10. 怪仏

 周囲でざわめきと、中には悲鳴があがり、何事かと思った頃には俺の視界は不自然に翳る。

 ゾンビでも現れたのかっつーの、と顔を上げた俺の前にはふんどし一丁、上半身を赤く染め上げ霧雨を蒸発させて湯気を上げた……赤鬼竹中の姿だった。


「あ」


 完ッ全に、忘れていた。

 人間ここまで完全に忘れることがあるんだなあ、と完全に感心するほどの完全に忘れていた。


 優月。

 黒服。

 変身ベルト。

 竹中。


 偏差値三十以下の俺の頭では、どれか一つが抜ける、そういう仕様らしい。


 蒸気で動く装置のように口と鼻からしゅーしゅーと白い湯気を上げる竹中に、俺はまるでイカサマ花札の件などなかったようにいつもと同じ明朗な調子で話しかけた。


「ああ、あわあわああわああひたたた、あたたけな、かッ! さんッ! あひゃは、hyひい、いいいおおおお天ティン気ですねッ!」


 俺の言葉に反応はなく、引き続きしゅーしゅーと冷たい霧雨さえ蒸発させ、湯気を上げている竹中。

 ああ、もしかして俺じゃなくて俺の後ろにいる誰かとか、何かとかに話しかけているのであって、俺なんか眼中にないってことなのではないだろうか。


 そうだ、そうに違いない。

 こんな長い時間、怒り狂っているわけが無い。

 だったら今のうちに退散するのが親切というものだ。


 そっと横を抜けて……。


「ぬぁるだぁぎぃいッ!!」


「うぅひゃああええええあああッ!」


 竹中のサラミ並に太い指が学ランの胸倉を掴んだかと思うと、身長百八十二センチの俺のつま先は地面から二十センチは簡単に浮いた。


「話し合いでの解決を求めますッ! 言語設定、日本語日本語!! マイ・ネーム・イズ・ジャパニーッズ!」


 しゅー……しゅー……。

 なるだぎ、なるだぎ……。


 竹中の返答はそれだけだった。聞く耳持たない……ではなく、聞こえていない、そんな状態だ。

 様子がおかしい。よく見れば唇の端から泡さえ漏れている。

 まるで、悪霊にでもとり憑かれているような有様だった。


 突然のことだった。

 ぱかり、と口を開けた竹中の口から聞こえたのは――


「ッヒヒーンッ!!」


「ヴええええええッ!?」


 ――どう頑張ってもどう引っくり返しても耳が捉えたのは、馬のそれでしかない嘶きだった。


 嫌がらせにしたってギャグにしたってシュールすぎて俺には全く理解が出来ない。

 目を見開き口を開き仰天のまま震え上がるだけだった。


 ぐるん、と竹中の黒目が勢い良く上瞼の中へ隠れ、白一色をむき出しにしたかと思うと今度は顔の筋肉をあちこちに動かし顔芸を始める。

 もちろん笑わせようとしているわけではないのは窺い知れる。

 次第に顔芸は激しさを増し……いや、それは筋肉の限界を超えているだろ!


 パチパチと小さな破裂音が聞こえた。多分、筋肉組織の変形が立てる音で……。

 それどころか竹中の頭は骨に対して無遠慮に盛り上がり、不行儀に栗毛が生い茂り、怒髪天のたてがみを揺らし、あっという間にその頭部は巨大な馬のものに再構築された。


 こんなの人間じゃない。

 こんなの人間じゃない!

 こんなの人間じゃない!!


 ミノタウロス、なんて怪物の名前は知っている。

 牛頭人身の怪物だ。確か、ギリシャ神話の。

 竹中が変貌した姿はそれの、馬バージョンだった。


 ウマタウロスだ!


 周囲に立っていた人々がとうとう悲鳴を上げて逃げ出していく。


 胸倉を捕まれた俺は成す術も無く、雑食動物から草食動物と変貌を遂げた竹中と目が合った。

 もしかしたらまだ人間の心が残っているかもしれない、せめてこの腕を放してほしい。俺は一目散に逃げるから。


「た、たっ、たたッ竹ぇ中ぁ……ッ?」


「ブルルルルッ」


 病気持ちの鶏でしかない俺の呼びかけに、竹中は馬そのものの返答をした。


 拳がそのまま入りそうな巨大な穴と舌垂れっぱなしの口から飛沫が飛んでくる。そしてくちゃくちゃと何かを噛み締めていた。

 馬の頭なのだから当然かもしれないが、人間の動作とはかけ離れていた。

 今度は鼻が隆起し、掴みあげた俺の匂いを嗅いだかと思うと、今度は人間風に首を傾げた。


「ぢがう……べるど、うつわの、おんな」


 優月のことか……?


