第 七 章 5



「右足……シフト?」


 ページのすみっこに、そう書かれている。その文字だけインクの色味があきらかに違う。後からとわかる。


 右足シフト。本来左足でするシフトチェンジを、右側にもシフトペダルを設け、右足でできるようにする、左足に障害があるレーサーのための特殊装備。


「これ見て」


 あたしは携帯を取り出し、一枚の写真を画面に表示させる。


「これ、俺が手に入れた、森屋のクラッシュ写真だろ?」


「そう。ここ、シフトスピンドルのあたり」


 あたしはCBRの腹下あたりをズームアップさせる。


「なんだこれ? こんなパーツ、CBRにねえぞ」


「さすが晶。調べたんだけどね、これ、右足シフトのリンクロッドなの」


 森屋のCBRには、右足シフトが装備されている。


 大破したフロントばかりに気を取られていたというのもあるが、そうと知らされていなければ、この写真から、右足シフトの存在に気付くことは難しいと思う。


 なぜなら、森屋のCBRは横倒しにされているからだ。右足シフトを機能させるためのリンクロッドなどは、エンジン下部と右側に集中していて、しかも元からある左のシフトレバーは変わらず装備されている。左側から見るとノーマルのCBRとほぼ変わらない。


 もし、右側を上にして横倒しにされていたら、本来あるはずのないシフトペダルを見つけて、あたしはすぐに右足シフトの存在に、に気がついただろう。


 ――そう。


 森屋は左足に障害があるあたしのために、右足シフトが装備されたCBRを用意していた。クラッシュしたあの日、おそらく森屋は右足シフトの稼働テストをしていたんだ。


「それじゃあ、森屋は……」


 目を丸くした晶に、あたしは頷いて返す。


 自殺どころか、命を落とすその日も、4耐に出るためにすべきことを、森屋は続けていたんだ。


「あいつひどくない? あたし左足が駄目になったから引退したのにさ、お構いなしで走れっていうんでしょ?」


「レースになると鬼になる、あいつらしいじゃん」


「鬼どころじゃないよ。閻魔様だよ」


 レースの閻魔様か。晶がつぶやいて、噛みしめるような笑みを浮かべる。


「ひとつだけわからないのがさ、このノート、あたしが入院している間にCBRの中に忍び込ませたと思うんだけど、なんでCBRなんだろう。4耐にでるバイクにってことなんだろうけど……」


「たぶん、海を驚かせて、喜ばせたかったんだよ」


「あたしを?」


 晶は頷いて、


「あいつ好きだったじゃん。そういう、サプライズっていうの? 海は引退するって、それなりに落ち込んでた訳だろ。そんな海にさ、CBRからノートを取り出して参戦計画を披露して、そんでこう言うんだよ。その程度の怪我で引退なんてほざいてんじゃねえ。MotoGPレーサーは骨折したままレースに出る!って」


「言う! それ森屋絶対言う。っていうかちょっと待って、それであたしが喜ぶことになっちゃうの!?」


「なるだろ、相手はレースの閻魔様だぞ」


 晶はあたしを覗きこむように言って、あたしは手をパンと叩いて笑う。


「なんか晶って、森屋のこと、結構わかってるよね」


 森屋は自殺なんかしないと、最初から言っていたのも晶だけだ。


「わかんねぇよ……。わかんねぇけど、森屋が海を、どんなふうに思っていたかはわかる」


「あたしをどんなふうに?」


「おまえ、俺と森屋が仲悪かったの、レースのライバルだからってだけだと思ってるだろ」


 その言葉が意味が、木の葉を伝う雫のようにあたしの胸に落ちて、ゆっくり沁みていく。



「……………………そっか」



 あたしは目頭を指でぐっと押さえ、背中を丸くする。


「森屋は、海に感謝してたと思うし、海を喜ばせたいって気持ちが、自然とあったんだよ……。しかしあいつらしいな。海にもレーサーの気構えを要求するなんて」


「ほんとそうなの!」


 あたしは体を勢い良く起こして、声を大きくする。


「最近のあたしを森屋が見たら、ヘタれてんじゃねぇって間違いなく見損なわれてた。だから今日のレースね、あたしの全身全霊で挑もうって決めたの。ハナっから手を抜くつもりはなかったし、絶対勝ちたいって思った。だからちょっとぐらい具合悪くしてもいいから、一生に一度しか出せないくらいの、全力全開でやろうって決めたの。森屋がなんにも言えなくなるくらいの、いい仕事してやろうって」


「そして、見事に勝利せり」


「うん。森屋に一矢報いてやった。あたしもまだまだでしょ?」


 あたしは夜空を仰ぎ、あぁ、と大きく息をつく。


「なぁ~んであたし、森屋が自殺なんて、そんなこと思っちゃったんだろう。ほんと晶の言う通り。あいつがさ、自殺なんかするわけないんだよ」


 森屋の心の内は――やっぱり、やっぱりわからない。


 レース活動休止を余儀なくされ、母親を亡くし、父親といさかい……なによりレーサーとしての限界を、夢の終わりを見てしまったのかもしれない。なにもかもを投げ出したくなるような瞬間が、森屋なりの葛藤があったはずだ。



 それでも森屋は、あたしと――





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