間章

 孤児院から、政府の地下施設に連れてこられてから、冬戸の生活は、何もかも変わってしまった。

 もともと何かをしているわけじゃないし、別段、あの気楽な日々が懐かしいわけでもないから、冬戸はなんとも思わないのだが、ほかの子供はそうじゃなかった。

 願いを抱いているからここに連れてこられた凜華を含む子供たちは、過酷な訓練や生活に耐えられず、皆、笑みを顔から消して、性格も激変した。

 あるものは気弱な泣き虫に、あるものは無感情に、あるものは凶暴になってしまった。

 その中に、凜華だけが変わらずに毎日笑顔のままで、優しく皆に接している。しかし、その笑顔もまた昔と違って濃厚な疲れの色があるのは、誰も一目見れば分かる。

 そんなある日、AF能力の使い方をある程度身につけ、次に鋳装の使用訓練を開始するときに、ある男が冬戸たちの前に現れた。

 ほかの長官と違って、柔らかい笑みを口元の端に微かに浮かんだ彼は、大人になりかけた子供のような存在だった。

「こんにちは、僕の名前は神谷白かんだにはく。今日から君たちの先生になるものだよ。よろしくね」

 孤児院にいる頃なら、皆で一斉によろしくー! と大声で返して、あれこれと質問を投げるところだっただろう。しかし、今は冷たい視線や猜疑心に満ちた目が先生に向けているだけで、誰も声を上げることはなかった。

「よろしくお願いします……ッ!」

 と、思ったら、凜華が先生とよく似た笑顔を浮かべ、疲れを隠せない声で、しかし元気に挨拶した。その声に少し目を細め、凜華の近くで二人しか聞こえない声をこぼす。

「おい、目立ちすぎだ。あとで厄介なことになるかもしれないぞ」

「え、えぇ……でも、あの先生は悪い人には見えないし……」

「………。お前に悪い人といい人を見分けられると思っているのか」

「わ、私だって……ッ! わたしだって……その……」

 世話をしてくれる先生がいた愛に満ちた孤児院から、こんな過酷な環境に送り込まれたことがあって、さすがの凜華も、ここでは言葉に詰まった。

 しかし、意外なことに、凜華の予感が当たった。悪い予感ほどよく当たるとよくいうが、凜華の予感はいいほうが当たるものだ。

 この先生は、どうも計画自体には反対だが、一人では取り消しに持っていけないから、せめて自分が先生として、子供たちの面倒を見ようと思っているから、ここにきたらしい。

 そんな先生の人格、あるいはカリスマ性に、冬戸は心地よく思う。綺麗事を抜かす救済者気取りの人物――主に計画が開始した最初の頃、一度しか皆を見に来なかった孤児院の先生――より、白という先生の、できることをしつつも、罪悪感を忘れない姿勢が好きだった。

 それは皆の共通の気持ちだろうか。先生が一任された皆の鋳装訓練は、いい成績を上げた。皆、鋳装の扱いやAF能力での戦闘を習得し、熟練していく。ほかの長官もそれで大満足し、部隊の育成のほとんどを白に任せることにした。おかげで、皆の生活が少しずつだが、改善していく。

 あれはたぶん、三十人の子供にとって、一番幸せな時期だっただろう。だからだろうか……誰一人も、先生の笑顔はいつも曇っていることにも、その奥に隠された辛い気持ちにも気づかなかった。

 そして、幸せな時期が唐突に終止符を打たれてしまった。

 ――鋳装の鍛造は、記憶の消失につながる。

 地下施設に連れてこられてから、一年半が過ぎたころ、皆が何となくその真実に気づいた。

 大騒ぎになった外の世界の情報がなくとも、毎日のように鋳装を鍛造し、使いこなすように訓練し続ける上に、すでに任務を任され始めた子供たちが、気づかないはずがないのだ。

