第 七 章 6



「走ろうとしたんだね」


 声が震えてしまう。やっぱり駄目だ。泣き顔、晶に見せたくなかったんだけどなぁ。


 あの日、森屋のノートに、右足シフトの文字を見つけた瞬間、衝撃があたしの体を貫いた。それは森屋のクラッシュ写真を見た時に覚えた、違和感が消え失せる衝撃だった。


 あたしは震える心をどうにかなだめ、仕舞しまってあった写真を震える手で取り出し


 ――見た。


 右足シフトのパーツを見つけた瞬間、あぁ、と声がもれた。


 腑に落ちて、あまり腑に落ちて、どうにかなってしまいそうだった。


「あたしね、森屋に悪いことしたなって。4耐ね、出たかったけど、本気ってわけじゃなかった。怪我した後もさ、リハビリで頭が一杯で、自分のことばかりで、森屋を気にかけたことなんてなかった。あいついなくなっちゃったのに、一年も知らないままでさ。あたしひどいよね」


 そうしてやってきたのは、どうしようもなく胸にこみあげてくる、痛切な悲しみだった。森屋の想いを知って、その想いが失われたと本当の意味で理解して、悲しみが濁流のように押し寄せ、あたしは全身を震わせた。


 立っていられず、座ってすらいられず、畳に這いつくばってあたしは泣いた。


 声をあげて、吹き荒ぶ悲しみの嵐に耐えるように体を丸めて泣いた。


 雨のように止めどなく零れる涙を手で受け止めて、涙とはこんなにも流れるものなんだと、生まれて初めて知った。


 くる日になっても、涙は止まらなかった。


 森屋が座った椅子。森屋が使った工具。森屋が運転したトランポ。


 ほんの些細ほんのなことでも、その向こうに森屋を見つけてしまうと、堪えるなんてできなかった。あたしはそのたびに物陰に隠れ、声を殺して泣いた。


「ひどくねぇよ」


 その声に、あたしは横を向く。晶が口をきつく結び、涙を流していた。


「森屋の勝手でやってたことだろ。かっこつけてんじゃねぇよ。つーかよぉ!」


 晶は拳を自分の膝に叩きつける。


「死んでどうすんだよ。レーサーは、生きてこそだろ……」


 あぁ―― また、涙があふれてくる。


「……森屋、もっと走りたかったよね」


 夢が叶わなくたって、苦しいことがあったって、なにもかも投げ出したくなったって、生きていれば、生きてさえいれば、何度だってやり直せる。


 あたしは思うんだ。森屋ならレーサーの夢が叶わなくても、それを自分自身に怒りながら、ずぶとく新しい夢を見つけて邁進まいしんしたはずだって。


 それなのに、死んじゃうなんて、そんなのってない。取り返せないよ。


 ――森屋と走った、レースの日々。


 毎日眠くて、疲れっぱなしで、気合だけで乗り切っていた。数えきれないほどレースに出たのに、ポディウムに立てたことなんて指折り片手で足りてしまう。


 憧れていた世界は遥か彼方で、思い知った才能の違いを努力でカバーしようとして、いつのまにか忍び寄っていた現実を見て見ぬふりをして、あたしたちは走り続けた。


「会いたいなぁって、思っちゃうの」


 あたしは晶の腕を掴み、肩に額を押し付ける。


 惜しみなく情熱を注ぎ、普通に生きれば手に入るものを捨てた。すべてを懸けなければ、なにも手にすることはできない。その言葉の一切を肯定し、だからあたしたちは喜んで人生を懸けた。


 だって夢は叶う。プロレーサーとして世界中のサーキットを走れる。


 それがあたしと森屋の、ちぽっけでがむしゃらな、心からの信念だった。


「でも、会えないんだよね……」


 晶に頭を抱き寄せられ、あたしは晶の胸に顔を埋めた。



「あたしね――」



 どっしりした男の体に包み込まる。


 力が抜けてしまうようなやすらぎに、あたしは子供のように声を上げて泣いた。


 季節はめぐり、あたしたちは夢は叶わなくて。



 ――長くて、苦しかったなぁ。



 でもね、レースの日々を振り返って、あたしは心から断言できるよ。



 ――楽しかった!



 もっとやれた。もっとがんばれた。そういう後悔だってたくさんある。


 それでも歯を食いしばって懸命に走った、あたしたちの、ありのままの青春だった。


 なのに、青春をともにした、あいつはもういない。


 青春を分かち合える、あいつはもういない。



 ――森屋に会いたい。



 目を瞑り、森屋を想えば、あふれるようによみがえる。


 レースに挑む真剣な眼差しも、怒った顔も、眠そうな横顔も、ポディウムで見せた子供みたいな笑顔も、あたしにくれた、あのやすらぎも。



 ――森屋に伝えたい。



 あたし、夢を叶えたよ。自分のチームからプロレーサーを出したよ。




 森屋とレースして、楽しかったよ。










          終章へつづく。

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