「きゅう、さい……力ずく……強制、救済……! 心を、無にせよ! 望みを、無にせよ!」


 舌が別の意思をもった生き物のように跳ね上がり、劈くような嘶き。

 再び飛沫。


「汚い! 手ぇ離せ! 俺に馬菌をくっつけんじゃねえ! 馬が感染すんだろ!」


 そんな心配はいらんといわんばかりにウマタウロスの口が開閉し、太い腕はその口に俺の頭を運んでいく。


 頭から食べられてしまうというやつ!?

 馬に!?

 草食動物に!?

 動物性タンパク質であるこの俺が!?


「ひ、ぃい! 誰かッ! た、たす助け――!」


 情けない俺の絶叫は尻すぼみになって、消えた。


 タイヤが見えた。

 そして、馬の頭が薙ぎ払われた。


 目の前で起きたのはそれだけのことだった。

 俺の身体は雨に濡れたアスファルトに叩きつけられたが幸いにしてウマタウロスの腕からは逃れられたようだ。


 誰かが俺のピンチを救ってくれた、それだけはわかって咄嗟に姿を探す。

 ウマタウロスが膝をつくその向こうに、一台の白いスクーターが後輪を大きく滑らせ方向転換していた。


 その騎手が視界に入った途端、俺は、異国の王子様という言葉を浮かべた。

 だが、よくよく見るとベクトルが真逆の存在だった。


 白いスクーターには"タイ料理大和やまと"と、俺も知っているレストラン店の名前と電話番号がコテコテな創英角ポップ体で書かれており、乗っている男は厨房からそのまま出てきました、と言わんばかりのシミが点在したアジア風のコックコートに気休め程度のゴーグル付き白ヘルメットをかぶっている。

 こんな時間までデリバリーとはご苦労なこった。


 そして俺が王子様だなんて柄にも無く思ってしまった要因は、ピンチを救ったかっこよすぎる登場の仕方と、その男の容貌にあった。


 俺はひねくれている。

 それでも、その俺が、一目で認めてしまうほどの美丈夫だった。


 浅黒い肌に黒髪の長い三つ編み、服装に不釣合いな黄金のアクセサリ、額に赤い印をつけているから安直な考えかもしれないがインド人だろうか。いや、淡白な眉目はアジアン……中国人のようにも見える。

 とにかく人種はよくわからんが、明らかに職務中、しかも下っ端の風体をしているのに高貴さを感じる色黒の外国人美青年だった。


「僕が配達帰りで良かったな、禅! 無事か!」


 何故か俺の名前を知っていて、まるで旧知の仲の如く馴れ馴れしく呼びかける。


「た、助かった……ありがとう、でもお前……」


 誰なんだ?


 立ち上がり息を整えながら問いかけた俺だが、スクーターの青年の視線は鋭くウマタウロスに突き刺さっていた。

 それはよろめきながら姿勢を整え、まるで青年の隙をうかがい、しかしそんなものが無いと見越したかのように逆方向に走り出す。


 低い姿勢、巨躯からは想像もできぬ速さは数時間前に見た竹中のラリアットそのものだった。一つ違いがあればその勢いは衰えず、真っ直ぐに人波にぶつかっては通行人をなぎ倒し悲鳴の渦を作っている。


 なんて恐ろしいことが起きたんだ……。

 知った顔が目の前で突然バケモノになって、別のものに乗っ取られてしまったかのように暴れ始めて……。


 呆然としている俺の奮起を促すように美青年は人差し指をウマタウロスの去った方向に示す。


「禅、追うんだ! やつを倒せ!」


「倒せ!?」


「お前ならできるはずだ」 


「あんたっ……あんたは何者でっ……いや、そんなことはとりあえずどうだっていい、あんたはどうするんだ!?」


 追いかけるにしたって一人じゃ心細いし、走ったって追いつけるかどうか。

 そのスクーターに乗せてくれるんだよな?

 そんな期待があった。


「僕は仕事に戻る。SMクラブで時間を潰し過ぎた、これ以上遅れると店長に怒られてしまうのでな」


「え?」


 SMクラブ?

 何の話?


 俺の頭の上に疑問符が浮いては消えを繰り返しているうちにスクーターは再び向きを変えて走り去っていった。


 情報飽和状態の俺は彼のことを一旦忘れることにして――ヤバいヤツだということだけは念頭に置いておく――そうだ、ウマタウロスだ。


 変身ベルトを追っている。

 優月を追っている。

 ぼんやりとした不安ではなく、早急な危機が彼女に迫っていることとなる。


 点数を取り返したいだけ。


 そのハードルは、異形のバケモノの登場で一気に高さを増したが、俺はすでに巻き込まれているということを――むしろ事態の中心にいるのではないかと薄々自覚して、知らないフリをするという最も賢くて安全な選択肢を失っていた。

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