 その中で、いつも落ちこぼれだった凜華が、いつも自主訓練で鋳装を鍛造していたことや、任務に出るたび、ただAF能力を使うだけなら遂行できないため、毎度鋳装を鍛造しなければならないことで、記憶の消失が一段と早かった。

「ね」

 ある日、任務はまだ入っていない短い休憩時間で、凜華が話しかけてきた。

「冬戸って、昔にした小説の話、覚えてる?」

「覚えるよ」

「へへ、お姉ちゃん嬉しい」

 くすくすと手で口を隠しつつ笑った凜華の姿は、どこかあどけないものだった。

「なんだ、急に」

「ううん、別に。冬戸に聞きたいことがあるだけ」

「聞きたいこと?」

「うん。冬戸って、日記は小説だと思うの?」

「日記?」

 一瞬眉をしかめたが、しばし考えると思いついた答えを口にする。

「たぶん、そうだと思う。自分の生活を記すそれは、自分が主人公になった物語だと言えなくもないから」

「へぇ、じゃあさ、冬戸も小説、始めない?」

「は? なんで? っていうか、もってお前」

「ほら、私、なんか四歳までの記憶がなくなっちゃったの。これじゃいつかすべてを忘れちゃうかなぁ、って思って。そこで日記を書き始めた。冬戸が言ってた、その……自分の存在証明?」

「僕は別に忘れてもかまわないが」

 そう言いつつも、冬戸は家族入れされたときと同じ、半ば強制的に日記を始めされた。

 しかし、それで記憶が戻ってくるわけでも、消えなくなるわけでもない。凜華の実力も突然に向上することなく、相変わらず任務があるたびに鋳装を鍛造せざるを得なかった。

 かつて友達だったほかの子供に冷たい目で見られようと、弱かろうと、それでも疲れを気にせず、健気で頑張り続ける。そんな笑顔を忘れずにいる凜華を見て、冬戸の中で、不思議と初めて、熱のこもった感情が芽生えた。

 この、自分の姉だと言い、実際に姉のようにしようとしている少女を、なんとしても守りたい。

 とはいえ、自分には任務で凜華を守れても、ここから解放してやることはできない。当時の冬戸には、強力なだけのAF能力しかないのだ。

 だから、信頼に値する先生に相談することにした。

「あの、先生。聞きたいことがあるんだけど」

 凜華の状況は、先生も知っている。だから、先生はいつもできる限り、凜華に難しい任務に参加させないし、訓練のときもちゃんと見ている。それを知っている冬戸は、単刀直入に質問を口にした。

「凜華を、ここから連れ出せないか。代わりに、俺にどんな任務をやらせてもいいから」

「凜華ちゃんか。確かに、このままじゃだめだね……。冬戸くんは、いつもクールに見えるけど、実は優しい子だね。そんな誰かを守る気持ちは、とても大事だと思うよ」

「ありがとうございます。それなら――」

「でもね、先生には……それができない。本当に申し訳ないと思う。けど、僕にはその権限がないし、凜華ちゃんは、この部隊では弱くても、AF能力を使える以上、軍にとっては手放したくない人材だ」

「……それは」

 組織の事情を理由にする先生に、少し声を低くして問う。

「先生が意図的ではない場合なら大丈夫、ということですか」

「………! なるほど。君が僕にこんな話をしてくれるのは、僕を信頼してくれている証だね。正直、とても嬉しいよ。加害者でしかない僕に、君がそう思ってくれるなんて」

 先生が少し困ったように頬を掻いて笑った……が、すぐ悲しげに目を伏せた。

「でも、それはできない」

「――なんで! 先生なら――」

「冬戸くん、僕にはね、家族がいるんだ」

 冬戸の言葉を遮るように、先生が少し強い口調で言った。

「まだ小さくて、君よりは年下の妹なんだ。僕は、彼女を守りたい。そのためになんでもするし、実際にそうしてきた。それが、僕の願いだ。だから、僕は君たちと同じ使用者になって、任務のときも、必要があれば鋳装は鍛造する」

