第一章 風の少女 1
『昨日の夕方に起こった強盗事件、同日の深夜で犯人を逮捕しました。それに伴って、犯人は違法の空気鍛造プログラムをダウンロードした
独立官だけが繋ぐ権限を与えられる、外のネットにアクセスできる特殊の回線を使って、ラジオでニュースでも聞こうと思うと、最初に耳に飛び込んできたのはすでに知っていることだった。
『
適当に洗濯機に置いたスマホから、事件とあまり関係のない方向へと進んでいくニュースの内容が、感情のこもっていない事務的な声で並べられる。歯を磨いていなかったら、思わずため息をこぼしたところだろう。
昨日、冬戸は今月の生活費をなんとかしようと依頼を受け、外まで行って犯罪者を捕まった。犯罪なんて基本毎日どこかで起こっているものだから、本来なら、別段騒ぐことじゃないのだが、昨日のあれは不幸にも、AFプログラムに関与したものだった。
そのせいで、事件は早朝からニュースに報道され、ついでに、AFプログラムについても講釈を垂らされた。
別にダウンロードしたのは何年も前のことだから、今更何を言われようと気にしないし、
『また、第一次AF戦争の次に、六年前に発生した大規模テロ事件「黒曜事件」の追悼式も、来月の日曜日に行われる予定です。かつて多くの人に消えない心の傷を与えたその事件は、今も多くの人に空気鍛造プログラムの危険性を訴えております。追悼式に向けて、小学生たちが追悼キャンドルの製作に……』
たぶん終わるまでずっとAFプログラムについて語るだろうと思い、冬戸は歯磨きを終えると、ラジオを消すことにした。顔を洗ってからリビングに戻り、上着を脱いで制服に着替える。
そうするだけで、別に見ようと思っていないのに、ベランダから外の景色が勝手に視界に入ってきた。十階のここでは、遠くに聳えている鋼鉄の壁が空の下半分を遮る光景がはっきりと見えてくる。
この街に住んでいれば嫌でも視界に入ってくる、頑丈な鋼鉄の壁。それが、冬戸たち使用者を外から隔離するのだ。
独立都市インスラ。ラテン語では島を意味した、この独立都市の性質を完璧に表現している名称だ。陸の孤島という名にふさわしく、関東地方の近くに設立されているにもかかわらず、住人である使用者は基本、自由を制限されているのだ。
全日本の使用者たちが政策によって、インスラに移住するのは六年前。その間、毎年の年末以外は外出を許されず、ここにいることを強要されてきた。
別に生活に何か不足しているわけじゃない。内部は施設も資源も完備していて、環境も外より遥かに優れているから、むしろ暮らしやすいと言える。十二個の区画もあるここは、約十万の人口を収めるのには十分すぎる。
加えて、小学校から大学まで、教育制度も完備しているうえ、卒業してからのインスラでの就職も保証される。これらだけ見れば、模範都市といっても過言ではないだろう。
とはいえ、どれだけ優れた環境を持っていても、ここにいる使用者たちは皆知っている。
ここはあくまで、世間が忘れたいと思っているものたちを閉じこんだ、優しい優しい、巨大な監獄だけだ。
「これでいいか」
着替えを終え、デスクの隣に置いていたカバンを手にして、玄関まで来ると、冬戸は少し眉を寄せて難しそうな顔を作る。
冬戸が今身に着けているのは、このインスラ第三区にある高校の制服だ。一応高校生だから、制服を着ていてもおかしいことじゃないが、独立官の権限を使って、二か月も登校していないのだ。学校に行くのに、こうやって適当に制服を着るだけでいいのか、少し思い出す時間が必要だった。
「ま、別にどうでもいいか」
自分の姿を見て、三秒ぐらい悩むと、思考を諦め靴を履き外に出た。
すると、一機の
定期的に巡回している個体だろう。輪の形をしたライトが青とのところを見れば、この高校の第二男子寮は今日も平和のようだ。とはいえ、学生寮にもAPOを配置するとは、いかにもインスラらしい。
そんなインスラの歪さを体現する光景を視界の外にやりながら、廊下を歩いていく。
エレベーターに乗り、ロビーに出ると、そこには待ち合わせをしている生徒が大勢いた。何やら騒いでいる。朝っぱらからなぜあんなに元気にお喋りできるだろうか。未だ冬戸にとって解明できない世界の謎の一つだ。
とはいえ、別に解明したいとも思わないので、ソファに座って談笑している生徒を無視して、このまま寮を出ることにした。
「あ、冬戸くんだ。おはよう」
すると、入り口の傍から、春の日差しのような柔らかい声に呼ばれた。
聞くだけで癒されそうになる声に振り向くと、胸元で小さく手を振ってくる少女が視界に入る。
昨日学校に行くとメールしたから、迎えに来たのだろう。相変わらず他人のこととなるとやけに行動力のある人だ。
「わざわざ迎えに来なくてもいいじゃねぇの。待っただろう」
「ううん、私もさっき来たとこ」
冬戸が足を止めずに言葉を投げると、琴葉が小さく首を振って、両手でカバンを持ち直し後ろについてきた。
