08. 真夜中は純潔-(2)

「せめて礼になるのなら、その……臥所ふしどを共にしても、よいぞ。ここはそういった施設なのだろう」


 よいぞ。


 何が?

 俺は今、闇との交信に忙しくて……。


「はい?」


「…………」


 俺は携帯電話を取り出して「ふしど」とやらを検索した。


 ふし‐ど【臥所】

 [意味] 夜寝る所。寝所。寝床。ねや。ふしどころ。

 - 出典:デジタル大辞泉


 そしてのろのろと携帯電話を学ランの胸ポケットに収めた。


「…………」


「……忘れてくれ」


 顔を上げると、優月は白い肌を桃の様に染め上げ、古典的に咳払いを一つ。

 そして俺は、またかよと思われるような生唾を飲み下し、一旦冷静になることにした。


 鳴滝禅、十九歳。

 童貞。

 その肩書きも今日までだ。


 結局、俺の気持ちには決着がついていないのだけれども、行き着くところは同じなわけで。

 となると、俺がここで見せなければいけないもの、それは当然、当然すぎるほど当然――誠実さだ。

 まず一旦落ち着こう。


 というところまで考えたはずだったが、気がつくと優月をベッドに組み敷いていた。


「ゆ、優月さんっ! もう少しご自分を大事にしたほうがいいんじゃないかな!」


「お、お前は言っていることとやっていることがまるで噛み合っていない自覚はあるのか!」


 誠実さを取り繕うとする精神は、口先だけに残っていたらしい。


 優月は、うんざり、嫌々、といったネガティブな表情を浮かべ顔を逸らしながらも俺が掴んだ両方の手首に力を込めなかった。

 シーツの上に投げ出された半乾きの髪からは甘い香りが湧き上がってくる。


「一つ、言っておかなければならないことがあるのだが……」


 何を言われてもこれ以上の脳内麻薬は出ないと高を括っていた。


「初めてなので、手ほどきを頼む……」


 …………。

 脳が溶けて、そのまま耳から流れ落ちるかと思った。


 この女、ブチ込んできやがる……。

 この短時間で、優月の無自覚ヒットアンドアウェイにどれだけしてやられたことか……。

 だがそれももうおしまいだ。俺はこうして優月を捕まえた。


「そ、そっか……優月さん、は、初めtなnd」


 声が出なかった。

 言葉にならなかった。


 優月の目に二種類の不安の色が過ぎる。

 それでも俺は勢い余って経験者のふりを慣行することにした。男のコにはカッコをつけなければならない時があるのだ。


「名前……」


 優月の果実のような唇が小さく動く。


「ん……?」


「お前の……」


 不覚だった。

 俺は彼女に名乗っていない。


 改めて、こんな状態で自己紹介なんて気恥ずかしさが込み上げてくる。

 下の名前で呼んでもらいたくて、俺はあえてそちらだけを答えた。


「……禅、です」


 いつもは「禅問答の禅」なんて言っているが心洗われそうな単語は場違い過ぎて喉に引っ掛けて飲み下した。

 彼女は音を吟味するように口にして、呼んだ。


「ぜ、ん……」


 挙句、俺がカッと目を見開いたのを勘違いしてか怯えた様子で「くん」と付け足した優月。

 深呼吸の末、俺は思わず「はい」とあまりにもオーソドックスすぎる返しをしてしまった。

 会話が続かない。


 何だコレ。

 めちゃくちゃ甘酸っぱいヤツじゃん。


 でも。

 俺は初心者が故に、この先どうしたら良いかわからない。

 恐らく、優月も同じだ。


 俺は……ちゃらんぽらんで軽薄で無責任な印象を周囲から持たれていると自覚している。

 だけど実際はこの通り、紆余曲折の末、セーラー服を着せられたお姉さんを押し倒してなお、こうして気の利く言葉が出てこないほどのピュアボーイだ。


「禅、くん……あの」


 気の利く言葉が出てこないほどのピュアボーイであるが故に、彼女がそろえた膝にまたがり胴体を沿わせることで意思表示をした。

 新米兵士が現在進行形でプロパガンダを叫んでいる。


 本当はカッコイイ台詞を言ったはずなんだ、言ったって事にしておいてくれ!


