第三章 取り残された者達 3
希望のプログラム、奇跡のプログラム、人類史において最も偉大な発明、人類という種をもう一段階上げる偉業、叡智の結晶……
空気鍛造プログラムが発表された当時、その画期的な性能が、瞬く間に全世界の注目を集め、今までにない称賛を浴びた。
おそらく今までの発明の中で一番注目され、一番評価されるであろうAFプログラムは、記憶喪失という副作用が判明されても、人々から敬遠されることはなく、購入し自身に使うものも相次いでいる。
薬にも副作用というものがある。記憶の喪失はAFプログラムの副作用だと思えば、別に怖いものがない。それに、記憶喪失するといったって、人間は三歳前のことを覚えることができない。たとえ覚えられるとしても、鋳装さえ使わなければ、記憶の喪失はないに等しい。
確かに、皆が口を揃って、AFプログラムをそう評価したときもあった。
批判の声は上がるものの、賞賛の声を圧倒するのにまだまだ足りなかったのだ。
それに、新技術はもともとリスクのあるものだ。それは利用され、検討され、改善されていく。やがて広く使われるリスクのない技術になると、皆が思っていた。
その考えを賛同する意見も多くの専門家の文章によって広められ、皆のAFプログラムに対する恐怖心をなくした。
もし、あの事件がなかったら、今は使用者も普通に家族と一緒に過ごしているだろう。AFプログラムも、希望のプログラムから絶望のプログラムにならずに済んだに違いない。
だが事実は変わらない。変えられない。
六年前、あの事件が起こってしまった。
事件の遺跡は今も残っていて、あらゆる存在が削り取られた巨大なクレーターとして、ほかの街に囲まれている。
政府の調査報告によると、そこの土地はもう死んでいるとのことらしい。
核災害で土地は五百年も使い物にならないとされているが、黒曜事件はその土地を永遠に利用できないようにさせた。
まさに人類史上最凶最悪の事件。
事件の後始末が一段落したところ、多くの科学者が黒曜事件を研究対象にしてきたが、分かることといえば、事件が起きた六年前での調査が出したものと同じぐらい、少なかった。いくら研究を積み重ねても、こうなった原因が究明できなかった。
都市の中心から、核爆発のように黒い風が爆ぜ、全方位に拡散して触れるもののすべてを消した。それが今黒曜事件について分かった唯一のこと。
黒曜事件が発生して以来、もう誰もAFプログラムにいい思いを抱くことができない。
原因が分からないが、そんな災害を起こせるのはAFプログラムしかない。そして、AFプログラムを使い続ければ、いつどの使用者が同じ事件を起こす可能性もゼロじゃない。
もともと副作用問題で炎上しかけた空気鍛造プログラムは黒曜事件をきっかけに、各国に全面規制され、使用者も危険視され、各国がそれぞれ設立した独立都市に隔離された。
六年後の今、黒曜事件は歴史教科書に載せられ、追悼活動も年々行われている。
さらに、畳みかけるように、黒曜事件の犠牲者の親族や、過激派の反AFプログラム組織によって、使用者を打倒するための戦争も起こされた。それを、最終的にインスラや軍隊に平定されたとはいえ、また多大の犠牲を出した事実が、鮮明に人々の心に残ることを防ぐことはできなかった。
黒曜事件と、黒曜事件の波紋とも言える戦争で、ついに人々に共通の認識を作り上げたのだ。
記憶が消えていく使用者は、人の姿をしている化け物だ、と。
使用者は、人々に人間だと定義してもらえず、世間から取り残されたのだ。
それでも、今までのように生きていこうと思うから、外に行く使用者は皆、できるだけ自分が使用者であることを隠しているのだ。インスラの学校の制服ではなく、私服を着るのもその一つ。
……なのだが、AF能力を公衆の前に使ってしまったら、そんな偽装も意味をなさない。
「……バカが」
トラックと衝突しそうな子供を助けるためとはいえ、ここでAF能力を使うのはまずかった。
確かに、風での高速移動なら、ブレーキの掛けられたトラックを上回るスピードぐらいは出せるだろう。
実際、神谷はほぼ銃弾のように、一瞬でこっち側から交差点の向こうに飛んでいった。その小さな腕の中に、さらに小さな女の子の姿が見える。
