第四章 願望の本質 2

 インスラは十二個の区画に分かれていて、新設都市のために、一つ一つの区画も明確な違いがある。

 飲食街や娯楽街、教育機関などはどの区画にもあるのだが、ほかにも特定の区画しかないものがある。

 例えば、中央部のすぐ隣にある第一区では、インスラの唯一の大学が設置されているとか、冬戸の住んでいる第三区には毎年大会を開催する体育館があるとか。そのほか、遊園地のある区画も存在する。

 将来独立都市が完全に独立し、外の資源を頼らないために、今まさに建設の真っ最中にある、第十から第十二区までの区画は、それぞれ会社、工場や加工場、農地や飼育場や養殖場のために工事を進んでいるらしい。ちなみに、農地などがどうやって百パーセント工場に汚染されないのかが今の課題だそうだ。

 と、その中、インスラの中でも、格段に品のある第七区の道を、冬戸は幸せそうな表情で手を組んだり、笑い合ったりしている大量のカップルを無視して黙々と歩いていく。

 石で舗装した幅の広い道の両側に、アンティークな街灯が柔らかく橙色に光っており、等間隔に並んだ木々の緑を温かく染まっている。

 中世ユーロッパを彷彿させる風景だ。ほかの区画では、性能を重視する白いLED灯を使う街灯とアスファルトの路面なのに、この第七区だけが特別扱いされている気がする。

 それも、独立都市インスラを設立するとき、可能な限り違う雰囲気の空間を作るという、政府側のせめての気遣いの賜物だ。

 そんな嘘めいた景色の中をしばらく進んでいくと、冬戸は道の両側に立ち並ぶ本屋や喫茶店の中に、あまり目立たない一軒のお店の前に足を止めた。

 インスラで唯一の日記屋。使用者の街ではかなり重宝されているお店だ。

 ガラス製の扉に手をかけ、中に入ると、チャラチャラと、ドアベルの涼しい音が空気を震わせる。壁もレジも、本棚や内装のほとんどが木製の空間に入るとたん、木の匂いや微かなお茶の香りが鼻の奥をくすぐる。

 ここにいるだけで落ち着く空間だ。そのインスラのイメージとはあまりにもかけ離れた空間の中、ふと柔らかい女性の声が冬戸の鼓膜を優しく震わせる。

「あー、冬戸くんだぁ」

 木製のレジで、にこりと唇の端を持ち上げて、どこか間抜けな感じがする女性が冬戸に微笑みかけた。

「おはようー……じゃなくて? こんばんはぁ」

「こんばんは」

「日記、買いに来てくれたぁ? それとも、私に会いに来てくれたのぅ?」

 小首を傾げながら手を組んで前に伸ばし、ゆっくりと伸びをしてから、どこか間延びした声で挨拶してきた。

 そののんびりした仕草は、この女性――ここの店主さん――にはよく似合っている。

 実際、本屋にも日記帳が売られているのに、この日記屋が依然としてインスラの住民たちに好かれている原因の一つがこの女性の存在だ。

 腰まで伸びた長髪は秋に熟成した稲穂のような黄金色、柔らかい波ウェーブがかかっていて、夕日に染まった小川を想起させる。小作りで子供っぽい顔に、春の森の緑を秘めたような翡翠色の瞳がついている。