 それにしても優月の身体は温かくていい匂いがして……柔らかいところは柔らかい。

 たまんねえ……。


 全体重をかけたらぐしゃぐしゃになってしまうんじゃないかと不安になるほど華奢で、こんな綺麗で弱っちそうで現に騙されやすい生き物、よく今まで生きてきたなと感動さえした。

 それから、俺が守らないと死んじゃうかもしれないような状況にいる女なのだ、とも。


 そう、これはもう俺のだ。

 俺の。


 そう脳に焼きつくのは一瞬だった。


 それで……次の手はどうしよう。


 脱いだり脱がしちゃったりのシーンなんだろうけれど、そして男の俺が頑張るところなんだろうけれど……やっぱり恥ずかしいといえば恥ずかしいというか。


 ナース服やメイド服の非日常だったら、俺はとっくに箍を外していただろう。

 でも俺をくん付けで呼ぶセーラー服の優月は先輩女子を想起させ、過去と日常の光景をちらつかせた。


 その過剰な生々しさに戸惑いながら、甘く温い脳の中で次の手を考え泳がせていると、優月の膝が俺の股間に押し当てられた。

 もしかして、俺があまりにぐずぐずしているからじれったく思って積極的に……。


「おい」


「はい」


 この姿勢にもかかわらず、反射的にかしこまった声色で返事してしまうくらい、突然に降り注いだ優月の声は凍てついていた。

 顔を上げると、彼女の顔はベッドの隅、ビニール袋に納められた紙袋――中は彼女が大事にしている変身ベルトではなく電動マッサージャー――に向いていた。


貴様・・、あれに触ったのか」


 禅くんから貴様への降格。


「い、ひっ……いいえ! いや、袋ぼろぼろだったし」


「つけたのかつけてないのか、はっきりしろ」


 ぐんっと優月の膝が股間に食い込んでくる。


「ぐ、お……っ」


 しかし人質となった新米兵士はその状況をむしろ嬉々としてさらに声高なプロパガンダを叫び始めているから、そもそも平静さなんて存在しないし――俺は混乱して誘導尋問に引っかかりこの場にこれ以上とない程の失言をした。


「つけてない!」


「ほう、中身を知っているな」


 その瞬間だった。


 ぞぶん、と股間から劈くような熱がせりあがり、新米兵士がいきり立ったままかなぐり上げられた衝撃の余震だと知る。

 続いて本震となる痛みが全身を掻き分けて脳天まで貫通し、俺は悲鳴を上げることなく全身の力を失った。

 優月の身体の上に遠慮なく押し乗った俺を、彼女はさらに遠慮なく荷物のように押しのけた末に踏み台にしてベッドの隅の袋を掴み上げる。


 やっと首だけを起こした俺の目の前で、優月は濡れているはずのコートさえ必死に抱いて出口に向かいながら一瞥くれる。


「ベルトは適合者にしか囁かない。残念だが貴様はその器ではないということだ、諦めろ」


 彼女もまた冷静さを欠いていたのか、その目元が赤く腫れ上がり輝いていることを隠すなどしていなかった。

 次の捨て台詞も震えて搾り出すような声。


「……もうお前の助けなど必要ない……二度と私の目の前に現れるな、詐欺師! うつけ! 痴れ者!」


 ドカン、バタン。

 彼女の感情を代弁するようにドアが音を立てながら開閉する。


 しばらく何が起こったのか頭がついていかず、それはもう呆然とした後、まずは一つの事実を受け入れることにした。


 俺は、彼女が必死に守り抜こうとしている変身ベルトを、ほんの些細な下心によって紛失した上に……現在進行形で中身を入れ替え騙しているのだ。

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