第35話 今の私の気持ち
私がぼんやりと意識を取り戻したのは、後になって思えば、母親から生まれて間もないころだったのだろう、と思う。
そう思うのはその辺りの記憶が残っているからなのだが、ともかく当時は身体の自由が利かなかったし、すぐに眠くなってしまって意識を周囲へと向ける余裕が無かった。
まともに周囲の環境を観察し、自分の置かれた立場をそれなりに理解したのが、おそらく生後1年ぐらいの頃。
外部環境が私の前世と違いすぎるのは、私の生きていた時代よりも過去なのであろう、という事を自分なりに結論づけたのは、満足に自力歩行できるようになり、母親に外へ連れ出されるようになってからの事だった。
そして間もなく気づいた。
狭く、平坦なグラウンドで。子供たちがベースボールをプレイしている事に。
なんと!家のモニターに映っていた『野球放送』とは、現実世界の事象だったのだ!この世界は健康も安全もろくに保障されていない、一般民には危険な世界だが。このようなファンタスティックな、素晴らしい環境があったのだ!!
私は狂喜し、飛びまわり、はしゃぎまわったあげく、熱を出して3日間寝込んだ。そうか。無茶をすると熱を出したり病気になったりするんだったな。この世界では。
―――身体を鍛えなくてはならない。それも、早急に。脳のコントロールも覚えなくてはならない。これも、早急にだ。
今の私の体は女性である。これはこの世界ではスポーツをする上で非常に不利である。この世界では体質調整薬剤もナノマシンもない。このままでは自然発生のままに成長する事になってしまう。
必要なホルモンの分泌量を制御できるようにならなくてはならない。自力でだ。視覚情報の処理能力を上げなくてはならない。自力でだ。身体エネルギーの集中と分散の方法を覚えなくてはならない。ナノマシンの助け無しにだ。まったくもって困難極まる。
理論は知っている。技術の知識はある。運用した経験もある。しかし、必要な薬剤も器具も何も無い。仮想現実の世界なら関係ないが、現実では自分の身体を使った一発勝負だ。そもそも身体の調整業務に関する事は専門の技術者の仕事であり、私は運用のプロに過ぎない。これは戦闘ドロイドの構造も構成素材も破壊方法も知っているが、製造に関する何もかもを知らない事に等しい。いや、ドロイドの製造設計管理者だって困るはずだ。
最高のパフォーマンスを発揮するためには、精密なツール、製品が必要だ。どんな職業でもそうだ。料理人には良い包丁と調味料と自動調理器具が、空間機動兵には調整された肉体と武装と戦闘ドローンがだ。
しかし精密なツールを作るためには、前段階の『道具を作る道具』が必要となる。そして『道具を作る道具』を作るためには、『道具を作る道具を作る道具』が必要になる。
…現時点では、何もない。原始時代の真っただ中に裸で放り出されて、『この世界にあるものは何でも使っていい。さぁ、単分子ナイフを作れ』とか言われても無理なのだ。
「でもけして、あきらめない」
よく舌のまわらない口で、誓いの言葉を口にする。
「わたしののぞみを、しあわせを、てにするため」
この世界には、この世界にしか無い幸福がある。私は今度こそ、自由と幸福を手にする。私の聖域、私の真実。私の平穏なる生活を。
そして一言。存在するのであれば、神よ、感謝する。
この世界に私を送ってくれた事を。心よりの、感謝を。
※※※※※※※※※※※※※※※
「――なぁんてピュアな時代が、あたしにもあったなぁ」
過去の記憶をなぞりながら、へへっと小さく笑ってしまう。
「……おい…おい。山崎」
「うん?どしたかな、悟」
振り返るあたしの顔を見て、悟がホウッと息をつく。
「お前さぁ…また、死んだ時の記憶を思い出してたろう」
おお、よく分かったな。さすがはワタクシの相棒。この世界の最初の部下よ。
「で、今は正気に戻ったんだな?」
「さすがだね。よく分かったね。でも正気って何なのかな」
あたしはいつでも正気だよ?