 この木造空間の中で、純白のワンピース姿の彼女は、どことなく森の妖精さんに見える。

「いや、日記はちょうど新しいの調達したところだが、今日は別件だ」

「別件?」

「ああ、待ち合わせだ。ボックス席空いてるか」

「待ち合わせぇ?」

 微笑んだまま小首を傾げて少し考えると、何か閃いたのか、店主が柔らかい動きで、胸元で両手を軽く合わせた。

「デートだぁ」

「デートの意味を調べてから言え。で、空いてるか」

「空いてるよぉ。どうぞ使ってぇ。待ち合わせって、女の子とぉ?」

「一応生物的には」

「じゃあ、やっぱりデートだぁ」

「それはもういい。席に案内してくれるか。やつは十五分後来るはずだ」

「はーい」

 のんびりと席を立ち、レジの裏を出てから、冬戸を店の奥へと案内する。

 ここは日記屋である同時に、喫茶店の役割も果たしている。日記帳の詰まった本棚の間に、木製のテーブルがいくつも並んでいて、さらに奥には二階へと続く階段がある。

 店主さんのあとについて二階に来ると、見慣れた光景が目に入った。

 廊下の両側には障子で個室がいくつかある。これがこの店のボックス席だ。中の音が漏れそうに見えるが、店主の話によれば、何やら現代の技術を使って、完璧に遮音できるらしい。実際、前に中で同窓会を開いてバカ騒ぎしている客もいたが、障子を開ける前に冬戸は何の声も聞こえなかった。

「はーい、こちらへどうぞぉ」

 その中の一室を冬戸に示し、障子を開けてくれた。

 畳敷きの和室に入り、部屋の真ん中に置かれるちゃぶ台に座ると、店主はまたこちらに微笑みかけてきた。

「私、お茶を持ってくるねぇ」

 柔らかい動きで手を小さく振ってから、障子を閉めた。

「……こっちもさっそく始めるか」

 独り言をつぶやいて、持ってきたタブレットを取り出す。フォルダーをいくつかクリックして、神谷に見せる資料をあらかじめに開いておく。

 と、その作業がすべて終わったときに、ふと障子の向こうから店主の声がした。

「冬戸くん、彼女さんきたよぉ」

「デートじゃないって言ったはずだが」

 半眼を声の方向に向けると、ちょうど店主が障子を開けるところだった。そこには、ティーカップを二つ乗せた盆を手に持つ店主と、口をへの字に結んで、呆れたといった感じでこっちを睨んでいる神谷の姿がいた。

「ではぁ、ごゆっくりぃ」

 ティーカップをちゃぶ台に置いて軽く頭を下げ、店主はほんわかした微笑みを二人に見せてから、軽快な足取りで和室を離れていった。

 残された神谷は一応障子を閉じたが、なかなかちゃぶ台に座ってこない。

「あんた、あたしのこと彼女だって言ってるの? 変態なの?」

「能天気店主さんが勝手に言ってるだけだ」

「あたしの携帯番号知ってるみたいだけど」

「お前も俺の部屋番号知ってるから、お互い様だ。ついでに言うと、情報源もまったく同じだ。お前に責められる筋合いはない」

「根岸ね……後で個人情報の大事さを教え込んであげるわ……」

「お前にその資格はないと思うが、まずは座れ。棺運びの件について新しい情報がもらった」

「棺運び?」

 さすが仕事熱心の神谷と言うべきか、その言葉を耳にして、すぐ表情を変えてちゃぶ台に座ってくる。

「今日寮にいなかったのはその情報のため?」

「ああ」

 きっぱりと首肯くと、神谷が犬歯をむき出すように、こっちに不満げな視線を送ってくる。

「なんであたしに言わなかったのよ。何かがあればすぐ連絡すること。協力捜査の基本よ」

「いや、あの現場、お前が見ないほうがいい」

 神谷が準備できたと見て、冬戸は資料を表示したタブレットを差し出す。

「なに……?」

 それを受け取り、スクリーンを眺める。

 最初は冬戸への不満で、口がへの字に結んだ例の表情をしているが、読み進めるのにつれて、神谷の表情がだんだん険しくなり、海色の目も無意識に細めていく。

 予想通りの反応だ。なぜなら、表示された資料は警察機関からもらった、今朝の事件の被害者の情報だ。そこについている写真を見れば、被害者の二人は昨日、自分が助けた女の子とその母親だと分かるだろう。

