第三章 取り残された者達 2

 インスラの規定では、住民たちは外に行くのに、正当な理由で申請し、許可を得なければならない。そして、審査の内容は不可能に近いと言われるほど厳しい。通らせないためのものと言っても過言ではない。

 それに、たとえ申請が通ったとしても、独立都市を囲む鋼鉄の壁を通る際、もう一度審査を受けなければならない。

 外の景色を覗ける扉で、通った申請の資料をもう一度提出し、極力申請を却下したいという考えが見え見えの質問を浴びられてから、ようやく外出許可証がもらえるのだ。インスラは……ひいては政府は、どれだけ使用者を籠の外に出したくないのかが肌で感じられる。

 おまけに、インスラを出てからも、指定の乗り物に乗って、運転手という名の監視官と一緒に行動しなければならない。

 一応、街に着くと自由行動はできるが、指定された時間で、指定された場所に戻らなければならない。街での行動も、申請のときに言った外出理由と異なると認められたら、即インスラへと連れ戻され、これからの許可を制限される。

 毎度のことだが、外出手続きをやっていると、自分が厳重に監視、管理されているのが嫌なほど実感できる。

 インスラへと続く人気の少ない道を車で走ると三十分ぐらいがかかる。それほど長くないのだが、手続きの時間と合わせれば、三時間ぐらいはかかる。

 だから、朝出発のはずなのに、一番近くにある埼玉に着いたごろは、すでに正午になっていた。

 インスラの高く聳える鋼鉄の壁が小さく見えるところに到着し、運転手が車を走らせているうちに、冬戸が手にした書類をぺらっとめくる。文字や図表に埋まれた紙面を、眩しい日差しが差し込んでくる。

 無意味の手続きに費やした時間を有効に活用しようと、神谷に渡されたものだ。

 なんでも、今日行く予定の場所の情報らしい。内容は主に、棺運び事件が起きた時点を参考にして調べた、インスラとかかわりのある会社の情報だ。

 書かれているものは実に多種多様。業務用食材を扱う会社から、家具を扱う会社、衣類を扱う商店から、建材を扱う会社まである。よくよく見ると、運送会社の車もインスラによく入ってくる。

 この書類にある、インスラと関わる会社を、神谷は今日一日で全部回るつもりらしい。インスラと関係する会社は、中央部に指定されていて、一種の商品につき一つの会社しかないのはいいが、それでも数が多すぎる。

 これからのスケジュールを考えるだけで、やる気が失っていく。けど、神谷はまったく逆な状態にいるようで、書類を見つめる海色の目には、今日もきれいなままで、強い心を如実に表している。

