第五章 敬虔に絶望を祈る願望 1
神谷杏奈には兄がいたらしい。
日記にはそう書いている。一冊目の最初のページで、平仮名が多く字も幼い文章がそう語っている。あのときの好みで選んだのだろう。日記の表紙にプリントされたのは、小さい頃神谷の大好きなキャラクターらしい。
表紙をめくると、一枚一枚の紙に書かれているのは、子供の神谷の日々だ。
親が離婚して、しばらくは母と一緒に暮らしていたが、母は仕事に忙しくて、家にはいつも兄と自分しかいない。
その母も病気で倒れて、死んでしまった。以来、神谷の兄は一人で仕事して、生きていくためのお金を稼ぐようになった。そんな兄を少しでも楽にさせようと、神谷は兄が仕事をしている間、一人で家事を済ませるようになった。料理も、あのときから作るようになったのだ。
そういう過去が、神谷杏奈にはあったらしい。
今はほとんど覚えていてなくて、こうやって、昔書いた日記を読んで、そんなことがあると記憶しないと、何も思い出せないのだが。
「……あたし、どうすれば……」
日記を手にベッドに体を沈ませ、神谷の柔らかい唇から、ため息が漏れてきた。
今の記憶は……兄と暮らす、最後の一か月ぐらいまでは消えていた。記憶の中では、兄とはいかに仲良し兄妹のように暮らしていたのだが、そこに至るまでの軌跡は記憶として覚えられず、正直、素直に幸せだったとうまく感じられない。
そこまでしても、神谷は必要があれば鋳装を鍛造する原因は一つだけだ。
自らの願望――使用者と一般人が何の隔たりもなく、一緒に暮らせる世界を作る。それを実現するためだ。
なのに、その願望が、さっき冬戸に真正面から完膚なきまでに全否定された。
願いを叶えることが、他人の願いを踏みにじることにほかならない。神谷の願いは他人のためのものであり、その他人のための行動から神谷は価値や必要性を感じたのだが、それずらもやがて他人を傷つけると、冬戸は冷徹なまでに理性的な論説で宣言した。
そう、冬戸が言っていた。そしてその言葉は、決してただの屁理屈じゃないと、神谷には分かりたくなくとも分かってしまった。
使用者と一般人が一緒に生きていける世界を作りたいと自分が思っているとき、きっともっと多くの人々が、使用者はもう見たくない、認識したくない、存在を知りたくないと思っているだろう。
そもそも、この願望はジレンマだ。冬戸の言葉で、神谷はようやくその事実に気づいてしまった。
「はぁ……」
顔の半分を覆い隠すように、横になったまま、両手で持っていた日記帳を口元に当てる。重々しくこぼしたため息が、日記帳の裏にある親指にかかって、少しくすぐたかった。
冬戸の話に素直にえば、何もしないことが正解だろう。しかし、何も行動しないというのは性に合わないし、うまく言えないが、最終的にそれで何かが解決するとも思えない。
そのために、神谷は今まで書いてきた日記帳を最初から読んで、昔の自分の考えを見つめ直そうとしている。
そこに書いた内容によれば、兄さんはAFプログラムが発表する前に、AFプログラムにかかわる軍の仕事を知っているようだ。実際、まだ発表されてもいないのに、兄さんはすでに使用者になっていたのだ。
とはいえ、使用者になったところで、兄さんに何かが変わったわけでもないらしい。相変わらずその朝早く出かけて夜遅く帰る日々を続いていて、にもかかわらず、毎日必ず神谷を可愛がってくれた兄さんだ。
幼い頃の自分が書いた内容は表現が稚拙で、読んでいてもうまく脳裏にその光景を再生できないが、なぜか、一生懸命書いていたことだけが伝わった気がする。それが少しだけ微笑ましい。
しかし、楽しい日々もすぐ終わりを迎えた。
AFプログラムが発表され、世界が狂喜に包まれる中、なぜか兄さんだけが寡黙になってしまった。いつも悩ましい顔をした、と日記には書いている。今ならわかる、きっと、あの時の兄さんは何か、あのときの神谷には理解できなかった問題を、一人で抱えていたのだろう。
そして、AFプログラムの副作用が発見され、AFプログラムについての論争があっちこっちで炎上した中、ある日、兄さんがとあるものをこっそりと家に持ってきた。
AFプログラムをダウンロードするための薬とヘッドギアだ。
販売がある程度制限された設備を、兄さんはどうやって手に入れたのか、今となっても分からない。だが、それを受け取った自分が兄さんに話した言葉は、ちゃんと日記に記してある。
「私も、お兄ちゃんみたいになって、能力でお金をいっぱいいっぱい稼ぐの!」
そう言った神谷に、兄さんは穏やかな笑顔を浮かべて、頭を優しく撫でてくれた。