「うまく表現できねーけど。闇のオーラみたいなのが漏れ出てるんだよ…気温が暑くてたまらないのに、精神的にゾッとして冷や汗が止まらなくなるっていうか。怖い」
おや、そんな感じになるのかな。これは不思議。憎しみのオーラとか何かかな。
憎しみの感情を自覚したのは、4つのときに、庭先に播いた金時豆の芽を全部カラスにほじくり返された時くらいだと思っていたけれど。あの日から私は投石を練習し始めたのだ。カラスども、豆の部分だけ食いおって。もやし部分だけは放置するという暴虐ぶり。本葉が出るまではネットなりカラス除けの竿なりを使わなくてはならない、という知識を得る前の事だったか。野獣に対するには力しかないと、はっきり悟った時だった。ちなみに地面に直置きしたネットは役立たずだった。トンネルにしないとダメだったのだ。おのれカラスどもめ。
「またちょっと漏れ出てるぞ」
「え、そうなの?…あれっ?コタローは?」
さっきまで…過去を思い起こす前までは目の前にいたはずの、コタローがいなくなっている。何時の間に。どこへ行ったのか。
「闇のオーラが出始めてから、すぐに逃げたよ!」
おや。そうなのか。
…よく見れば、豆の列の陰から、こっちを窺うコタローの鼻先が。しっぽは地面に伏せられているのか、全然見えない。しおれているんだろうな。
「コタロー。こっちおいでー。大丈夫だよー」
呼びかけると、しょぼしょぼとしおれたしっぽを引きずりながら、警戒した様子のコタローが歩いてきた。走って来なさいよ。走って。
「ほーれ、残りの鳥肉を、分けてあげようじゃないか」
あたしが鳥肉の欠片がついた骨を振ると、途端にダッシュで寄ってくる。しっぽピン。実に現金なものだ。ビーグルは食い意地張ってるなぁ。
「平和だねぇ」
「さっきの闇のオーラ以外はな」
へっへっへっへっ。
「畑も田圃もあるし、緑は多いし、いいとこなんだけど」
「…昔に比べれば、田圃も畑も減ったな」
へっへっへっへっ。
そうなんだよね。昔は悟の家も『畑の向こうの北島さん』だったけど。今では『5軒向こうの北島さん』だもんな。ずいぶんと環境も変わったものだ。
この世界で野球以外に感激したものと言えば、圧倒的な現実の植物の量だった。今でも相応にあるけれど、どんどん減ってきている。すべて埋め立てられて、家や店になってしまっている。あたしの土地じゃないから仕方のない事だけれど、なんだか前世の世界に近づいているのが、なんとなく気に入らない。これは合理的な考えによらない、想いだ。
「やっぱり、自分だけの平穏なる世界を手にするためには、金か」
「女子は現実的に過ぎる」
へっへっへっへっ。
いやー、そんな事言うけどね悟くん。あたしももう女子は10年選手級というか。生まれてから今までに女子ならではの苦労とか色々と経験しちゃってるし。
良くも悪くも、人間は土地の生活に馴染むものでさ。国家の戦闘ユニットとして育てばそうなっちゃうもんだし、生存率とスポーツ能力向上のために体を鍛えていたとしても、ありがちな女子の環境に育っていれば、それは現代女子になっちゃうものなのよ。
仮にあたしが現実思考の女子だとすれば、それは環境によるものじゃないかなぁ。
「つまり世間が悪いと」
「責任転嫁の代表的なセリフだなぁ」
へっへっへっへっ。ぶしゅ。
あっまたコタローがくしゃみした。乾いた泥でも吸い込んだかな。
「悟もさぁ。結婚でもしたら金の問題から逃げられないんだし、勉強したら?」
「まだ考えられない。そして重い」
不意にコタローが走りだして、畑の隅っこを猛然と掘り始めた。モグラでもいるのかな。…ふむ。結婚、結婚か。確かに悟が嫁をもらった姿、というのはまだ想像できないな。
もちろん、自分自身が伴侶を得た姿というのも想像できない。あたしは一人っ子だし、いずれは結婚しなくてはならない気もするが、金で解決できる気もするし。
とある人間の言葉によれば、信頼のおける男女2人が居れば、大抵の役割は務まるのだという。夫、妻、父、母、兄、弟、姉、妹。友人、恋人。ほかには教師と生徒とか。
役割が務まらないのは子供だけだ。次世代の継承者。まぁ夫婦であれば成せる事だ。
あたしは隣にいる悟を、じっと見た。
「なんですか、じっと見て」
「確かにあんたには、父親とか兄とかの頼り甲斐はないなぁって」
「唐突にディスられる俺」
「まぁまぁ、心配しなさんなって。そのうち何とかなるよ、少年男子」
へっへっへっへっ。
おや、コタローが泥まみれになって戻ってきた。
用水路に漬けこんで洗ってやるか。あたしもそろそろ帰ろうかな。
「まぁ、今は高校生として、少年男子女子として、青春を楽しもうじゃないかね?」
あたしはコタローを捕まえて犬抱っこすると、用水路へと歩き出す。
「ビーグルは足短いんだから、水没しないようにしてやれよ」
「ちゃんと後ろ脚で立たせるから」
それより、水の勢いに負けて流されないようにしないとね。
ざぶざぶとコタローを洗いながら、現在の平和を想う。病気にも怪我にも気をつけないと簡単に死んじゃう世界だけど、おおむね平和なこの世界。この国家。
兵士にならなきゃ平和も続けられそうだし、できればスポーツ選手としてひと山当てて、北海道あたりで農地を買って悠々自適に暮らせれば万万歳だ。せいぜい安全運転でいきましょう。人間、平和がいちばんだ。
ぶばぁ。という音を立てて水を吹き飛ばしたコタローが、柴村さんちに向かって駆けていく。
ふむ。そうだなぁ。
今は平和だし、将来の仕事も自分の生命に関わる仕事は避けられそうだし。野球だって自由に続けられそうだ。
―――あたしは今、しあわせなんだな。
願わくば、この幸福をそのままに。
灼熱の陽光が降り注ぐ中、青空を見ながら。あたしは心よりそう思った。
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