「ほら、早く読む! じゃないと時間が足りなくなっちゃう」

「外にいるって仮説出したのは一昨日だろう。よく一日でここまで情報を揃えたな」

「根岸に調べなさいって言ったら調べてくれたわ。あんたと違って、聞き分けのいい子だからね」

「……どう見てもお前のほうがちっちゃいのに、ずいぶんと上から目線だな」

「う、うるさい。警備部は独立官のサポート役でしょう。これぐらい当然の当然」

 ふんっと鼻を鳴らし、頬を膨らませた。根岸も冬戸も、神谷から見ればサポートしてくれて当たり前の存在らしい。

「まあいいか。やつもまんざらじゃなさそうだ。それより、まずはどこ行くんだ」

「そうね。まずはこれからでしょう」

 言いながら、その白くて細い指で冬戸が見せた紙面を指さす。

 業務用食材の会社。なるほど、インスラの飲食店に食材を提供する会社で、インスラが成立して以来ずっと往来がある。

 そして、インスラの人口は設立当初の六年前とはほぼ変わっていない。会社から運送してきた食材の量も大きく変動しないはずだ。そこに異常があればすぐ気づける。

「商品リストならインスラにもあるけど、現場に何かおかしいことがないかは直接聞くほうが速いね。それからはここに行って、そして……」

 と、適当に聞いたつもりだったが、驚くほど詳しい返事が返されてきた。

 本屋の仕入れ、インスラの中で、まだ建設が完了していない未開発区域のための建材を送ってくる会社、中央部や学校などの備品、ペットショップのペットや餌……

「インスラにペットショップなんてあったのか」

「知らないの? 第四区の中学にあるよ。あたしの学校から電車で十分のところだわ。あんたの高校から一番近いペットショップなら――」

「やけに詳しいな」

「べ、別に、独立官ならインスラの地理ぐらい把握しないといけないだけよ」

 頬を赤く染めて、どこか拗ねてそっぽ向いた。

 しかし、こうしてみると、独立都市と言っても、住民の使用者以外は割と自由に出入りしているな。設立してから十年、今から数えればあと四年後は完全に自立する都市にする予定だと、どこかで聞いたことがあるが、今はまだ外との繋がりを切っていないらしい。

 使用者を閉じ込めるために、五割ぐらいしかできていない上極で、町を運営し始めたんだから、ある意味当然だと思うところもあるが。

 と、神谷がそっぽを向いたから、代わりに視界に入ってきた神谷の後ろ頭を見て、呆然と思う。すると、神谷が急にさらさらした栗色の髪を揺らし、不機嫌そうに睨んできた。

「で、お金があまりないけど、どうやってそこ行くの?」

「お前お金持ってないかよ……予想できないわけでもないが」

「な、なによそれ!」

「でも、俺も持ってないぞ。どうする? すぐ帰るか?」

「は? あんたの持ってないなら偉そうにしないで! で、でもまずいわね……お金がないと移動手段が……AF能力使うわけにもいかないし……」

 むむむっと唸ると、何かアイデアが浮かんできたのか、あっと人差し指を立ててきた。

「独立官手帳を見せればただで乗れる!」

「すまん、実はお金持ってんだからやめてくれ」




 夕暮れ時、冬戸と神谷二人が電車から出て、人混みをどうにか切り抜けると、駅を出てずいぶんとぬるくなった日差しの中に戻る。

 冬戸は依頼のために、ときどき外に来るから、移動にそれなり金がかかることを知っている。だから、寮に着替えに戻ったとき、ついでに交通費用も持ってきた。

 とはいえ、いくら独立官は依頼一つを達成するだけで高額の報酬は受け取れるといっても、限度というものがあるのだ。

 午前がずっとタクシーで移動していると、持ってきた金があっさりと半分以上なくなり、仕方なく、午後は電車での移動に切り替わった。

 そして、ようやく神谷の回りたい会社を一通り回ることに成功したところ、時間はすでに夜に差し掛かり、すぐにでも監視官と合流しなければならないところだった。

 とはいえ、今日の成果といえば、冬戸の数少ない知り合いである千葉が外から音楽アルバムを購入したという、ネットワークは外のと違う回線を使っているインスラでは、独立官以外なら不可能なはずの壮挙を成し遂げたことと、根岸が毎週、必ず果物を仕入れることぐらいだ。

 なんだか知りたくもないプライベートなことを知ってしまったのに、肝心な棺運びの情報は一切得られなかったありさまだ。

「なにもなかったなんて……」

 夕焼けに染まる道をぽつぽつ歩きながら、神谷が言葉をこぼす。

「そうだな。世界は今日も平和に回ってる。よかったじゃないか」

「全っ然よくない。これじゃ今日は無駄になったも同然じゃない」

 何やら悔しそうにうううっと頭を抱える神谷を一瞥して、冬戸が軽くあくびを漏らす。それから、子供を見守るような微笑みを含んだ優しい眼差しを神谷に向ける。

「な、なによ」

「そう悔しがるな。一日が無駄になったって、お前にとっちゃいつものことだろう」

「いつものことじゃないし! あんたなんかよりずっと充実してるしっ!」

「それに、少なくとも、棺運びは外にいないって確認できただろう」

「話を逸らすのね! 最低! やっぱりあんた最低だわ! ……。……で、でも……そうね。成果がないわけじゃないよね」

「ま、手掛かりをうまく消して、俺たちに見つからないだけって可能性も捨てられないが」

「ぐ……」

「それに、街もインスラも捜査済みなのに、いないってのが結論だ。だが、実際事件が起きてる以上、棺運びはいる。つまり、今日の成果は逆に言えば、今までの捜査は無駄だって証明したことになる。やったな、神谷、手柄だぞ」

