芦葉聡一郎のガラクタ

藤のよう

第一話

 髪の毛でも入ってたかな……。


 空席の割り箸を補充しながら、窓際の女性二人組がチラチラとこちらを見ているのが気になっていた。追加の注文をしたいという雰囲気じゃない。こういう感じの時は……だいたいクレームだ。心の中でため息を吐いて、いつ呼ばれてもいいように身構える。

「すいませーん」

 やはり呼ばれた。

「はい!ただいま伺います」


「ここって水曜定休日ですよね?」

 二人組は週に何度か来てくれる常連さんで、いつもきれいめな服装に身を包み、仕事の昼休みという雰囲気だった。私がここで働き始めた時にはもう常連さんのようだったから、何を今更と思いながら「はい」とだけ返事をする。

「水曜日だけ、うちでバイトしない? 時給はここの倍!」

 片方の、ちょっときつめの顔立ちの女性がくだけた口調で話し出した。常連さんといっても今まで個人的に話すことはなかったから、驚いた。

「お掃除のバイトなんだけど」

 もう片方の、ふわっとした雰囲気の女性が付け足した。

 クレームではなかった。予想外の誘いに、すぐ反応できなかった。掃除のバイト?いつか店長から聞いたことがある。たまにこういうことがあるらしい。ようするにこれは、スカウトだ!

「さっきのお客さんからかけもちで掃除のバイトをやらないかって!」

 二人組が退店したあと、下げた食器を洗い場に出しながら店長夫婦に報告する。注意散漫して目測を誤り、食器ががちゃんと音を立てた。あんまり人に褒められる事がないから、認められた気分になってちょっと舞い上がってしまっていた。

「いいんじゃない? どこ?」

 伝票の整理をしていた店長の奥さんが興味をもってくれる。

「えーと、何だっけ、ナントカぜいりし?事務所です」

 一回で覚えられなかった。エプロンのポケットには、さっき貰った名刺がしまってあるはずだ。


「若いな」 

 芦葉あしば税理士事務所。私が働いているうどん屋から歩いて三分くらいのところに、それはあった。マンションの一階で、ふつうの家みたいな間取りをしている。通されたリビングにあたる部屋には机が三つ、コの字に置いてあって、一番奥の大きな机に細身のおじいさんが座っていた。私の履歴書を見ながら、くっと眼鏡を押し上げて、短く「若いな」と言った。

「花嫁修行だと思って励みなさい」

 ……なんか、修行とか古い。おそらく事務所で一番偉い人がこのおじいさんなのだろう。六十…七十歳くらいかな?年を取ってる人の年齢はよくわからない。履歴書を扱う手がふるふるしている。税理士って定年とかないのだろうか。とにかく、採用は決定したらしかった。

 私の仕事は週に1回、事務所の掃除をすることだった。日常の業務を行う場所は私をスカウトした町田さんと八木さんが毎日掃除しているそうだが、私にはそれに加えてほか部分もすべて掃除してほしいということだった。仕事場であるリビングと、トイレ。高そうなテーブルとソファーのある応接間、ベッドのある部屋、風呂場、洗面所、台所、廊下や玄関。そして、ベランダも。

 掃除用具の場所や掃除の順番などを一通り教えてもらい仕事にとりかかる。教えてもらった通り、どかせるものはすべてどかして掃除機をかけ、風呂場を天井まで磨き、台所に水滴を残さないようにして、あらゆる部屋の壁にこびりついていたヤニを毎週少しずつ、落としていった。

 仕事が終わってタイムカードを押すと、ふわっとした雰囲気の八木さんが毎回お茶を淹れてくれる。そんなバイト先は初めてで、最初は少し戸惑いながら、狭い台所のスツールに座ってお茶と添えられたお菓子を食べて帰った。

 何度目かのその日、台所には先客がいた。先生だ。町田さんや八木さんがおじいさんのことを先生と呼ぶので、私もそれに倣うことにしている。

 先生は、換気扇の下で私がいつも使っているスツールに(私よりはるかに先に、いつも使っていたのは先生だろうけれど)足を組んで腰かけ、たばこを喫っていた。掃除をしているとき、台所のちょっとした隙間にもう一つ折り畳みのスツールがあるのを確認していたので、それを広げて、先生とすこし距離を取るようにして座る。

 お茶を淹れてくれた八木さんが仕事場に戻ってしまい、台所は先生と二人きり、へんな緊張感があった。どちらも喋らないから、換気扇の音だけがこの狭い空間に満ちていた。温かいお茶と一緒に出してもらったお菓子は、一口サイズの小さい最中もなかで、上あごに張り付いて咽そうになり焦った。ちらっと先生のほうに目をやると、こちらの事なんて何も気にしていなかった。改めて観察すると、思ったより背の高い人のように見える。脚が長いのだ。仕事場の大きな机に座っているときはちょっと猫背気味で、立っているところを見たことが無かったからわからなかった。

 今の先生はぴんと背筋が伸びていて、煙を吐き出す瞬間に人を見下すような表情になるので、近寄りがたい。もともと目つきが鋭いから、なおさら怖い。ずっとどこか遠くを見ていて、目が合うことはなかったけれど。

 たばこを灰皿にギュッと押し付けて、先生は近くの棚に手を伸ばした。板のようなものを取り出して、こちらに差し出す。銀紙に包まれたチョコレートだった。

「え」

 とっさに出た声はそれだった。くれるのかな?たぶんそうなので、スツールから腰を浮かせてチョコレートを受け取り、

「ありがとうございます」

 と頭だけで礼をした。

 ここの人たちはなんでこんなにお菓子をくれるんだろう?子供だと思われてるのかもしれない。……実際子供なんだろうな。ふつう十七歳は学生で、今は学校に行っている時間だろうから。

「学校は?」

 心を読まれたかと思ってどきっとした。こちらに問いかけているものの、先生はどこか遠くを見ていた。

「やめました。今年の春。」

 履歴書に書いていたはずだけれど……。高校中退。そう言うと大人は決まって半笑いになる。そのたび「こいつの人生終わってる」と言われてるみたいに感じていた。

 先生は表情一つ変えずにたばこをもう一本取り出して、火をつけた。「ふん」とも「ほお」ともつかないような息だけの相槌して、それきりだった。

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