斗路看葉奈は見張りたい

文子夕夏

第1話:カップラーメンと看葉奈さん

「とうとう……この時期が来たのですね……!」


 キリリと眉をひそめ、廊下に貼られたポスターを眺める少女がいた。緩く巻かれたマフラーが、彼女の輝く黒髪を優しく持ち上げていた。


 少女の名は斗路看葉奈とうじみはなといった。臆病な性格であり、夏よりは冬の方が好きだった。理由は……マフラーで顔面を広く隠せるからだった。


「ちょっと、何ポカーンと阿呆みたいに突っ立ているのよぉ」


 看葉奈の三メートル前方で振り返った少女(彼女も一年生である)は、溜息交じりに歩み寄って来た。名を宇良川柊子うらかわしゅうこといい、看葉奈とは対極の性格である。「アイスが美味しい」という理由で、冬よりも夏が好きだった。


「いえ、そのぉ……これを見ていまして」


「……あぁ、《目付役》の登用試験ね? 大変らしいわよぉ、これ」


 ポスターには踊るように筆文字が書かれ、「待つ。闘技の裁定者を――」と、道行く生徒に訴えていた。




 花ヶ岡高校では賀留多闘技が盛んである――この事実は広く知られており、またが付いて回る事も有名であった。


 賀留多によって「揉め事を解決」する。賀留多によって「校内通貨をやり取り」する……何もかもが賀留多に依存した花ヶ岡において、不正行為――要するに忌手イカサマは御法度中の御法度であった。


 花石、と呼ばれる校内通貨を、時には「今後」さえも賭けて戦う生徒達を監視し、「緊急事態」にも充分に対応出来る人間――これを《目付役》と呼び、生徒達は敬い、または畏れた。




「噂で聞いたぐらいだけど、試験内容が変わっているらしいわぁ」


 マフラーの先をクルクル回しながら柊子が言った。


「筆記試験と面接だけ。実際に賀留多を打って実力を計る――って事はしないんだって」


「えっ!? め、面接ですか……?」


 青ざめた顔で看葉奈が叫んだ。


 面接……私、絶対無理だよぉ……。スーパーマーケットの店員に話し掛けられただけで目が泳ぎ、挙げ句の果てに「万引き犯」と疑われた記憶が、彼女の胸をチクリと刺した。


「何よ、みーちゃん……まさか、これ受けたいの?」


 怖ず怖ずと頷いた看葉奈。引っ込み思案な親友が意欲を見せる事に喜びつつ、しかし「段階ってものがあるでしょう」と苦笑いを浮かべる柊子であった。


「だって、に恩返ししたいから……も《代打ち》、最近始めたんですよね? 私も《目付役》になって、平等で公正な花ヶ岡を作りたいんです! きっと姐様も喜びます!」


 フン、と鼻息荒く野望を述べた看葉奈は、ふと「目代姐様との出会い」を思い出した。


 以前、看葉奈と柊子は質の悪い上級生に「《金花会》で勝ち過ぎだ」と難癖を付けられ、嫌がらせに困っていた事がある。


 そんな二人を見かねて(正確には二人から熱烈な依頼を受け)、「目代小百合」という二年生が《代打ち》を買って出ると、見事上級生達を撃破してくれたのだった。


 本来ならば――目代小百合が戦う相手は一人であったが、担当の《目付役》は闘技当日に「当事者全員に勝利しろ」と条件を後出しした。


 その目付役は事前に、上級生達から高額の花石で買収されていたのだった。


 絶対公正の立場を貫くはずの目付役が腐敗している。看葉奈はいたく憂い、密かに「在るべき姿の目付役」になりたいと願うようになった。


 いつか、あの人に恩返しをしなくては……。


 二人は恩着せがましい事も言わず、黙して去って行く目代小百合の後ろ姿に感動し、そう決意した。やがて柊子は「私も《代打ち》をやるわぁ」と気軽に決定、《代打ち》を務める目代小百合のを獲得したが……。


 控え目に輪を掛けた性格が災いし、看葉奈は何も出来ずにいた。


「もっと他に恩返しの方法はあるわよぉ? 例えば……姐さんは物凄い無口でしょう? その通訳とか」


「……それも考えましたけど」


「考えたんだ……ねぇ」


 頬を膨らませる看葉奈。残念ながらマフラーがすっかり隠している為、精一杯の怒気は柊子に届かない。


「姐さんも言っているじゃない。『その気持ちだけで嬉しいよ』って」


「でも、でも! しーちゃんは《代打ち》をやっているじゃないですか。私だって何か……やりたいんですもん」


 ウルウルと目を潤ませた彼女を宥め、「とりあえず」とポスター下段を指差した柊子の気苦労は如何に。


「応募用紙だけでも持ち帰る、ってのはどう? ここで即決するよりは、ゆっくりお家で考えなさいな。じっくりこってり考えて、それでもやるって言うなら……私は全力で応援するわ」


「し、しーちゃん……持つべきは親友、ですね!」


 柊子は抱き着いて来る看葉奈を華麗に躱し、「帰るわよ、ほらぁ」と彼女の首を掴んで歩き出した。


「酷いですよ! 私をまるで子猫のように!」


「自分の事を子猫と言う女、初めて見たわぁ」




 ズルズルと麺を啜る音が響いた。夜食にカップラーメンを食べる看葉奈が音源であった。「夜食は太るわよ」と諫めてくる母親を無視し、ゆっくりと私室で食するラーメンは格別であったが……。


 テーブルの上に置かれた「応募用紙」が、彼女の表情を曇らせていた。細かな文字でビッシリと書かれた「求める人物像」に――看葉奈は項垂れていた。




 ――花ヶ岡高生の矜持とも呼べる賀留多文化を、見えぬ位置から力強く支える《目付役》。以下のを全て満たせると自信がある方だけ、お名前をご記入の上、会計部事務室横の受付箱にご投函下さい。


・立ち振る舞い、言動に曇り無き「精神的」美人の方。

・如何なる不正も赦さず、決して懐柔される事の無い方。

・賀留多に並々ならぬ愛情を向け、かつ啓蒙活動に意欲的な方。

・唯の一度も校則に反した事の無い方。

・我欲を抑え、律し、他の生徒の見本になれる方。


※試験に合格後、会計部に所属していない方は会計部員も兼任して頂きます。




「…………」


 看葉奈は目の前で揺れる湯気を見つめた。我欲に敗北したが、彼女を嘲笑っているようだった。夜中に食べる醤油豚骨味は中毒性があった。


「……うっ」


 胸の奥が痛む。情け無さによるものだった。しかし、美味いのだから仕方無い。女子高生が夜遅くに醤油豚骨味のラーメンを食べて何が悪い――看葉奈は開き直りたかったが、溜息を吐く柊子の顔が脳裏を過る。


 ポロリと涙が零れる。落ちた滴は濃厚なスープに着水し、微かな塩味を加えた。


「駄目だ、私……五則をクリア出来そうにないですよぉ……」


 あぁ、賀留多の実力なら誰にも負けないのに! どうして目付役の登用試験は筆記試験と面接なんだろう!


 看葉奈は《金花会》を取り仕切る会計部を恨んだ。恨み、怒り……ラーメンを食べ終えた。普段ならスープの一滴まで飲み干す彼女だったが――。


 この日、初めて看葉奈はスープを残した。味はいつも通りの満点にも関わらず、だった。

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