「それは頼もしいね」
そう言った兄さんの顔は優しくて、だが、両目は恐ろしいまでに真剣な光を秘めて、神谷を見つめていた。文字を目で追うだけで、あのときの兄さんの真剣な表情が思い出せそうな気さえする。
「けどね、できれば、杏奈には、これを使ってほしくないんだ」
兄さんが言った言葉、その言葉の一つ一つを丁寧に記した日記帳には、そう書いてあった。
――だから、杏奈、
一体、兄さんはどんな思いで、そんなことを言ったのだろう。今の自分を見たら、どう思うのだろう。
――約束して。何がどうなっても果たしたい願いがないうちには、絶対にこれを使わないと。
兄の言葉に対して、子供の神谷は力強く頷いた。
「うん、分かった! 約束!」
約束の証として、二人は指切りをした。
そのあまりにも幸せそうな文面に、日記帳の表紙に添えた小指がぴくりと震えるように動く。
だが、この日記を何度も読み返した神谷には分かる。ここから先は、悲劇の始まりだ。
約束したあの夜は、兄さんとの最後の夜となった。
翌日から、兄さんが行方不明になったのだ。
軍に所属することがあって、当時は兄さんを探すために、軍隊さえ出してくれた。
しかし、怪しいことに、あれだけの捜査隊を出したにも関わらず、兄さんの行方に関する手がかりが一切見付からない。
それどころか、調査が進めば進めるほど、事の運びがますます胡散臭い方向に発展していった。
兄さんの行方の代わりに、捜査隊が分かったのは、神谷家に残る数少ない私物以外、兄さんに関する資料、記録、戸籍、所持品など、兄さんが存在していたことを証明できるものが、例外なく跡形もなく消えたことだけだった。
黒曜事件が起こったのは、兄さんが行方不明になってから一週間が経った夜だ。
兄さんが仕事していた街が、黒い風に削り取られたのだ。
それから、使用者に対する反発が炎上し、日本各地にデモが行われ、使用者は皆化け物だという認識が形成しつつあった。
それは間違っている、と神谷は思う。使用者は皆がそうじゃない、兄さんみたいに優しい使用者だっていっぱいいるはずだ。ただ何かを願っているだけで化け物扱いされるのは、あまりにもひどすぎる。
しかし、神谷の言葉に耳を貸してくれる人なんて、どこにもいなかった。
兄さんが政府の官僚だったから、神谷の世話は政府がしてくれた。生活に困ることは何もない。
困ることはない、はずだけど、寂しい。
兄さんがいない。家族がいない。友達も、自分が使用者の妹だと知られると、すぐ疎遠された。
自分はまた一人、世界に取り残されたのだ。
この一連の出来事を、あのときの自分はどんな気持ちで記したのだろう。
小さい頃はただ日記を書きたいだけで日記を書いていたのだが、ここの内容を書くときは、すでに半ばAFプログラムをダウンロードすると決めていた。
だから、ここから先は、ただの日記ではなく、未来の自分に、過去の自分を紹介するための文章みたいなものだ。どんなことでも自分の一部、だから、どんなに辛いことでも、思い出しながら、涙を押さえながら書かなければならなかったのだろう。
そして、しわくちゃになった紙や、滲んだ文字から見れば、あのときの自分は涙は抑えきれなかったらしい。
そんなの、間違ってる、と明らかに力を入れて書いた文字が、あのときの神谷の気持ちを強く代弁している。とはいえ、どこが間違ったのか分かるほど、あのときの神谷は賢くなかったし大人でもなかった。間違っているという確信だけは持っているようだ。
とはいえ、ただ叫んでいても、誰も耳を貸してくれるはずがない。何を変えようとしても、そのための力がなかったのだ。だから、神谷は必死に考えた。どうすれば、変えることができるのだろう、と。
その自分への問いが、兄さんが渡してきたAFプログラムのダウンロード設備を、神谷に思い出させた。
大事な兄さんがくれたものだから、政府の捜査隊にも黙ってこっそり隠していた。それが、兄さんの持つ力をくれるかもしれない。
そう思って、神谷は薬の入った注射器を手に取った。
兄さんなら、広がっていく使用者に対する不満を鎮められるに違いない。なら、私も兄さんと同じ力を持っていれば、同じことができるかもしれない。そうしたら、もう一度兄さんに会えるかもしれない。
神谷の推測が根拠のない確信に変わったのには、そう時間がかかることではなかった。
何がどうなっても果たした願いがないうちには、絶対にこれを使わない。
それは、何がどうなっても果たしたい願いがあったら、使ってもいいということだ。
――私は、この現状を変える!
