第 三 章 11



「リベンジ?」


「そうだよ。鈴鹿にリベンジすんだよ。海、4耐に出んぞ!」


 4耐とは、鈴鹿4時間耐久レースのことだ。耐久レースとは、1台のバイクを複数のレーサーが乗り、周回数を競うレースを言う。


 4耐は、鈴鹿8時間耐久レースの前哨レースで、8耐決勝の前日に行われる。プロの8耐に対し、4耐はアマチュア。レース界の甲子園と呼ばれ、全国から腕に覚えのあるアマレーサーが集まってくる。そして4耐の勝者はプロへの階段を上る。そういう図式ができあがっている。


「4耐? 森屋とあたしで?」


「そうだよ」


「いいね。でも一筋縄じゃいかないでしょ」


 森屋は長い指で摘まむように持ったビール缶をあたしに差し向けて、


「だから必死にやんだよ。とりあえずクイックチャージいるな。あれ十万くらいすんだよなぁ。監督持ってねぇかな」


「ジョッキじゃだめなの?」


「バカ、ジョッキなんかで4耐に勝てるかよ!」


「気が早いねこの人は。もう優勝する気でいるよ」


 思い知らされたばかりじゃない。あたしたちの実力を。


 それは森屋もわかってる。森屋だって現実に打ちのめされてる。暗い夜の長さを知ってる。これは夢物語じゃない。


 それでもこいつは本気で4耐に出て、しかも本気で優勝するつもりでいる。


 そうだよ。一緒にいる時間が増えたから、すっかり忘れてた。


 自分を信じて走る。


 言葉にすれば簡単だ。でも現実に向かい合い、己を知り、そして打ちのめされ、それでもその言葉を口にするには、勇気と、本物の本気が必要なんだ。


 もしかしたら、ただの身の程知らずかもね。でもあたしは、森屋のそういうところが嫌いじゃ――ううん、両手を上げ賛同したい。


 だって、あしたもそうだから。


 信じていた。あたしたちには可能性がある。誰にも負けないくらい努力すれば、いつか必ず、才能の花が咲く日が、夢が叶う日がやってくる。


 わたしが森屋の矛盾を笑ったのは、そのままに可笑しかったのと、誤魔化すため。だって森屋に、あたしと同じ気持だなんて、こっ恥ずかしくて言えるわけないでしょ。


 ――ひっ。


 体がゆれるほど、大きなしゃっくりがでる。


 あたしも森屋もしゃべり尽くして、すっかり酔っ払って――


「まぁでもよ、俺は海が女でよかったよ」


「なんでさ」


 軽い調子で言われて、あたしはちょっとムッして言った。


「そりゃだって、こ~んなたわわに実ったおっぱいをいつも眺めていられるんだぜ」


 ビール缶の底であたしの胸を示して、森屋は下品に笑う。


 この時あたしは、タンクトップにショートパンツって格好だった。


 あたしは森屋の方へ体を乗り出し、襟に指をひっかけ、胸の谷間を覗かせる。


「森屋、ここ見てみ」


 森屋は長い首をにゅっと伸ばし、犬みたいに鼻を近づけて、


「いい匂――ぅわいててて!」


「たわわに実ったウメボシ召し上がれ~」


 ぼーんとバスケのシュートみたいに森屋の頭を放って、あたしは笑い転げた。


 こいつ、欲情してやがんな。


 この時あたしは、よろこんでいた。


 あたしは女で、あたしにしかないもので男に、森屋に欲情されてよろこんでる。


 望まれない女に生まれてきた、恋愛ベタのあたしが、よろこんでしまっている。


 あぁ、あたしはどうしたって女なんだな。そうわかってしまった。クソったれ。


「――雨」


 米噛みを手でこすっていた森屋がつぶやいて、窓の外に顔を向ける。トランポの屋根を雨粒がやかましく叩きだす。


「寝る」


 あたしはルーフベッドに潜り込むと、森屋もあとに続いた。


 自分の匂いが染みついた布団。森屋の汗の匂い。トランポの中は雨音で一杯になる。


 少しして、森屋が背中から抱きついてきた。


「どさくさで、なにやってんだ」


 口ではそんなことを言いながら、あたしはされるがままになっていた。


 やすらいだんだ。


 森屋の長い腕に、少しだけきつく抱きしめられる。体の重みと、温もりのある肌の感触に包み込まれる。おばあちゃんが抱きしめてくれた、ずっと前に失ってしまった、あのやすらぎがよみがえってくる。


 それから森屋は身じろぎして、あたしの背中にぴったりと寄り添い、首筋に口元を擦りつけてきた。タンクトップの下に手が入ってきて、お腹を繰り返し撫でる。片方の手は太腿の内側に滑りこんでくる。森屋の手はカイロのように温かった。


 森屋、あたしとしたいんだな。そうだよな。あたしに欲情してたもんな。


 酔った勢いでするなんて、嫌だな。


 そんなことを少し考えて、あたしはこのやすらぎに身を任せていた。


 手のぬくもりで温められるように、あたしの体は熱を帯び、吐息が浅くなる。


 あたしは転げ落ちるように、森屋に溶かされてしまう。


「つけてるから」


 ずっと黙ったままだった森屋が、ぽつりと言った。すると森屋は、びっくりするほどすんなりあたしの中に入って来た。言いようのない充足感が体を貫き、あたしは声にならない声をもらした。


 切なさで胸一杯になって、言葉にならないやすらぎが全身を満たし、そのふたつが溶け合い、頭が真っ白になって――





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