終 章 1



「なんだ、これは」


 社長がテーブルに置かれた書類に目を落とし、低い声を出した。


「レーシングチームモトムラの、全日本ロードレース選手権、参戦計画書です」


 しばし無表情で計画書を見つめた後、続けろ、とあたしに目を向ける。


 いわおのようなプレッシャーに、あたしは唾をごくりと飲み込み、告げた。


「全日本に、チーム監督として参戦したいんです」


 あたしは怪我で引退を余儀なくされ、レーサーとして完全燃焼できなかった。途方くれながらも、家業を手伝い、レースに関わり続けることで溜飲を下げていた。


 なんて、しかたなく今の仕事をしているように聞こえがる、モトムラでの忙しい日々を、あたしはなんだかんだ気に入っていたんだ。


 将来に不安はあるけど、今日の仕事がある。なんだかんだ売上もたつ。ひとまず好きなことに関わり続けていられる。これを〝気に入っている〟と言わず、なんと言うんだ。


 レースをやる上で、あたしは恵まれてると自覚していたけど、レース抜きにしても、あたしは恵まれていた。


 これまで通りモトムラでの生活を続ければ、多少の不満や不安はあっても、心穏やかでいられる。


 不完全燃焼とはいっても、とりあえず燃えることはできた。残りの人生を、退屈かもしれないが心地良く過ごせる。そういう生き方も悪くないかもしれない。


 そこまで思い至りあたしは、ふっと笑ってしまった。


 あいつが聞いたら、今度こそ見損なわれるね。


 完全燃焼できなかった。それはつまり、燃え尽きたわけじゃない。


 レーサーは引退した。でも退したわけじゃない。


 悠真が夢を掴んだあのレースで、あたしの心に完全に火がついた。走りたいという情熱が腹の底から沸き上がってくる。日和ひよるには早過ぎる。チャレンジしたい。あの達成感をもっともっと味わいたい。


 そうして打ち立てた新たな目標が、日本最高峰のバイクレース、全日本ロードレース選手権にチーム監督として参戦することだった。


 目指すは世界、MotoGP!とは、もう言えなかった。


 あたしは自分という人間を知った。今のあたしじゃ力不足だとすぐに知れた。あたしの精一杯を尽くせば狙えるターゲット。それが全日本選手権だったんだ。


 狙えると言っても全日本のハードルは見上げるほど高い。世知辛い話だが、とにもかくにもお金がかかる。予算を弾いたら、500万をあっさりと超えてしまった。


 そもそもレース屋が全日本に参戦する意義は宣伝だ。ろくな成績を残せなかったら大枚をはたいただけで終わる。そうなったらモトムラが傾くなんてことになりかねない。


 もちろん、そうはならない計画になっている。


 参戦資金だってあたしの貯金をはたいて、足りない分はスポンサーをかき集める。モトムラのお金を使うつもりは毛頭ない。それでもモトムラの事業としてやるは確かで、モトムラモータースの売上を現状維持するのが前提になっている。現状維持なんて認識自体、甘いかもしれない。


 正直に言うと、怖気づきそうになった。


 あたしは、前だけを見て突っ走る季節を、もうやり過ごしてしまった。


 全日本に挑戦する。それは正真正銘のリスクを自らの意志で取る、ということだった。


 あたしの目の前で、道が二つ分かれていた。人生の岐路ってやつだ。そして気付く。あたしには選択肢がある。自分は恵まれていると、本当の意味で理解したのはこの時だ。


「以上が、全日本参戦計画の概要です」


 説明を終え、計画書に目を落としたまま、あたしは続ける。





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