第 六 章 12
「微笑んでますよ、海さん」
千鶴ちゃんの声に、あたしははっと顔を上げた
「え、あたし?」
「はい」
「やだ、ほんとに?」
慌てて自分の頬を揉み、あたしは小さく息をつく。
「……ありがとうね千鶴ちゃん。吐き出したら、だいぶすっきりした」
――答えが、
「いえ。なんか偉そうな口きいちゃって、すみません」
「ううん。そんなことない。ほんとありがとう」
あたしは天井を仰ぎ、今度は大きく息をついた。
――すべての答えが、出たような気がした。
引退して、あたしは失ってしまった可能性を、他のなにかで埋めようとしていた。
でも、どうしたって無理なんだ。
だってそれは、あたしが心から望んだものじゃないから。
失ったものは、二度と取り戻せないから。
わかっているつもりだったけど、こうして誰かの助けを借りなくちゃ、本当の意味で、受け入れることはできなかった。
それと同じように、あたしは森屋のことを、どうにかして
受け入れられるわけ、ないのにね。
千鶴ちゃんに話を聞いてもらって、少しだけ心が軽くなった。
こうやって、たくさんのことを知って、折り合いをつけて、
森屋がどうして命を落としたのか、もう永遠にわからないのだろう。それも含めて、あたしはようやく受け入れる準備が、できつつあるのかもしれない。時間が傷を癒してくれるって、きっとこういうことなんだ。
歩き出さなくちゃ。だってあたしは、生きてるんだから。
「ねぇ千鶴ちゃん。これから飲みに行かない?」
「行きたいです! 私、ずっと海さんと飲みに行きたいって――あ」
「都合悪い?」
千鶴は首を横に振って「ちょっとだけ、お時間いただけませんか?」
それから少しして、甲高いエクゾースノートが遠くに聞こえ、やがてモトムラのショーウインドを震わせる。テレフォニカのCBR。見るまでもなく正一だ。似合わない神妙な顔であたしの前に立つと、腰を折って深く頭下げた。
「海さん、すみませんでした! 俺、海さんにあんな心配かけてるとは思わなくて、本当にすみませんでした!」
こうやってちゃんと謝れる。確かに正一は、育ちのいい坊っちゃんかもね。
確かに心配をかけさせられた。でも怒鳴るようなことじゃなかったし、怒鳴った原因はむしろあたしにある。それに正一は、あたしの言ったことをちゃんと考えて、ツーリングを延期した。それは褒めてあげなくちゃ。ガス欠はアホだけどさ。
「顔上げて正一。あたしの方こそごめんね…………なによ? その顔は」
眉をハの字にして、心配しているような、訝しんでるような、複雑な顔をしていた。
「……海さん、大丈夫なんすか? 千鶴とも話したんだけど、海さん最近具合悪そうっていうか、つらそうっていうか…………」
あたしと千鶴ちゃんは思わず顔を見合わせて、ふっと笑いあう。
「なに、そのわかりあってる感」
正一が視線を、あたしと千鶴ちゃんの間で行ったり来たりさせる。
「あ~あ、正一に心配されるなんて、あたしも焼きが回ったもんねぇ」
もう平気なの? と釈然としない顔を向けられた千鶴ちゃんが、微笑んで返す。
「……心配、してくれたんだ」
あたしはテーブルに目を落とし、つぶやく。
「まぁ、それなりに……」
正一は、居心地が悪そうにシャツの上からお腹を掻いてる。
やだ、背中がむず
「そっか……。ありがとね」
「…………あの、なんすかこれ?」
あたしが差し出した手のひらを指さして、正一は言った。
「1万円」
「はい? 1万円?」
「ガス欠したおまえを、レスキューしてやったでしょ」
「えぇ~金取るんすか。あれは友情のレスキューじゃないんすか!?」
「コラ正一。あたしはどこの誰?」
「……モトムラの、海さんっす」
「モトムラは何屋?」
「バイク屋っす」
「でしょ。ほれ」
えぇ~と宿題を嫌がる小学生みたいな声を上げる正一の顎を、あたしは指先で突っつく。千鶴ちゃんは肩を揺らしている。
「そうだ千鶴ちゃん。このお金で三人で飲みに行こう」
「海さんそれいい! グッドアイディアです!」
「でしょ。ほれ正一様、お支払い、お支払い!」
「これでカブの自賠責払おうと思ったのに~」
お尻のポケットから財布を取り出しながら口をとがらせる。
「あ、そうだ海さん。自賠責で思い出した」
正一はそう言って、あたしに顔を向け、
「CBR、森屋って人が、
前のオーナーだったんすね」
息が、できなかった。
「なんで――」
一瞬、頭が真っ白になった。それくらい思いがけなかった。
「なんでおまえの口から森屋の名前がでてくるんだ!?」
あたしは椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、叫ぶ。
「えっ? ちょっと海さん」
あたしは正一に詰め寄り、襟を掴み上げる。
「なんでおまえが森屋のこと知ってるんだ!!」
正一は、森屋のことを知らないはず。
「いやだから、CBRの前のオーナーが、森屋って人なんだって、」
「だから、それをどうしておまえが知ってる!!」
「ふ、古い自賠責の証書に名前が書いてあったんすよ」
森屋は、期限切れ保険証を全部書類入れに詰め込んでいた。
「宮ヶ瀬で警察に囲まれた時、車検証出せって言われて、俺あの時慌てて、書類入れひっくり返しちゃって、それで――海さん痛いって!」
そうか、そういうことか…………。
正一から手を離し、あたしは胸丈のキャビネットに突っ伏し、頭を抱える。
ふたりの視線を背中に感じながら、いたたまれなさを噛みしめる。
あたしには、もうちょっと時間が必要みたいだ。
顔を上げ、正一に向き直って、手の平を合わせる。
「正一ごめん。あたしちょっと、びっくりしちゃって」
「海さん、マジで大丈夫なんすか?」
「ほんっとにごめん。今日はあたしがおごるから勘弁!」
合わせた手をおでこにつけて、正一を拝み倒す。
「別に俺はいいっすけど……それで、このノートなんすけど」
「…………ノート? ノートって?」
正一はポケットに手を入れて、
「名前が書いてあったから、本人に返した方がいいかなって、持ってきたんすけど……」
機械油のシミがところどころについた、小さなキャンパスノート。
表紙の端に、本人のそれとすぐにわかる特徴のある字で「森屋実篤」と記されている。
あたしは正一に顔を向ける。これを、どこで?
正一は、ショーウインド越しにCBRを見てから、言った。
「書類入れに、他の書類と一緒に入ってました」
第七章へつづく
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