その背中から、「な、結局あの人を待ってたらしいよ」「うわー、マジかー。ってか、見たことない顔だな。あんなにかわいい子を半時間も待たせるなんて、ひでぇ」、という会話が聞こえてきた。
「琴葉、俺、女子を半時間も待たせるひどい野郎らしいよ」
「ほ、ほかの人のことを言ってるんじゃないかな」
嘘が音速でバレて、琴葉は視線を冬戸から地面へと逸らし、上ずった声を出した。
慌てるのを必死に誤魔化そうと頑張っているようだが、残念ながらバレバレだ。
「かわいい子って言ってなかった? お前のことだろう。自信持て」
「え? そんな、かわいいなんて……ちょっと照れるかな、てへへ」
「ああ、ひでぇやつだと言われて、すぐ自分のことだと分かった俺に倣って自信持て」
「ご、ごめんなさい……っ!」
適当に言うと、琴葉は顔から血の気を引かせ、勢いよく頭を下げてきた。小さな背中にかかった黒髪が視界に入る。
どうやって手入れをしているだろうか、琴葉の体の曲線を完璧に強調した制服にかかった髪は、相変わらず絹のようで、柔和で人を落ち着かせる黒をしている。おとなしくてバカみたいに優しい琴葉にはよく似合う。
「いや、別に謝らなくてもいいから。適当に言っただけだ」
「ほ、本当?」
提げた頭を少しだけ持ち上げ、顔だけを冬戸に向けてくる。
火を想起させる真紅の目は、その攻撃的な色とは裏腹に、涙目になっている。
「嘘はつかないんでね。それに、そろそろ行かないとまずいだろう。それとも一緒に遅刻するか。俺は別にいいけど」
「もう、冬戸くんのいじわる」
言い残しては琴葉を待たずに歩き出す冬戸の後ろに、琴葉は小走りでついてきた。
ちょっとだけ頬を膨らませて、上目遣いで目を向けてきている。睨んでいるつもりかもしれないが、遊んでくれないご主人様に目を向ける犬にしか見えない。
おまけに視線を感じて見つめ返すと、すぐ顔を赤くして視線を逸らす。
それでも冬戸の視線が気になるのか、ふんわりとした前髪を梳かしたり、髪を耳にかけたりしてから、チラッと見てくる。視線が合うと、また素早く顔を逸らす。
(……忙しい奴だ)
こういうところは、昔とまったく変わらない。知り合ったのは中学のときだから、少しだけ成長してもいいとは思うが。
いや、実際、成長はしている。性格ではなく、外見の話だが。
そう思いながら、隣を歩く琴葉を一瞥する。
黒いブレザーに赤いリボン、白いブラウスに短いスカートという、ごくありふれたデザインの制服を身にまとうだけで、周囲の視線を集めてしまうほど、琴葉は芸術品みたいな美人だ。
腰が細く、スカートから伸びた脚はすらりと長い。おまけに胸が体のバランスを考査してから成長したかと思うほど、ちょうどいいバランスをしている。各々の魅力ではなく、集合的な魅力を見せつけてくる。
今は独立都市の風紀委員の副会長をやっているが、正直、ときどき広告に出てくる都市のイメージアップ大使をやったほうが活躍できると思う。
「そういや」
風紀委員のことを思うと、ふと今日登校する理由を思い出す。
「うん?」
「先週言った資料、持ってるか」
「資料?」
冬戸の言葉に、目をパチパチさせ、きょとんと小首を傾げてきた。
「……まさかと思うが、忘れたのか。さすが琴葉」
「てへへ、別に大したことじゃ――って、なんか思いっきりバカにされた気がするんだけど!」
「バカにしてるからな」
「もう」
不満げに唇を尖らせて、軽く肩をぶつけてきた。身長差もあって、小さな肩が腕にぶつかり、制服越しに柔らかい感触が鮮明に伝わってくる。
「私、ちゃんと覚えてるよ。冬戸の頼み事だもん。でも、そういう資料は持ち出し禁止だから、校内の風紀委員室に行かないといけないんだ」
「つまり、読み終わる前に、俺は風紀委員室にいなきゃいけないってことか……ていうか、それなら、別にわざわざ迎えに来なくても」
「そ、それとこれは別ですっ」
「そんなもんか」
「そうだよ。それより、早く学校に行こう。せっかく冬戸くんが学校に来たんだから、今日ぐらい、ちゃんと楽しんでもいいと思うよ」
さっきの話を早く流そうと、琴葉は何かを考え付いたように人差し指を差し出して、はにかんだ笑顔でそう言ってきた。それから、冬戸の隣を歩くのをやめ、前へ一歩踏み出す。微妙な距離でリードしているような状態になった。
仕方なく追いつくが、心ではどうして琴葉の言葉を賛同できない。
楽しむ。……そんなこと、頑張ってやろうとしても、冬戸には到底できないことだ。
すぐそこに高校の校門が見えてきた。周りには、生徒たちが笑い合ったり騒いだり、偶然に会った知り合いにびっくりしたり、いかにも日常的な雰囲気を漂わせている。
それは、冬戸にとってはただの集団幻覚、インスラで暮らす使用者たちが、自分たちに見せる、ただの夢。
冬戸にとって、むしろ昨日インスラの外に行って、あの照明があるにもかかわらず、どこか薄暗く感じた駐車場で犯人を逮捕したとき、手や足、目や耳……すべての感覚器官が捉えた感じのほうが、よっぽど真実味がある。
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