03. 今宵の月のように-(2)

 女は残飯と汚臭をまといながら足早にネオン街を突っ切る。


 通行人は浮浪者、というよりも妖怪でも見るような目つきで彼女を一見、顔をしかめ、時折悲鳴さえ上げて道を譲った。


 まるでモーセの十戒だ。


「ゆづきさまっ!」


 確か、彼女はそう呼ばれていたな。


 呼びかけながら俺は彼女の肩に手を置いた。


 逃げるもの同士仲良くしようぜ!

 女性ならなおさら、えへへ!


 そんな軽い挨拶のつもりだったが、女は電気でも流されたかのように身体を跳ね上がらせて振り返る。


 その瞬間、俺は奇妙な感覚に首をかしげてしまった。


 年のころは俺よりちょっぴりお姉さん、二十代前半だろうか。

 色白、細身、腰まで垂れた長い黒髪、日本的な女性だ。

 いまだ頭はべとべとぼさぼさ、卵の殻なんかがついておりゴミ塗れ。

 それでも俺は称賛の為、言の葉を選ぼうとした。


 可愛い系、綺麗系、かっこいい系……いや、それが奇妙だった。


 美女という単語を聞いて思い浮かべる空想上の、その人……だった。

 そしてその奇妙な感動に言語が追いつかず、使い古されたテンプレートワードを吐く。


「どっかで、会った……?」


 怪訝けげんそうに顔をしかめた女の視線が俺からその背後に移っていた。

 そうだそうだ、ゆっくり話し込んでいる場合じゃない。


「一緒に逃げよう」


 俺は彼女の手をとり、人通りの少ないほうへ向かった。

 こういった場合は木を隠すなら森の中、人口の多いほうへ行くのがセオリーだろうが、人の目があると彼女が目立ち過ぎる。


 運よく見つけた狭い通路、エアコンの室外機や換気扇を潜り抜け、雑居ビルの隙間空間に入り込む。

 今のところ見つかってはいないようだがここも長居は出来ないだろう。何にせよ霧雨は次第に本格的な雨となっていた。


「やっべー、どうしよっかな……もうちょっと行って公園まで出たほうが良いかもだね」


 なんだか大事になっちゃった。

 いつも通り家に帰って、深夜のアダルト番組見てして寝るはずだったのに。


「もういい、放せ……走れない」


 溜息を吐いたところで掴んでいた手をぞんざいに振り払われた。

 俺はとなり、彼女に向き直る。


 女は肩で息を整えると、はだけたコートの襟元を正し、グレープフルーツ級の大きさの柔らか素材が刻んだ谷間を……。


 え?

 コートの下に谷間?


