第8話 楽しい午後の一時
ボーリング大会を境に、結城部長の評価は大きくアップした。
「びっくりしたよ。部長はやっぱり銀行員だぜ。誰も気がつかなかった数字の間違いを一発で見つけたんだ」
「そうなんだよ。俺も『こういう言葉使いじゃ失礼だよ。赤ペン入れておいたから、直しなさい』なんて、今までとは違うぜ」
こんな男性社員たちの会話が聞こえてくると、真由美までも嬉しくなった。
そして、楽しみがもう一つできた。
「いつもブラックね」
「そっちはカフェラテだね」
「甘いのが好きなの」
午後2時過ぎ、食堂の自動販売機の前は二人の待ち合わせ場所になっていた。
部長が来れば、若手社員は逃げていくし、女の子は給湯室が溜まり場。だから、「密会」には都合が良かった。
「今日は忙しいの?」
「派遣のオバサンよ。忙しい訳ないでしょう」
「でも、席に座っている時間が無いみたいだけど」
「ふふふ、見てくれているんだ」
「当たり前だろ。僕の真由美だぞ」
「僕の真由美」だなんて、30数年ぶり。真由美は「ありがとう」と言ったが、顔も赤くなっていた。誰もいなくてよかった。
「じゃあ、僕は戻るから」
「はい、またね」
社内だから会話はこんなたわいもないことばかりだが、真由美は正也クンと再び心が通じ合ったようで、とても嬉しかった。ただ、話が家庭のことになると、彼の顔は曇る。
「子供は?」
「二人。上が男の子。この子は結婚して東京にいるんだけど、下が娘なんだけど、25なのに全くお嫁に行く気配がないの。困っちゃうの」
「いいなあ、子供がいると。うちは女房と二人きりだよ」
「そうなの。奥さんもこちらに?」
「いや、東京。『どうぞ、お一人でいってらっしゃい』だって」
一橋大学を卒業し、都市銀行に就職、婿養子になるくらいだから、いろいろと期待されたのだろうが、地方の小さな会社に左遷、それも単身赴任。この30数年、東京で何があったのか分らないが、端から見る様な恵まれた生活ではなかったことは確かだ。
「まあ、自由に過ごせるから、気楽だけどね」
彼は飲み終えたコーヒーカップを覗き込んでいたが、何だかとても寂しそうだった。
(いけない、落ち込む話をしちゃった…切り替えなくちゃ)
「ねえ、カラオケに連れて行ってよ」
「えっ、いいのか?」
「若い女の子とよく行くんでしょう?」
「いや、あれは…あははは、よく知っているな」
やっぱり正也クンには笑顔でいて欲しい。こうなったら…
「当たり前よ。噂話は女の得意技よ」
「そうか、なるほど」
「でも、若い女の子と仕事でしょう。私とは仕事じゃないから」
言ってしまった。とうとう言ってしまった。真由美は「あは、恥かしい」と背中を向けたが、クルッと振り向き、「気持ちは変わってないから」と言うと、トイレに駆けこんだ。
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