一秒未満の救出劇。それが終わったことで、ようやく止まっていた時間が再度流れ始めた。
向こうで赤信号を待っていた人々は、自然と神谷を中心に散開し、一つの輪を作った。ほぼ同時、信号が緑になり、通行の許可を示す。
が、それに反応するものは誰一人としてもいなかった。皆はそろって不思議な目で神谷を眺めている。
一人だけ除いて。
「優衣! だ、大丈夫⁉」
女の子の名前は優衣らしい。さっきまで近くにいた母親が転びそうな足取りで神谷のもとへと駆け寄って、慌てて女の子を抱きしめる。
「ママ?」
母親の震える腕の中で、何が起こったのかさっぱり分かっていない様子で、優衣という女の子瞬きを繰り返す。
その光景を眺めながら、神谷はほっとしたようで、優しい微笑みを浮かべた。
「これだから中学生は……」
乱暴に後ろ頭を掻いて、冬戸は事が大きくなる前に、ここから神谷を連れていこうと、神谷を囲んだ人溜まりに足を向けた。しかし……もう遅かった。
「あ、そ……あの……ありがと……ござい、ます……」
一応娘の命の恩人だから、母親はちゃんと礼を言ったのだが、顔には怯え切った表情を浮かべていて、ついでに、娘を守るように女の子を神谷から遠ざけては背後に隠す。
その複雑な視線や警戒をあらわにした様子を目にして、神谷は一瞬そのきれいな海色の目を見開いたが、すぐ落ち込んだように俯いてしまった。
(なにのんびりしてる……!)
「な、なんで使用者がここにいんだよ……っ!」
そんな声が人溜まりから上がったのは、冬戸がすぐその場から離れない神谷にイラつくのとほぼ同時だった。
「で、出てくるんじゃねぇよ! 俺――俺の母さんがお前らのせいで死んだんだぞ!」
「ここはてめぇらが来ていい場所じゃねぇ。化け物!」
「やだ、なんでこんなのが出てきたの? 政府が何してるのよ……!」
人溜まりを縫うように進んで抜けると、大勢の一般人に囲まれた神谷がぽつんと立っている姿が目に入る。罵声を浴びる彼女は、いつもの強気と反して、ただの無力な女の子にしか見えない。
神谷の体を包む、軽やかな白と水色をした、初夏の雰囲気を醸し出すふわふわしたワンピースも、この状況の中でそのかわいさが逆に皮肉のように思えた。
「使用者なんて、死ねよ!」
とうとうただの罵倒になった声が周囲から神谷に注ぎ、人溜まりから缶やペットボトルが投げられてきた。
まだ中身が残っているそれらが俯いた神谷の顔にぶつかり、こぼした中身が栗色の髪が濡らす。幼さの残った頬にドリンクがついてしまって、地面に落ちった缶やペットボトルからこぼした牛乳が塵を混ざって、白のサンダルにべたべたした白を残す。
「銃弾を風で防げるじゃなかったのか」
「……ほっといてよ」
素っ気なく言い放つと、神谷が顔を逸らし、聞き逃しそうになる声をこぼす。
「あいにく俺はお前と違って、優しい人間でね。ほっとくわけにはいかない」
俯いた顔に手を伸ばし、袖で神谷の濡れた髪や顔を拭い、ついでに、また投げられてきた食べ物をキャッチしては背後にポイと捨てる。
「ほら、帰るぞ。仕事は済んだだろう」
「……うん」
調子狂うほど弱々しい声をこぼし、力なくうなずく。
ちゃんとついてきているのを確認して、冬戸も人溜まりに向かって歩き出すが……そこにいる人たちは譲る気なんて微塵もない。怯える顔をしているのに、そこはどうしてもどういてくれなさそうだ。
理解できなくもない。使用者は怯えられる以前に、憎まれているのだ。仇を目の前にして、それもインスラの開放時ではないときに出てきたという、ルール違反の行為をした使用者を見れば、人が何を考えるのか、冬戸は嫌なほど知っている。
「はぁ、めんどくさい……」
「に、逃げるつもりかよ! この……化け物どもめ!」
「あーはいはい、じゃあ侮辱罪で逮捕ね」
「えっ」
指さして大声を上げてきた男に、冬戸は独立官手帳を見せて、適当に言うとその男の手首を掴んだ。
「な、なにするんだよ! 本当のことい、言っただけだろうが……ッ! た、助けてくれ……ッ! ばば、化け物が!」
「黙れ、うるせぇぞ。それとそこのお前ら、退いてもらおうか」
捕まった男の手を背後に回し、前に押しながら進路を阻む人の壁に声をかける。
「ふ、ふざけるな! おお、お前らが悪いんだぞ! か、勝手に出てきやがって……ッ!」
