけどね。そういう約束なんだ」

「バーンハードは死んだよ。もう約束は消滅している」

 しかしイスベルは首を縦には振らなかった。

「僕が言えるとすれば、バーンハードはクーデターが起きて命を狙われていた僕をこの国に匿ってくれた恩人だということだ。ちょうどそのとき僕は海外に留学していてね、あのまま帰国していたら僕も殺されていた」

「じゃあ、バーンハード氏が殺されたのは、反乱軍の刺客が君の命を狙ってやってきたとか?」

「分からない。警察にもアリーにも話したけど、僕はバーンハードが殺されたことすら知らなかったんだ。あの隠し部屋は中の音が外に漏れないように作られていて、逆に言えば外の音も中からは聞こえないんだ」

「この国に来たのはいつ?」

「半月前だよ。バーンハードの飛行機の貨物室に隠れてやって来てから、車のトランクに隠れて屋敷に移動して、それからはずっとあの部屋に隠れて一歩も外出していない。ふふふ、屋敷での生活は快適だったがやはり空が見えないのは肩がこるね」

 イスベルは、ナツメの肩越しに、窓から空を眺めて答えた。

「まあとにかく、バーンハードが殺されたとしても僕のやるべきことは変わらない。クーデターが終わったら祖国に帰る。それまでここに居させてくれ。昨日も話したが、とにかくマリクセリアに戻れれば金は払えるんだ」

「残念ながらミズ・イスベル、この事務所には二人の人間を養えるだけのお金はないんだよ。一ヶ月後にどれだけ報酬を受け取れても、その前に来週の食事の金がないんだ」

 ナツメがそう言うと、アリーはにっこりと笑った。

「じゃあ、お仕事しないとね。名探偵さん」

「アリーから聞いたが、お前はこの国に比類なき名探偵というじゃないか。その名探偵の事務所にしては、ここは、その」

 王族らしく、言葉を選んでいるようだった。

「『簡素』だな。いやなに、これはそういう哲学なのかもしれないとも思ったが、来週の食事にすら事欠くとはどういうことだ」

「ナツメは悪くないんです。警察がナツメのことを信用しないから、あまりお仕事がなくて」

「ふむ。これも何かの縁だ、僕がマリクセリアに凱旋したら、お前を警察の顧問として雇ってもいい」

「それはどうも……王女様」

「わあ、素敵! でもナツメ、この国を離れちゃうの? わたし、海外って行ったことないわ」

「なんでアリーも一緒に来るんだ」

「だってわたし、ナツメの助手だもん。あの夜ナツメが刑事さんに紹介したんでしょ?」

「あれはアリーのことを――ええい、話がそれてる。それより金のことだ」

「イスベルをここに連れてきたのはわたしだから、イスベルのお金はわたしが出すわ。ナツメが警察署にいる間、イスベルの食事を買ってきたのはわたしだし……」

「馬鹿な、君にそんなことはさせられない」

 だいたいいくらアリーとはいえそんなお金があるとは思えない。それに、少女の小遣いで食いつなぐというのは、自分があまりにも惨めだ。

 アリーはナツメに顔を近づけて微笑んだ。

「お仕事したいなら、お父さんに言って、探してもらうけど?」

 どうも自分は、いつもアリーの手のひらの上で踊らされているような気がする……。ナツメは無意識にタバコを口にくわえて、直後またアリーにそれを奪われた。


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