斗路看葉奈は見張りたい
文子夕夏
第1話:カップラーメンと看葉奈さん
「とうとう……この時期が来たのですね……!」
キリリと眉をひそめ、廊下に貼られたポスターを眺める少女がいた。緩く巻かれたマフラーが、彼女の輝く黒髪を優しく持ち上げていた。
少女の名は
「ちょっとみーちゃん、何ポカーンと阿呆みたいに突っ立ているのよぉ」
看葉奈の三メートル前方で振り返った少女(彼女も一年生である)は、溜息交じりに歩み寄って来た。名を
「いえ、そのぉ……これを見ていまして」
「……あぁ、《目付役》の登用試験ね? 大変らしいわよぉ、これ」
ポスターには踊るように筆文字が書かれ、「待つ。闘技の裁定者を――」と、道行く生徒に訴えていた。
花ヶ岡高校では賀留多闘技が盛んである――この事実は広く知られており、また特異な文化が付いて回る事も有名であった。
賀留多によって「揉め事を解決」する。賀留多によって「校内通貨をやり取り」する……何もかもが賀留多に依存した花ヶ岡において、不正行為――要するに
花石、と呼ばれる校内通貨を、時には「今後」さえも賭けて戦う生徒達を監視し、「緊急事態」にも充分に対応出来る人間――これを《目付役》と呼び、生徒達は敬い、または畏れた。
「噂で聞いたぐらいだけど、試験内容が変わっているらしいわぁ」
マフラーの先をクルクル回しながら柊子が言った。
「筆記試験と面接だけ。実際に賀留多を打って実力を計る――って事はしないんだって」
「えっ!? め、面接ですか……?」
青ざめた顔で看葉奈が叫んだ。
面接……私、絶対無理だよぉ……。スーパーマーケットの店員に話し掛けられただけで目が泳ぎ、挙げ句の果てに「万引き犯」と疑われた記憶が、彼女の胸をチクリと刺した。
「何よ、みーちゃん……まさか、これ受けたいの?」
怖ず怖ずと頷いた看葉奈。引っ込み思案な親友が意欲を見せる事に喜びつつ、しかし「段階ってものがあるでしょう」と苦笑いを浮かべる柊子であった。
「だって、目代姐様に恩返ししたいから……しーちゃんも《代打ち》、最近始めたんですよね? 私も《目付役》になって、平等で公正な花ヶ岡を作りたいんです! きっと姐様も喜びます!」
フン、と鼻息荒く野望を述べた看葉奈は、ふと「目代姐様との出会い」を思い出した。
以前、看葉奈と柊子は質の悪い上級生に「《金花会》で勝ち過ぎだ」と難癖を付けられ、嫌がらせに困っていた事がある。
そんな二人を見かねて(正確には二人から熱烈な依頼を受け)、「目代小百合」という二年生が《代打ち》を買って出ると、見事上級生達を撃破してくれたのだった。
本来ならば――目代小百合が戦う相手は一人であったが、担当の《目付役》は闘技当日に「当事者全員に勝利しろ」と条件を後出しした。
その目付役は事前に、上級生達から高額の花石で買収されていたのだった。
絶対公正の立場を貫くはずの目付役が腐敗している。看葉奈はいたく憂い、密かに「在るべき姿の目付役」になりたいと願うようになった。
いつか、あの人に恩返しをしなくては……。
二人は恩着せがましい事も言わず、黙して去って行く目代小百合の後ろ姿に感動し、そう決意した。やがて柊子は「私も《代打ち》をやるわぁ」と気軽に決定、《代打ち》を務める目代小百合の供回り的立場を獲得したが……。
控え目に輪を掛けた性格が災いし、看葉奈は何も出来ずにいた。
「もっと他に恩返しの方法はあるわよぉ? 例えば……姐さんは物凄い無口でしょう? その通訳とか」
「……それも考えましたけど」
「考えたんだ……真面目系阿呆ねぇ」
頬を膨らませる看葉奈。残念ながらマフラーがすっかり隠している為、精一杯の怒気は柊子に届かない。
「姐さんも言っているじゃない。『その気持ちだけで嬉しいよ』って」
「でも、でも! しーちゃんは《代打ち》をやっているじゃないですか。私だって何か……やりたいんですもん」
ウルウルと目を潤ませた彼女を宥め、「とりあえず」とポスター下段を指差した柊子の気苦労は如何に。
「応募用紙だけでも持ち帰る、ってのはどう? ここで即決するよりは、ゆっくりお家で考えなさいな。じっくりこってり考えて、それでもやるって言うなら……私は全力で応援するわ」
「し、しーちゃん……持つべきは親友、ですね!」
柊子は抱き着いて来る看葉奈を華麗に躱し、「帰るわよ、ほらぁ」と彼女の首を掴んで歩き出した。
「酷いですよ! 私をまるで子猫のように!」
「自分の事を子猫と言う女、初めて見たわぁ」
ズルズルと麺を啜る音が響いた。夜食にカップラーメンを食べる看葉奈が音源であった。「夜食は太るわよ」と諫めてくる母親を無視し、ゆっくりと私室で食するラーメンは格別であったが……。
テーブルの上に置かれた「応募用紙」が、彼女の表情を曇らせていた。細かな文字でビッシリと書かれた「求める人物像」に――看葉奈は項垂れていた。
――花ヶ岡高生の矜持とも呼べる賀留多文化を、見えぬ位置から力強く支える《目付役》。以下の目付役五則を全て満たせると自信がある方だけ、お名前をご記入の上、会計部事務室横の受付箱にご投函下さい。
・立ち振る舞い、言動に曇り無き「精神的」美人の方。
・如何なる不正も赦さず、決して懐柔される事の無い方。
・賀留多に並々ならぬ愛情を向け、かつ啓蒙活動に意欲的な方。
・唯の一度も校則に反した事の無い方。
・我欲を抑え、律し、他の生徒の見本になれる方。
※試験に合格後、会計部に所属していない方は会計部員も兼任して頂きます。
「…………」
看葉奈は目の前で揺れる湯気を見つめた。我欲に敗北した決定的証拠が、彼女を嘲笑っているようだった。夜中に食べる醤油豚骨味は中毒性があった。
「……うっ」
胸の奥が痛む。情け無さによるものだった。しかし、美味いのだから仕方無い。女子高生が夜遅くに醤油豚骨味のラーメンを食べて何が悪い――看葉奈は開き直りたかったが、溜息を吐く柊子の顔が脳裏を過る。
ポロリと涙が零れる。落ちた滴は濃厚なスープに着水し、微かな塩味を加えた。
「駄目だ、私……五則をクリア出来そうにないですよぉ……」
あぁ、賀留多の実力なら誰にも負けないのに! どうして目付役の登用試験は筆記試験と面接なんだろう!
看葉奈は《金花会》を取り仕切る会計部を恨んだ。恨み、怒り……ラーメンを食べ終えた。普段ならスープの一滴まで飲み干す彼女だったが――。
この日、初めて看葉奈はスープを残した。味はいつも通りの満点にも関わらず、だった。
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