 まるで、普通の先生が、普通の生徒を諭すかのように……

「君は、この部隊でも一番強い。そして、優しい心も持っている。だから、ほかの子に言わなかったことを教えてあげよう。僕のような人は、そんなこと言う資格はないと思うけど、使用者にとっては、大事なことなんだ」

 冬戸を正面から優しい目で見据え、穏やかな声で冬戸の鼓膜を震わせる。

「願いを叶えることの本質は、他者の願いを踏みにじること。それが大きければ大きいほど、美しければ美しいほど、傷つくものが増えていく。今、君たちがこの国の平和という願いで苦しんでいるように、僕は妹を守るために、それに加担せざるを得ないようにね。でも、冬戸くん――それは君にとっても同じだよ」

「………ッ!」

「君が本当に願うなら、ほかの誰かの、僕の願いを踏みにじっても、己を貫け! だって、あなたが頑張って願いを叶えることで傷ついた人がいても、それと同じように、幸せになれたものも必ずいるもの。幸せにしたいものがいれば、恐れずに、君の見つめる道の先に進め! 幸い、僕みたいな悪い人をやっつけても、バツが当たらないしね」

「先生……! それは――」

「あ、でも、もし冬戸くんが本当に僕と戦うことになったら、僕も全力を出すよ。ほら、妹を守るために、そうするしかないしね」

 あえていたずらっぽい笑顔を作り、軽く額を突いてきた。

 先生のAF能力なら、この何気ない動きだけで冬戸の頭を消せたのに、自分の願いに害を成せるかもしれない相手に、先生はそうしなかった。

「最後に、もう一つ教えてあげよう」

 彼はただ、席から立ち上がって、励ますように冬戸の肩を軽く叩いた。厚めな軍服越しでも、大きな手のひらの温もりが感じられる。

「先生が意図的ではない場合、は大丈夫じゃないけど、先生が気づけない間に何かが起きてしまったら、大丈夫かもしれないよ。ああ、そういえば、来週、軍の会議があって、先生はここの長官たちと、しばらくここを離れなきゃならないな。準備が忙しいから、先に行くよ」

「―――っ! せ――」

「………悪い奴ぼくに、負けるなよ」

 血が出るほどに唇を噛みしめて言われた最後の言葉は、声が低くて震えている。冬戸は返す言葉を見つからず、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。

 先生との相談の翌日、また任務に出た。凜華は皆の足手まといにならないために、また鋳装を鍛造してしまった。

 その日の夜、凜華は珍しく力なく基地の冷たい床に座り込み膝に顔を埋めて、寂しそうにつぶやいた。

「私、なくなっちゃうかもしれない」

「姉さんが弱くても、後ろに隠れて僕に任せば、死ぬことはないと思う」

「やっぱ冬戸は頼もしいね。でも、そうじゃないの」

 顔を膝に埋めたまま、首を軽く振ってきた。もう長い間手入れされていない髪が、傷跡の残ったももの皮膚を軽く擦る。

「私は弱いから、任務で鍛造しなきゃいけないでしょう。だから、記憶もどんどん失っていくんだ。鋳装を持っていると記憶は全部戻ってくれる。でも、思い出した記憶はそんなにきれいだなんて……そう、思うと……ね、失うことがとても……とても、怖いの」