「……ね。……もしかしてと思うけど、あんた……喧嘩売ってんの……?」

 早くも我慢の限界を迎えたのか、神谷は足を止めて、肩をぷるぷると震わせる。少しだけ俯いて、海色の目で睨んでくる。爆発寸前のようだ。

「まさか。お前が落ち込みそうになってるから、そのうつうつした気分を怒りに変えてやってるだけだ。知ってるか、人間の持ち合わせる感情の中、一番積極的なものは怒りだ。悔しむよりずっといい」

「そ、そうなの?」

 肩をすくめて言うと、神谷はきょとんと小首を傾げてきたので、追加の情報もついでに教えることにする。

「それと、ここ数日振り回された俺の八つ当たりもかねて」

「やっぱりただバカにしてるじゃない!」

 ついに堪忍袋の緒が切れたのか、神谷は叫ぶと同時に、小さな拳を冬戸の顔面めがけて放った。

 だが、拳骨は目標に当たらず、軽く躱されてから手の甲を押さえられ、ゴミを捨てるかのように横へと流された。

「あ……ちょっ」

 慌ててバランスを保とうと手を動かし、奇妙な動きでバタバタ動く。それでようやく転ぶのを防いだ。

「前から聞きたいんだけど、なによ、その技」

「練習すれば誰でもできる、護身術みたいなものだ」

「誰でもできるものに、あたしがやられるわけないでしょう!」

「お前、その自信どこから来たんだ? 例えば、銃を引くぐらい誰でもできるが、カエルをつぶすみたいな感じでお前をやれる」

「銃弾ぐらい風で防げるわよ」

 防げるのか。

 と、心の中でちょっとびっくりしたが、顔には出さずに言葉を続ける。

「つまり、お前が簡単に遊ばれるのはお前のせいだ。AF能力は強力だが、動きは素人。そんなんじゃ、本当の犯罪者には太刀打ちできないぞ」

「それは――、―――っ! ――の、能力でカバーできるじゃない!」

「そうだな。カバーできるな。まあ頑張れ」

 顔を赤らめ必死に言い返した神谷に、諦めたかのように、手を軽く振ってため息交じりに返す。

 羞恥にかられて、神谷が犬歯をあらわにして、何かを言おうと、口を開けたり閉じたりと忙しくしている。声がなかなか出てこなかったので、何が言いたいのかまでは分からないが、この様子を見たら一応自覚はあるらしい、。

 犬歯を向いて冬戸に何かを言おうとしている状態のまま、足だけがちゃんと前へと進んでいる様子は、自動操作のロボットのようだ。

 ふと、冬戸が立ち止まった。

 同時に、その陶器人形みたいなロボットの襟を掴んで、神谷の自動前進を止める。

「――っ! な、なにすんのよ……!」

「頭がショートした子供が赤信号を渡る前に、首根っこを掴んで引き止めてる」

「赤信号?」

 眉を寄せた神谷に顎で前方の信号灯を示す。これでようやく自分が交差点の前にいることに気づいた。白い頬がみるみるうちに赤く染まっていく。

「……言われなくても知ってたし」

「知っていても足を止めないってことは、一度車に轢かれたいってことか。邪魔して悪かった」

「……車ぐらい風で防げるし」

 拗ねるようにふんっとそっぽを向きながら、なんだかとてつもないことを口走った。

 視線を逸らした先に、信号を待っている親子がいた。人混みの中で、なぜかその二人だけがフラッシュライトが当たったかのように鮮明に見える。

 独立都市インスラの外では、ごく日常的な光景だ。母が女の子の手を優しく引いて、二人で楽しそうにお喋りしている。女の子のちっちゃい手が赤い風船を持っているところからみて、遊園地にでも行っただろう。今はその帰りのようだ。