まだ小学生で、あまりにも稚拙な神谷が、覚悟とともに文字を日記に刻んだ。
兄がくれた、今は倉庫の奥に締まっているヘッドギアを取り出し、電源を入れる。
――この使用者と一般人が対立し、互いを傷つけ合うような世界を変えるんだ。変えて、もう一度お兄ちゃんに会う!
子供の夢というべきか。微かな希望を根拠なく信じて、だがどこまでも真剣な思いを心に、小学生の神谷が薬を注射し、ヘッドギアをかぶった。
――そして、今度は守られたばかりじゃなく、お兄ちゃんと一緒に、何かを守る側になるのだ!
ヘッドギアの電波が脳を発されたのを感じた。少し痺れる、意識をこの世界ではないどこかに連れていかれた感じがする。どこか、深い、深い、どこでもないどこかに。
底に沈んでいく神谷の耳に、ぼんやりと、声が届く。
正確に言うと、聴覚の捉える声を意味に変換し、理解する脳の部位に、言葉ではない意味を持つ波長が、直接問いかけてきた。
あなたの願望は何ですか、と。
私の願望は――
脳の錯覚としか思えない声に、神谷は脳裏で答えた。
――使用者と一般人が拒絶、隔たり、誤解なく、一緒に生きていける世界を作ること。
あの日、神谷は風の使用者となった。
「はぁ……」
一冊目の日記帳を閉じて、神谷が長いため息をついた。肺の拡縮で、セーラー服の薄い生地の下で、小さな胸が上下する。
初心を思い出すために読んでいたのだが、分かったのは自分の覚悟だけだ。
別に今も覚悟はちゃんとあるのだが、もっと別のものを見つけたかった。
「よいしょっと」
横に転がるように体を回転して、そのままベッドを降りる。一冊目の日記帳を本棚に戻してから二冊目を取り出……そうとしたとき、
ブーン、ブーン、ブーン……
ふと、デスクに置いたスマホのバイブが鳴った。
「……なに……?」
懐かしい気持ちや雰囲気をぶち壊す無機質の音に、少しむっとしながらも、日記帳をポケットにしまって、スマホを手に取る。
画面に表示されている名前は……根岸。
「根岸……? 頼んだことないはず……」
困惑に眉を寄せながらも、ちゃんと通話ボタンを押す。すると、向こうから焦燥に満ちた声が大音量で鼓膜を震わせた。
「か、神谷さん!」
「なな、なによ! いきなり大声出さないで! 耳痛いわよ!」
「――っ、それは……そちらも同じじゃないですか……」
何やら耳がつぶされかけたような感じで言ってきた。けど、いつもなら文句の一つか二つを並べてきてもおかしくないのに、根岸は早くも話題を打ち切ってしまった。
「あ、いえ、今はそういうことを話している場合じゃないです。よく聞いてください、神谷さん」
と、いつもと違ってすぐ切り替えた根岸が、緊張を隠しきれず、なるべく冷静な口調で声の震えを抑えながら、何とか切り出した。
「未開発区画で、棺運びが現れました」
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