第二話

「この洗剤使ってみてくれる?」

 町田さんがどすっ!と寄越したのは持ち手のついたポリタンクに入った黄色い液体だった。

「はい」

 先に返事をしてから、「なんですかこれ?」と聞いてみる。洗剤にしては見たことのないラベルだったからだった。それにタンクがでかすぎる。

「なんにでも使える自然派?洗剤なんだって……。先生がこれでヤニもカビも全部落ちるからって」

 いつもカラッとハッキリ喋る町田さんの歯切れが悪い。この洗剤が疑わしいんじゃないかと、直感する。私が怪しいと思っただけかもしれないけれど。

 ベッドのある部屋を掃除する時、異様さに気付いた。洗剤の入った段ボールがざっと見ただけでも六箱あるのだ。それだけで四畳半の部屋の三分の一を占めていると言っても過言じゃなかった。ベッドがあるから、人が歩けるスペースがほんの少ししかない。

「昔はこんなんじゃなかったんだけどね……」

 一緒に室内を眺めながら、すこし寂しそうに町田さんがつぶやく。先生の事だろうか。オレオレ詐欺とかみたいに、おじいさんになると、悪い人に騙されちゃったりするのかもしれない。そんなものなのか、と思いながら、仕事だし、今日はこの怪しい洗剤を使って掃除をすることにした。


 全然落ちねーよ!これ!泡も立たないし。なんか臭いし。結局、私の腕力とスポンジの力であらゆる汚れを落とさねばならなかった。半ギレでドアについたヤニをごしごし落としていると、すぐ後ろに人の気配を感じた。振り向くと先生が立っている。威圧感があるのは私より背が高いからだけじゃなく、近いからだ。

「はいっ」

 驚いて呼ばれてもいないのに返事をしてしまった。先生は、私がまだ手を付けてないドアにはめ込まれたガラスを指差して、

「こういうところもな」

 と言って自分の机に戻っていった。ぶわっと怒りが込み上げた。そんなのわかってるし、あんたが買った洗剤のせいで進みが遅いし疲れるんだと心の中で悪態をつく。その怒りに任せてまた、ドアをごしごししまくった。

 なんとかその日はドアのヤニを落としきり、八木さんの淹れてくれたお茶をいつも以上に美味しくいただいた。


 次からはいつもの洗剤を使おうと思っていたのに、例の怪しい洗剤を常用せよとの命令が出てしまった。洗うものは全部だ。食器にも、きっと衣類もそれを使っているに違いない。あれだけ未開封の洗剤があったら、使い切るまでに何年もかかりそうだ。正直うんざりしたが、そういう仕事なんだと思えばどうでもよくなった。

 今週はベランダ掃除を頼まれた。一階なのでベランダのむこうは小さい庭だ。もしかしなくても、庭も掃除の対象だった。

 洗剤なんかよりこっちの方が大変かもしれなかった。雑草だらけ、ゴミだらけで、どこから手をつけていいのかもわからなかった。

 とりあえずゴミを分別していくことにした。雨ざらしで溶けかかった段ボール、ビニール、古新聞、なんか健康器具みたいなやつは分解できるだけ分解して、ひもでまとめる。ざっと一カ所にゴミをまとめると、庭自体が見えてきた。背の高い木が一本、紫陽花らしき背の低い木が二本。木の足元には枯れた植物が植わったままのプランターがそこらじゅうにあったので植物だけ抜いておいた。スコップやホースが散乱していたので、これもまた放置されていたバケツに突っ込んでおく。暗くなってきてしまったので、雑草を抜くのは来週になるだろう。大きなゴミの処分の手続きは町田さんがしてくれるという事だった。


 その日のお茶の時間は、先生と台所で二人きりになってしまった。気にしなくてもいいんだろうけれど、力仕事をしてちょっとテンションが上がっていたのか、私は先生に話しかけた。

「庭にあったのは何の花だったんですか? 枯れたのがいっぱいありましたけど」

 先生は一瞬だけ目線をこちらに向けた。煙を吐いたあと、

「春は」「春はビオラ、ネモフィラ、オトメギキョウ……」

 先生の口から次々と言葉が飛び出した。

 私はつい先生に見入ってしまった。そんなふうに花の名前が出てくると思っていなかった。先生はそのあとも、どこか遠くを見つめながら、四季の花の名前をひとつひとつ並べていった。

 

 ポーチュラカ、ブーゲンビリア、クレマチス、ガランサス・エルウィシー……

 

 台所に、換気扇の音と先生の低く掠れた声が満ちていく。花の名前を聞いたのは私だったのに、私にはなにひとつ、わからなかった。

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