火種
森 真尋
cause; surprise.
試験の結果は、講堂内の様子を一瞥するだけで示されてしまった。経過を見ずとも、生徒たちの稚拙さは伝わってくる。学級ごとに並べられた列は、それぞれを認識することが難しいほどに雑然とし、事件の招いた混乱の大きさを物語っていた。
事の起こりから暫く時が経ち、緊張していた雰囲気は弛緩しつつある。喧噪は未だに講堂を響かせているが、生徒たちの口から零れる言葉は、通常のお喋りのそれに変わっていた。
それにしても、まだ学級ごとの点呼が終わらない。ある学級委員は乱れたままの列に沿って歩き、立ち止まっては名簿を睨んで首を傾げ、手に持った筆記具で後頭部を掻いている。点呼を取られる生徒たちは列を真っ直ぐに正そうともせず、お喋りに興じるばかりだ。暖房が効かず床は冷たい、一度座ると尻を上げて再び動くのが億劫になるらしい。
列を往復し、その先頭まで戻ってきた学級委員は、己の担任に名簿を渡して役目を終える。その後、列に加わり座って待機するよう指示が出されている。
俺の受け持つ学級も、点呼がようやく終わったらしい、学級委員に名簿を渡される。
「ご苦労さん」
幸いなことに、誰も行方不明にはなっていないようだ。安堵から溜息が零れ、しかつめらしく二度三度頷き、名簿を持ったまま腕を組んだ。
そのとき、袖から煙たい臭いが漂ってくるような気がした。
肌寒さを覚え始めた時雨の季節、その日、昼休みの終了を告げたのは、火災報知器のベルだった。家庭科室の屑箱から出火したという。
女子生徒たちの密かに話す声が聞こえてきたのは、おそらく偶然だった。俺が担任を務める学級の生徒ではない、しかし、彼女たちがどの学級の列に並んでいるのかは判らなかった。俺の立つ位置から少し離れたところに座っているが、それが列の先頭だからだろう、彼女たちの声は明瞭に耳に入ってくる。
話し始めたのはあの学級委員らしい、点呼を終えて列の前方に座ったばかりのようだ。
「さっき、先生から訊いてんけど、ただの小火やってんて」
関西弁で話す彼女は、担任に名簿を渡した際に、事件の詳細を訊ねたのだろう。
「やっぱり」
「火の気、全然無かったしね。煙の臭いすら感じなかったし」
「それにしては、大騒ぎだったなぁ」
「大混乱やったな」
赤いリボンで髪を結んだ女子生徒は、まるで他人事のように語る。
「先生たちも慌てて、怒鳴って、もう滑稽ですらあったよ」
「あはは、煙を吸うなぁっ、とか言ってたしね」
黒縁の眼鏡を掛けた女子生徒は、控えめに大笑いしていた。
「あれ、息をすんなぁっ、やなかったっけ」
「でも、どうして火が出たのかなぁ」
「自然発火じゃないの。家庭科室、燃えやすそうなごみとか出そうだし」
「空気、乾燥してるからね」
「いや、雨降ってるやん。それに、放火かもしれへんって、先生が言うてたわ」
「ええ、じゃあ、この中に放火犯が紛れ込んでるってことかぁ」
すぐ傍で犯人が立っていて会話を聞いているかもしれないのに、彼女たちは暢気に続ける。
「犯人、捕まるんかな」
「さあ。でも、理事長がどうにかするでしょ」
彼女の考える通り、理事長はおそらく、この事件の捜査に警察や消防の介入を許さないだろう。そもそも、その事件が小火騒ぎだ、捜査も大概にし、事故として処理するに違いない。あまり大仰にはしたくないのだ。
「理事長で思い出してんけど、先々週やったかそれくらいに、避難訓練あったやんな」
避難訓練が行われたのは、先週だ。
「うん、あったね。そういえば、理事長が怒ってたなぁ」
「怒ってたっていうか、注意されたのよ」
「真面目にやらんかったからな」
「訓練しても無意味だって思ってたしね」
「でも、今回の混乱を思えば、あの訓練の意味は本当に無くなったよね」
確かにあれは不真面目で無意味な訓練だったが、もし今回の避難が滞りなく済んでいれば、少しばかりは有意義だったとでもいうのだろうか。
「あ、誰が放火犯かわかった。理事長やん」
「まさか。避難訓練が不出来だったから、その腹癒せに?」
「いや、抜き打ちの避難訓練やねんて」
「わざわざ火を着けてまでするかなぁ。ちょっと間違えれば大火事になるかもしれないのに」
「まあ、冗談やけど」
彼女たちは、悪戯をしているときのように、密かに笑い合った。
俺も薄い笑みを浮かべそうになり、首を横に振って紛らせた。
全ての学級の点呼が終わる頃、つまり全員の避難の完了が確認された頃には、講堂内の雰囲気は完全に弛緩し、午後の授業が中止になったことを喜ぶ生徒まで現れていた。事の起こりから随分と時が経ったということだ。
徒労感から溜息が漏れる。組んでいた腕を解き、片手を懐に入れる。そこで、指先に熱の感触を覚えたような気がした。当然、それは既に冷たくなっているはずで、もちろん自然に火が着いたわけもない。誤って着火しないように気を付けて、手中でそれを弄ぶ。
そして、誰にも聞こえないような小声で呟いた。
「全員、不合格」
火種 森 真尋 @Kya_Tree
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