「け、警察呼ぶわ」
「おおおお俺の友達はお前らに殺されたんだぞ! なな、何偉そうにしていやがるんだよ……ッ!」
案の定、簡単には道を譲ってもらえないので、皆が見えるように独立官手帳を示してから、ため息とともに宣言する。
「退かないやつは自由妨害で現行犯逮捕。できないと思うのはお前らの勝手だが、一つ忠告しておこう」
ここでいったん言葉を切って、間をおいてから、すっと顔を上げる。
やや顎を上に向ける様子で、何の感情もこもっていない、真っ黒な瞳でさっき口を開いたやつらを一人一人と見下ろす。
「化け物の力を甘く見るな。今、お前らの前に立っているものは何者かを、それとそれの意味することを思い出せ。――それでも立ちふさがる人なら、俺の前を退かないことだ」
あえて挑発的な言い方で威嚇すると、今度は声がちゃんと届いたようで、恐怖心がようやく憎悪を上回り、人溜まりに道ができ始めた。
ひそひそと罵倒が伝わってくる、一人しか通れない細い道なのだが、ここから離れる道だ。冬戸は顔色も変えずにそこを進んでいく。
すると、後ろから声が掛けられた。
群衆のものじゃない。聞き慣れた鈴を転がすような声音だ。弱ってるからだろう、今度はちゃんときれいな音色を台無しにせずに済む。
「あ、あんたなにを――」
「見ての通り、お前がやらかしたことの後始末だ」
「あたしは……、で、でも……っ!」
「でもなんだ。これ以上そこにいると、もっとめんどくさいことになるぞ」
人溜まりから出て、小走りで隣に来た神谷に言う。
それから、つまらないものを見る目で、連行してきた男を見下ろす。
「あ、あとお前、別に逮捕できないわけじゃないが、交番に行くのも面倒だ。適当にそこらへんに逃げとけ」
ついでに捕まえていた男から手を離し、悲鳴を上げながら逃げていくのを見送りもせず、今も何か言いたげな神谷に目を落とす。
「あ、あんた、その……ありがとうって言いたいんだけど、そのやり方、あまりよくない……と思う」
「じゃあいいやり方を教えろ。尻拭ってやったんだから、もっと感謝してもいいと思うが」
「う……」
こればかりは返す言葉もなく、神谷はバツが悪そうに眼を逸らす。が、それでもなんとか声を絞り出した。
「その……わかんないけど、あんなに脅かしちゃったら……その、使用者のイメージが悪くなるじゃない。……ほかのやり方はないけど、それだけは……」
「ああ、なるほど。そういうことか」
ぶつぶつと言いながら、必死に自分の思考をまとめようとする神谷を見て、冬戸は思わずそのあまりにもめでたい考え方に失笑する。
だから苦手なんだ。希望を、夢を臆もせずに見つめる人、自分に真っ直ぐな人は。
そんなものは往々にして、前を見つめすぎて、隣も後ろも見えなくなってくる。
「え? な、なによ、そういうことかって」
「お前が心配しているのはそんなことなら、その必要はない。ついでに言うと、あの場で暴力を行使しても、使用者のイメージは悪くならない」
「な、なんでよ! どう考えても悪くなるじゃない……ッ!」
「お前、追っている犯罪者に襲われたら、犯罪者へのイメージが悪くなるのか」
「は……は?」
あまりにも予想外の返事に、神谷は落ち込むのも忘れたかのように、小さな犬歯をむいて声を上げた。その少し普段通りに戻った態度に、冬戸はただ小さく肩をすくめて見せる。
「意味分からない? だろうな。それと同じことだ」
「だからなんでよ!」
「なんでってそりゃ」
なるほど、特殊官四位という大層な肩書を持っていても、インスラに入るときはまだ小学生だった神谷が分かるはずもないか。
そう思うと、口元は無自覚にも、ひどく歪んだ笑みが浮かんでしまった。
それは、これから言い出す言葉に、神谷がするであろう怒りや驚きの混ざった悲痛な顔に向けた嘲笑ではなく、ただ、自分が言おうとしていることを、いつの間にか常識だと思ってしまったことへの自嘲だ。
「使用者のイメージは、もう悪くなれないほど最悪だからだ」
その日、二人がインスラに戻る道中で、一度も言葉を交わすことがなかった。
そして同じ日の夜で、九人目と十人目の犠牲者が出てしまった。
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