 そして、死体を持ち去ったり監視カメラを予め破壊したりと、犯人の手口は棺運びと類似している。それが分からない神谷じゃない。

 いろんな感情が浮かんできた神谷の顔を、どこか冷めた目で見ていると、ふと、ポケットにしまったスマホが震え出す。

 タブレットに集中している神谷に気づかれないように取り出すと、画面には送信されたばかりのデータが表示されている。それをクリックして、内容を確認する。

 今日、外から帰ってきてから、琴葉に調べるように頼んだものだ。このデータはそのお願いの返信だ。ざっくり目を通すと、内容は予想通りのものだった。

 それを確認してから、すぐ琴葉や千葉にメールを送る。それからスマホをポケットにしまい直す。

 ちょうど、神谷が情報を読み終わったところだった。

「な、なによ……これ……」

 もはや顔を見なくとも、震えた声からも簡単に神谷の動揺が分かる。

「見ての通りだ。昨日の夜、お前が助けた二人が殺された。手口は棺運びのそれだ。その依頼内容を見て、俺がうけ――」

「そうじゃない! なんで……あの二人、一般人なのよ! 棺運びは使用者しか狙わないはずなのに、なんでこんなこと……ッ!」

「俺に怒鳴っても仕方がない。そもそも、使用者しか狙わないっていうのも、今までの事実を基づいた仮説にすぎない」

「じゃ、なんであの二人なの⁉」

「そりゃ」

 身を乗り出して、詰問してくる神谷の視線を正面から受け止める。口調こそ強いが、海色の目は今までにないほど動揺している。おそらく、神谷も薄々気づいたのだろう。親子が殺された原因。

 そのあえて口に出すこともない言葉を、冬戸はあえて、はっきりした声で言い出す。

「お前に助けられたからじゃないのか」

「え」

 一瞬、さっきまで鬼気迫る表情だった神谷が、ぴたりと動きを止めた。

「そ、そんなこと……」

「警察側のDNA鑑定によれば、二人のDNAにAFプログラムに改竄されたことはない。ごく普通な一般市民だ。生活も普通で、暴力とは無縁の存在のはずだ。唯一考えられるのは、使用者に助けられたという他人にない経験だけだろう。当然、これもあくまで推測、信じるかどうかはお前の自由だ」

 タブレットを神谷の手から取り戻し、開いたウィンドウを閉じる。適当にタブレットをちゃぶ台に置くと、真剣な眼差しで神谷の目を覗き込む。

「神谷、一つ聞きたい。お前はなぜ棺運びを追う? 別に強制されたわけじゃないだろう」

「なぜって、今はこれどころじゃないでしょ……ッ!」

「いや、重要な質問だ。棺運びの件についても」

「は? 意味わかんない……仕事だからに決まってる……」

「仕事は受けたから仕事だ。俺が聞きたいのは、なぜこの仕事を受けたのか」

「私は……」

 冬戸の視線を避けるように、視線を下に逃がす。爪が柔らかい手のひらに食い込むほど、きつく拳を握りしめ、血が出るじゃないかと思わせるほど唇を噛みしめる。

 血の気の引いた顔が、神谷の内心の動揺をもの語っている。

 この二人は棺運びの初の被害者じゃなく、前にも八人が棺運びの手で殺されたというのに、ただ使用者と一般人という違いだけで、神谷の反応がこうも変わってくるということは、彼女が今見せる感情は、人が死んだに対するものではなく、もっと別のものに向けたものだということだろう。

 とはいえ、当然と言えば当然なことだ。

 冬戸の推測が正しければ、二人が殺された事実は、神谷が女の子を助けたから起こったもので、手を下したのは棺運びとはいえ、引き金となったのは神谷ということになる。

 きっと神谷の中に、自責や怒り、他のもろもろな気持ちが激しく渦巻いているだろう。

 努めて気持ちを抑えている神谷を見つめ、幼い顔から表情で彼女の考えを読み取る。ここで、彼女の本当の考えを見極めなければならない。それによって、これからの行動が大きく変わってくる。

