第三話

 芦葉税理士事務所で働き始めて四カ月が過ぎ、庭がきれいになった頃、仕事内容が変更された。掃除の仕事なのは変わらなかったが、場所が先生の自宅の一軒家になったのだ。

「この家の中全部ですか!?」

「うん。できるところまででいいから……。大きいものは業者に頼むと思うから、食品は全部捨てちゃって、紙類とか、布類とか、食器とか、分けてみてくれる?」

 閑静な住宅街にひときわ古い木造の二階建てがあり、そこが先生の自宅という事だった。その家の中のものをすべて捨てられるようにする、というのが私の仕事になった。家の中全部なんて、先生はどう生活するのだろう。

「先生、高齢者向けの住宅に入るのよ。ここは売るんだって。今もほとんど事務所に住んでいるから、もう空き家みたいなものなのよね」

 町田さんは、私と大量のごみ袋やひもを車から降ろし、事務所に戻っていった。庭木に囲まれた木造住宅だけがひんやりと私を迎えてくれた。


 こればっかりは本当にどこから手を付けていいかわからなかった。どう見たって人が住んでる家のままだった。玄関に下がっている靴ベラ、揃えられたサンダル、リモコンが乗ったリビングテーブル、色あせたカレンダー……。家の中のものを処分する?本当にそんな仕事を頼まれたのか不安になった。あとから訴えられたりしないだろうか?事務所に電話を掛けたくなった。というか、掛けた。八木さんが出たので、先生に代わってもらう。

『全部ガラクタだから』

 確かに先生に確認を取ったので、こういう仕事なんだと割り切って、言われた通り台所の食品から捨てていくことにした。

 干からびた野菜、カビたチーズ、硬くなった肉、賞味期限切れの保存食、全部全部ゴミ袋に放り込む。するとだんだん気持ちよくなってきた。目に入るものすべて、お構いなしに捨てていいなんて事めったにない。半分笑いながら台所のものを分別していった。

 燃えるものを先にまとめてしまおうとリビングにも手を出す。カレンダー、古そうな薬の袋、ビニールでできたテーブルクロス、枯れた花、ゴミ袋はすぐいっぱいになってしまう。ちょっと重要そうな雰囲気のする書類は別に取っておいた。書類の封筒に書かれた名前に目が留まる。

 

 芦葉 聡一郎 様


 そういえば、私は先生の名前を知らなかった。芦葉聡一郎。そういちろう……。指先で名前をなぞると、理由も無く心臓がどくっと跳ねた。とても先生らしい名前だと思う。


 一階がリビングと応接間、二階が和室の寝室で、そんなに広い家というわけでもなかった。ドアや襖が自分の家のものより小さく感じる。全体的にどこかこじんまりした印象があった。しかし驚いたのは、応接間にグランドピアノがあることだった。学校の音楽室にあるような黒く塗りこめらたグランドピアノではなく、木目が見えるピアノだった。木を組み合わせた模様で、ピアノに詳しくない私にも、これは高価なものなんじゃないかと思わせた。

 応接間の本棚に楽譜があった。他にもレシピ本や健康関連の本があり、まとめてひもで縛る。

 やっぱりピアノが気になった。鍵盤のふたを開けると、なめらかなクリーム色と茶色の鍵盤に光が落ちる。私はピアノを弾けないけれど、ためしに音を出してみたくなった。鍵盤を一つ押し込む。ボーン、と、お世辞にも綺麗とは言えないくぐもった音がした。


 迎えに来てくれた町田さんに今日の報告をする。上出来上出来、と町田さんは言って、生ごみを車に積み込んだ。事務所の方から捨てるらしい。

 事務所に戻ると、八木さんがお茶を入れてくれた。「疲れたでしょう」と労ってくれる。楽しかったのであまり疲れていなかった。台所では先生が換気扇の下でたばこを喫っていたので、


 

 私は、ピアノのことを聞きたかったのだ。


 

 なぜか言葉が喉で詰まって、何も聞くことができなかった。

 その夜、湯船につかっているとき、ふと、先生の奥さんはどうしているんだろう、と思った。あのピアノは先生の奥さんのものかもしれない。

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