 いつもの柔らかい声だ。でも、凜華の体が小刻みに震えているのを、冬戸は見逃さなかった。声が今にも泣き出しそうなのを、冬戸は聞き逃さなかった。

 ここにきてすでに二年近くたった。いくら凜華がポジティブで前向きだとしても、そろそろ限界だ。

「いつか、私はすべてを忘れてしまえば、私は私じゃなくなる。日記帳を読んでも、昔の私は戻らない、ただ『昔の私を知った私』になるだけ。そんなんの、怖いよ……」

「そんなものか。僕はどちらかと言うと、忘れたらいいと思うほうだけど」

「お姉ちゃんとの思い出も?」

「前に、忘れても大丈夫、姉ちゃんがもっともっと楽しい思い出を作ってあげればいいのだ、って言ったのは誰だか」

「冬戸、ときどき意地悪い」

 ようやく顔を膝から少し離れた凜華が唇を尖らせて見せてきた。

「……でも」

 それを無視し、冬戸は言葉を続ける。

「忘れるのは怖くなくても、少しだけ、寂しいかもしれない」

「冬戸……」

「だから、姉さんが望めば、ここを出てしまおう」

「……? えっ」

 その言葉の意味を理解するのには、十秒くらいの時間が要るらしい。

「えっ、ちょっ、えぇぇ⁉ こ、ここを? だって……じゃ、じゃここを出ると、どこに行くの? 私たち、AF能力しかないよ⁉」

 姉さんのほうはAF能力もあるかどうかも怪しいけどな。

 と、内心でつぶやいても、声に出さずに別の返事をした。

「世界はとても広いものだ。本で知ったことだけだけど、どうにかなってくれる世界だと思う」

「そ、そうなの?」

「そうだ」

 先生との約束もある。

 願いを叶えると、誰かが傷つく。それを承知の上なら、大事な人を幸せにするために、誰かを傷つけろ。先生がそうしているように、己を貫け!

 ――だから。

 と、冬戸はおそらく生まれて初めて、真剣な顔を作り、凜華を真正面から見据える。急に見つめられ、両目をぱちくりさせる凜華に、はっきりとした声で短い言葉を伝える。

「決めてくれ、姉さん」

 そしてやってくるのは、先生も長官も軍の会議に出席する一週間だ。

 その間に任務がなく、皆が訓練が終わった後、各々部屋でくつろいだり、自主訓練をしたりしている。その隙を見て、冬戸は凜華を連れて、任務に出るときよく通る扉に来た。

 ロックは当然かかっている、だが、冬戸にとってはそれは無意味だ。映画の中なら、超能力を封印できる物質でできた手錠とかはよくあるのだが、能力を封印できる都合のいい物質なんて、現実にはないのだ。いざ使おうとしたら、AF能力はいつどこでも使える。

 厳重に管理された扉を前に、冬戸は鋳装を鍛造し強引に出口を作った。

 しかし、逃走はそううまくいくものじゃなかった。道中、逃走防止のレーザー兵器が発動した上に、脱走者を掴めろと命令された、いつかの孤児院では凜華と仲良くしていた二十八人の子供……だった熟練した使用者が鋳装を手に追ってきた。

 冬戸はこの特殊部隊において、頭一つ抜けて最強だと言っても過言ではない。しかし、ほかに強者の使用者も多くいて、凜華を守りながら一人で二十八人を倒すことも、防戦を徹して逃げ切ることもできなかった。

 なにより、ここでぐずぐずしていると、本格的な制圧部隊が派遣されてしまう。先生だって、命令で帰ってくるかもしれない。

 そんな焦りが、冬戸に致命的な隙を作らせてしまった。

 冬戸たちには知らされていない位置に設置したレーザー兵器に、全く予想外の方向から、腹を貫く一筋の光線を打ち込まれた。

 窮地から逃れようと過熱した思考、傷だらけになっても戦い続ける体、初めて感じた焦り、限界以上に発揮した能力……

 正常とは程遠い状態で、体が貫かれるなど過剰な刺激によって、冬戸の思考は、ここで、プログラムの演算システムに切り替えた。――AFプログラムの、暴走だ。

 次の瞬間、冬戸を中心に、闇よりも漆黒の風が全方向に薙ぎ払い、無差別にすべてを食い尽くす。

 この地下施設を初めとする、都市全体を。建物も、街路も、人も植物も、空気も黴菌も有象無象のすべてを、無に返した。

 その日、何もかも黒に染まってしまった。

 世間はあとあと、この事件をこう呼ぶ。


 ――黒曜事件、と。

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