 彼女は赤いコートの下は素肌で、大きなボタンがへその上下で閉じられているだけ、靴も靴下もなく汚れた素足にビニール袋が巻かれただけの有様だった。


 疲れと寒さに震えながら、不信と嫌悪感と諦めに曇った目つきで身構えている。

 そう、俺に対して身構えている。

 走っているうちに少し仲間意識が芽生えていた俺には、なかなかショックだった。


 ギスついた沈黙の中、雰囲気を変えようとあえて軽い調子を保った俺。


「あーっと……お姉さん、ゆづきっていうの? どんな字かな?」


「……気安く呼ぶな」


 ぴしゃり、と鞭打つようなお言葉だった。

 畏怖いふと困惑で言葉を失ってショボーンと眉をハの字にする俺。


 だが意外にもすぐに彼女は態度を和らげて訂正した。


「言い過ぎた……すまない。優劣の優に、年月の月だ」


「お、俺こそごめん! いきなり馴れ馴れし過ぎだよな! 優しい月……で、優月さん、でいいかな!」


「何でもいい」


 と思いきやまたしても彼女は吐き捨て、顔に張り付いた髪を忌々しげにかきあげた。


 優しい月……か。

 俺はつい曇天を見上げた。


 天気のせいもある。

 でも、そもそも月の光なんてビルに阻まれ、ネオンに霞んで、この町じゃ見えるはずもなかった。


 視線を下げると「優しい」という印象がまるで無い目つきで優月は俺を見上げていた。


 ……距離感を計りかねる。

 考えに考えた末、当たり障りない言葉で空気を濁した。


「優月さん、大丈夫? 辛そうだけど怪我とかしてない?」


 すると彼女さえも忘れていたと言わんばかりに目を丸くし、コートの上から自分の身に触れるとばつが悪そうに「うん」と小さく頷く。

 うつむいた表情を見る限り、強く出すぎたことを後悔しているようで気まずそうに視線を泳がせた。


 ……距離感を計りかねる、と考えているのはお互い様なのかもしれない。


 ワケ有りの美女。

 俺はすっかり彼女が何者でどうして黒服連中に追われていたのか、興味津々の面白半分――いや、面白八割、詮索したくてしょうがない。


 かといってこの優月という女はぺらぺらと自分の身の上を話して仲良くしようなどといったタイプではないのは瞭然。

 むしろ俺のことを警戒していて今すぐにでもこの場から離れたいが行き場が無い、そんな雰囲気だ。


 これは気まずい。


 他に話のとっかかりは無いか、と上から下まで見下ろし彼女が大事そうに抱えた紙袋一つに目をつける。

 しわくちゃでシミがつき、今にも破れそうだ。


「その袋……」


 俺の視線が袋に向いた、それだけで彼女は瞳孔を開き、きゅっと眉間にしわを寄せると、多少和らいだ不信感をまたしても露にして紙袋を渡すまいと抱きかかえる。


「お前には関係ない! わきまえろ!」


「ご、ごめん、大事なモンなんだな!」


「う……うん」


 再び、態度を修正するように弱々しく頷く。


 ツンとデレのヒットアンドアウェイ。

 庇護欲ひごよく嗜虐心しぎゃくしんを同時に煽られる。


「巻き込んですまなかった」


「実は俺も追われているところで……」


 俺はイカサマ云々の部分は抜きにして言われぬ罪でヤクザ竹中に追われていると説明した。

 そのテキスト上ではさぞハードボイルドで女慣れしていて頼りになる男に映っただろう。


 優月の反応はというと、俺の全力の背伸びも空しく「そうか」のみ。

 どう聞いても、どう反芻しても、一言、合計三文字だった。


「ほ、ほんで……なんでゴミ箱なんかにいたの」


「好きであんなところにいたと思うか?」


「目的地とか、頼れる宛てとかは?」


「教える筋合いは無い」


「好きな食べ物は?」


「みかん」


「優月さんを追っているっぽいあの黒服連中は?」


「さあな」


 ザ・取り付く島もない。


 いずれの問いも不遜な態度で即答されてしまう。

 そんな無表情から放たれる「みかん」という素朴な答えは可愛かったけれど。


 そうこう戯れているうちに、次第に雨は車軸しゃじくを流すような太さになってきた。


 俺もゆっくり休みたい……。

 せめて屋根のある場所で。

 時間を潰しているうちに追っ手も諦めてくれるだろうし。


 屋根のある場所。

 屋根があって、贅沢言えばシャワールームがある場所。

 屋根があって、贅沢言えばシャワールームがあって、大人二人が眠れるベッドがある個室。


「…………」


 待ちなさい、俺。

 冷静に状況を確認するのです。


 目の前には少々口先に難有りだが、好みドンピシャな女。

 雨ざんざん降り。

 俺も彼女も隠れなければならない。


 雨の中、それぞれの事情で追われた男女。


 …………。


 物凄くロマンチックじゃん! ワンチャンあってもおかしくないじゃん!

 神様、仏様、お頼み申す!

 青春ギリギリ延長戦中の俺に、一夜の思い出をください!


 心の中の冷静さを欠いた祈祷祈祷とは打って変わって、俺は必死に表面上の品性を保ちながら「はい」といいやすいように質問をぶつけた。


「ホテルで休憩しませんか」


「は……?」


 は?

 じゃなくて!


 どうか「はい」でお願いします!

 お願いします!


 半ば狂乱めいた熱し線を注ぎ込んでいると、彼女の小さな唇が次第に開き、


「……助けて、くれるのか?」


 なんて頓狂とんきょうなことを言った。


 …………。

 完全に予想外の反応だ。

 俺はてっきりドン引きされて逃げられるのかと思っていた。


 先ほどの硬く冷たい態度とは一転した、あまりにも臆面おくめんもなく素直な言葉だった。


「……もう、どうしたらいいか、どこに行けばいいかわからなくて……お金もいつの間にか無くなっていて……」


 すがるような上目遣い、遠慮がちに袖を掴む白く細い指。

 それが理性という新雪をキャタピラで踏み荒らすような行為だなんて、彼女が自覚をしているはずがない。


「……助けて、欲しい」


 そんな風に切り替えされたら「自分もヤクザに追われてて、ハチャメチャに困ってるんですけどね!」なんて言えないじゃん。

 一体どんな勘違いをしてるんだ……!


 俺は引きつり笑いを浮かべつつ、ここまでの推測をまとめていた。


 黒服たちの狙いは彼女だ。

 そして連中に追われながらも「優月」なんて呼ばれていた彼女は、やんごとない身の上の人物。

 偉そうで、世間知らずで……お嬢様というやつではないだろうか。


 即ち、俺の言っているはそのまま言葉どおりで、全くの善意が働いていると思っているのである。


 唇を子供のように一文字に結んで俺の返答を恐々こわごわと待っている優月。

 さすがの俺も騙すというのは気が引けて、二秒ほど熟慮した後に親切心から彼女の臆面の無さを全肯定した。


「いやあそれは助けが必要だ! 休憩が必要だ!」


 こいつ――カモだ!

 カモネギだッ!!


 美人で精神的に弱っていて手の平でスッころがしやすそうなお姉さんを拾うなんて神も仏も言っている!

 アバンチュールな夜を過ごせと!

 灰色の日常を突き破れと!


 眉を引き締め、持てる限りの誠実さを表情で訴えながら俺は自分の胸を叩いた。


「任せておけって」


 彼女は安堵からか少しはにかみ、幼く頷いた。

 再び優月の手を引いて、雨の中を走り出す。


 無論、調子のいいことを言っておきながら、俺は完全に浮かれ上がっていて先のことなんて全く考えていなかった。

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