第四話
眼鏡の奥の瞳は、輪郭が少しぼやけているように見える。深い皺が刻まれた肌は透明感があり、髪や眉毛はほとんど白かった。大きな手がもの扱う手つきに、小さく震えがある。台所でたばこを喫っているときと違い、背中を少し丸めて書類に向かう先生を見つめながら、私はぼーっと立ち尽くしていた。
「行くよ~」
町田さんが車のキーをチャラっと鳴らしながら私を呼んだ。我に返って「はい!」と返事をする。
先生の自宅掃除は二階に進んでいた。寝室の衣類や布団が主なゴミだった。普通に着られそうなものが沢山残っていたけれど、すべて捨ててよい、とのことで、お構いなしにゴミ袋に詰めることにした。
男性物のほかに、女性物もある。先生の奥さんのものだろう。町田さんに聞いたところによると、数年前に亡くなったのだそうだ。箪笥の中は長く放置されていたにもかかわらず、いいにおいがした。引き出しのひとつひとつに小さな巾着が入っていて、そこから香るのだ。なんとなく気が引けたけれど、それもゴミ袋に詰めた。
押入れにあったものを手に取ったとき、私の心臓はばくばくと音を立てた。アルバムだ。とても古くて、茶色く変色したビニールのカバーがべたべたと手にはりついた。家の中をひっくり返している私が言うのもなんだが、すごくプライベートなものだと思う。見てもいいのだろうか……。
私は好奇心を抑えきれなくてアルバムを開いた。
はじめの方は白黒写真で、途中からカラーに変わっていた。映っているのは二人だけ。これは、先生と奥さんだ。なぜだか胸がぎゅうっと締め付けられた。端正な顔をした若い男性と、頭一つ分くらい背が低い可愛らしい女性が並んで写っている。なんとなくわかっていたけれど、二人に子供はいないようだった。
もう一つわかったのは、あのピアノが先生のものだという事だった。応接間のピアノの前に腰かけ、鍵盤に指を置きながらこちらを見て、少し恥ずかしそうに笑っている先生がそこにいた。この笑顔は、奥さんに向けられたものだろう。ピアノを弾いている先生の写真はいくつもあった。そして、庭を手入れしている奥さんの写真も、同じくらい、沢山あった。見事に咲いた花と温かな光に包まれている女性は、幸せそうだ。これを写しとった目線は、先生のものだろう。
一通り寝室のものを分別し終わり、廊下に出ると物置の存在に気付いた。来週はここを片付けなきゃな、と思い中を確認してみる。
木製のドアを開け、山のようにびっしり積んである段ボール箱を発見し、これも洗剤か……と少し呆れてため息をついたところで段ボール箱の文字に目が釘付けになる。
奇跡のキノコ
飲んで治る水
学会も認めた抗がんサプリメント
一瞬、息が止まった。これらが一体誰のために購入されて、そして積み上げられていったのか、わかってしまったからだ。めまいがしたような気がして、立っていられなくなりしゃがみ込む。喉に痛みが走り、視界がじわりと歪んでいく。だって、だってこんなの
「……効くわけないじゃん……」
私は古いアルバムを抱えて事務所に戻った。真っ先に仕事机にいる先生のもとへ行き、アルバムを突き出す。
「これは持って行って下さい」
先生は目線だけこちらに向け、さらにアルバムを一瞥して、
「捨てていい」
と言った後また書類に目線を戻した。
「捨てちゃダメです」
私は食い下がった。
「しつこいな」
今度はこちらを見もしなかった。
「先生仕事だから、ね?」
一部始終を見ていた八木さんが私をたしなめた。私は台所に連れていかれ、いつものようにお茶を出してもらう。お茶もお菓子も、口に入れる気にならなかった。
タイムカードを押した後も、私は帰らなかった。先生がたばこを喫いに来るまで待った。煙草を喫いに来た先生は私の姿を見て一瞬驚いた様子で、「早く帰りなさい」と言ったが、私には言わなくてはいけないことがあった。
「辞めます」
先生はいつものスツールに腰かけ、黙ったままたばこに火をつけた。一息喫って、煙を吐き出す。
「何故」
短く問いかけられる。
「アルバム持って行って下さい」
私は問いに答えなかった。先生も何も言わない。
「持って行って下さい。何で捨てちゃうんですか」「どうしてアルバムくらい持っていけないんですか」
先生が何も答えないから、私が言葉を続けるはめになる。
「花も、楽譜も、服も、何年も前のカレンダーも、く……薬の袋も」
そこまで言って、堪えていた何かが弾けてしまった。
「ぜんぶ」「私 捨てっ……」「捨てちゃいました」
泣きたくなかったのに、涙が溢れてしまう。
「捨てちゃった……」
涙を袖でふき取ると、先生が目を見開いてこちらを見ていた。手に持ったままの煙草が少しずつ灰になっていく。
はっと気づいたようにたばこを灰皿に押し付けて、先生は俯いた。しばらくの沈黙ののち、先生が口を開いた。
「悪かった。全部業者に任せれば良かったな」
そういう事じゃない!私が泣いてしまったから私の言いたいことが伝わらなかったのだ。そう思って、何か言葉を探したけれど、見つからなかった。
先生は私に向き直り、今まで見たことのない、子供をなだめる様な表情をする。
「きみ、勘違いしちゃいけない」
先生は、私を、私の目をまっすぐ見て言った。
「俺は全部持っていく」
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