 だが、一緒に外に出たあの日、どうなるかを知りながらもAF能力を使って、あの親子を助けた神谷は、きっと、一番聞きたくない答えを出すだろう。

「私は、そんな人、許せないからだ」

 果たして、神谷は握りしめた拳をほどくことなく、毅然とした表情で顔を上げ、動揺が収まった目で、真正面から冬戸の視線を受け止めた。

 声は依然として震えている。しかし、そこに確固たる意志が秘めている。

「殺人はもともと許されないのに、棺運びは、AF能力を使って人を殺してる。そんなの……間違ってる。あたしが棺運びを捕まえないといけない。そのための能力だから」

 いつも通り……いや、いつもよりはっきりとした口調で、神谷が言い切った。

 その宣言に似ている物言いに、冬戸はさらに神谷の真意を探ろうと問いを投げる。

「お前じゃなく、ほかの誰かが棺運びを捕まえたら駄目か」

「それは……捕まえたらそれはそれでいいけど、やはりあたしがやるべきだと思う」

「なぜだ」

 自然と、神谷に自分の考えを言わせるように誘導する。すると、神谷は正面から冬戸を見据えて、桜色の唇を動かした。

 断固たる意志を込めた言葉が、和室の落ち着いた空気を震わせる。

「それが、あたしの願望だから」

 願望。

 使用者がこの言葉を口にするとき、示す意味は一つのみ。

 空気鍛造エア・フォージングプログラムをダウンロードしたあの日、特殊電波を脳に発するヘッドギアに頭を包まれる中、聞こえてきた「あの問い」への答え。物理法則をも捻じ曲げるAF能力を付与できるほどの、強力な願望。

「あたしは……あのとき、あの声に答えた。使用者と一般人が誤解なく……拒絶、隔たり、そういうものがないように、一緒に生きていけるような世界を作るって、答えた」

「使用者と一般人が平和に生きていく……か」

「そうよ。使用者は何も悪くないのに、ただ一部の人が悪いことしたからって、皆に誤解されて……今みたいに嫌われてる。そういうの、間違ってる。あたしは棺運びみたいなAF能力を悪用する使用者を皆捕まえて、それから、どれぐらい時間がかかっても、あたしは……皆に分かち合わせてあげたい」

「……。そうか」

 神谷の答えに、冬戸は小さく嘆息を漏らす。

 その願望を語っている神谷の声には、熱がこもっている。真っ直ぐ見据えてきた目にも、覚悟の色が宿っている。

 まだ中学生なのに、いや、AFプログラムをダウンロードしたときはもっと小さかったのに、彼女はもう、これほどのことを願っていた。

 冬戸の知る限り、使用者になれるものは例外なく、切実に追い求めるものがあるが、その多くは自分自身のことに限る。AFプログラムを作動させるには、脳の電子信号が強ければそれでいいのだ。

 だが、神谷は違う。使用者と一般人の隔たりや誤解、その、人間そのものにとっての問題を、本気で解決しようとしている。

 だから、彼女は使用者だとバレるのを分かった上で、外でAF能力を使って、あの女の子を助けたのだろう。そして、使用者と一般人の誤解を深めるような棺運びの犯行が許せないのだろう。一般人が殺されたと知って動揺したのもそのためだ。

 そして何より、こういう一貫した思考の持ち主は、記憶があってもなくても、考え方や求めるものがいつも同じだ。

 最初に会ったとき、躊躇なく鋳装を鍛造したのはそのためだ。そして――

 ――鋳装を持っている間だけ、過去の記憶が全部思い出されるのに、鋳装を鍛造した瞬間でも、神谷は何の動揺を見せないのも、そのためだ。

 きっと、過去でも現在でも、おそらく未来でも、神谷はこの願望の正しさを信じるだろう。じゃないと、誘導したとはいえ、こうも簡単に話してくれるとは思えない。人に語るのに何の恥も咎めもない、誇るべき願望だと心底から信じているからだ。

 しかしそれは同時に、ひどく、自己中心的な願いでもある。

 だから、冬戸はこう言わざるを得ない。どこまでも向いていないからだ、神谷は。

 彼女は、前を見つめすぎた。

「なら、やはりお前は棺運びを追うの、諦めろ」

 一度目を閉じて、再び瞼を開くと、低い声ではっきりと言い放つ。

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