「………」

 それだけの光景なのに、母が女の子に笑いかけるのを見るだけで、神谷の胸あたりにチクッと刺されたような痛みが走る。

 小さな体が、しゅんと空気の漏れた風船みたいに小さくなる。

「辛いなら見なくていいだろう」

「……別に、辛くないし」

 小声でこぼしたが、声はセリフとは裏腹に正直なようで、弱々しく聞こえる。

 いくら特殊官の四位という肩書があろうと、こういうところはやはり普通の使用者と変わらないだな、と冬戸が密かに思う。

 六年前のあの事件から、世間から忌避されるAFプログラムをダウンロードした使用者達は、家族から隔離され、鳥かごであるインスラに閉じ込められた。

 ネットワークは独立した回線を使うから、メールか電話で家族と連絡を取ることすら許されない。手紙は出せるが、使用者は人によって、親戚や知人と連絡を取ることさえ気まずさを感じる人もいる。

 記憶喪失というAFプログラムの副作用で、皆に恐れられているのだ。

 記憶がなくなって、感情もなくなるじゃないか、

 過去を知らないやつなんて私の知るあの人んじゃない、

 過去を覚えない人間なんて、感情も一緒に忘れる恐れがあり、社会の安全に影響を及ぼす可能性があるでは……

 という一方的な誤解のせいで、使用者は皆、人間じゃなくなった何かだと認識されている。

 悲しいことに、これらの誤解の証左となる事件は、六年前に起きてしまった。

 都市一つを丸ごと消した大規模破壊事件だ。その発生は実に一瞬。一秒にも満たぬ瞬間に、都市一つが消滅されたという事実に、民衆が怯えないはずがない。

 しかし、この事実に今さらどうこう言ったところで、何かが変わるはずもないし、誰も自分の考えを変えるつもりがないだろう。

 だから、冬戸は考えないことにした。代わりに、流し目で俯く神谷を一瞥した。

「落ち込んでも慰めてやらないぞ。帰ったらとりあえず三日ぐらい引きこもって冷静になれ。その間に仕事はなしだ」

「……落ち込んでないし。仕事もサボらせない」

 唇を尖らせて小声で呟く。

 そんな神谷にまた何かを言おうとしたが、ふと、風が吹いてきた。目に砂が入らないように少しだけ首を動かすと、視線が神谷と同じ方向に向いてしまう。

 視線の先に、さっきの親子の姿が映る。ちょうど、女の子が持っていた風船が手を離れ、風に飛ばされたところだった。

 風船を掴めようと、女の子は母の手を離し、とことこと小走りで風船を追って、道の方向に走り出し……車の往来する中に飛び出してしまった。

 車の駆動音に埋まれた道に入った女の子の背中に、母親が慌てて手を伸ばし、止めようとした。が、少し遅い。その手が女の子に届かなかった。

 それから、冬戸の感官が捕らえた情報が一気に増えた。

 風船が手の届かないところに飛ばされるのを見て、女の子がこぼした悔しそうな声。女の子を避けようと、トラックから発したおびただしいブレーキ音。

 人々の驚愕の声や悲鳴、女の子の母親の懇願に近い叫び。

 ああ、こりゃ事故だな、と思ったその瞬間。

 冬戸の隣に、五感が捉えた全部の情報を圧倒する衝撃が伝わってきた。

「――っ! な――っ」

 驚いて振り向くが、すでに遅かった。視線の先にいるはずの神谷が、爆ぜた風の余波だけ残して、女の子に突っ込んでいったのだ。

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