第 三 章 10



 胸の奥から突き上げてくる悔しさに、目の奥が熱くなってくる。あたしは膝をきつく抱えて、ダンゴムシにみたいに丸くなって、唇を噛みしめる。


「最後まであきらめなければ夢が叶うとか、わけり顔で言うやつ、ほっんとムカつく」


 信じていれば夢は叶う。努力は必ず報われる。運も才能のうち。


 世の中にあふれている、そういう言葉や想いを、あたしは悪意を持って罵った。


 負け犬の遠吠え以外の何物でもない。みっともない嫉みだとわかってる。そうわかっていても、言わずにはおれないかった。


 ――才能なんて、ないんじゃないか?


 ナイフの腹を、背筋にあてられるような不安。


 あたしには才能がある。不安を振り払うように、自分に言い聞かせる。決して口先だけにならないように、あたしは努力を重ねた。でも、もうひとりのあたしが言うんだ。


 本当に全力を尽くしたの? 女を言い訳にしたことはなかった? だからじゃない?


 思い返せば、思い当たってしまう。自分には嘘がつけない。


 だって疲れるじゃない。人間は寝ないと動けなくなるし、壊れてしまうんだよ。


 走りはじめて二十年余り。プロレーサーを目指して、十数年の月日が流れていた。


 教えてほしかった。あとどれだけがんばればいい? あとどれほど耐えればいい?


 その問いに、夢を叶えた人は、真っ暗闇を指し示して告げるんだ。


 ――飛び込め。飛び込まなければ、なにもはじまらない。


 飛び込んだ先が、崖っぷちだったら?


 自信に満ちあふれた、生き生きとした顔で答えるんだ。


 ――飛び込んでみればわかる。


 そのやるせなさといったら、言葉にならないよ。


「あたしはさ、素直に男に生まれたかったよ」


 女のあたしにしてみれば、男であることも才能みたいなものだった。


 しなやか筋肉、比べ物にならない持久力。あたしだって鍛えているけど、どうしたって男のパワーには敵わない。レーサーとして生きるなら、男の方が断然有利に決まっていた。


 ほしいものは生まれながらに備わっておらず、胸とか尻とか、いらないものばっかでかくなりやがって。


「素直にって、どういう意味だよ?」


 森屋が言った。


 素直に。本当にその言葉の通りだった。


 誰もがそうであるように、自分の性別に肯定も否定もない。あたりまえのこととして受け入れている。ただ、女であることに執着はない。生まれる前に戻り、そして選べるなら、あたしは素直に男を選ぶ。


「おい、海」


 黙りこくるあたしに森屋が促す。


 少し後悔していた。酔った勢いとはいえ、性別のことは余計だった。


 あたしは表向き、レースは男女の区別がなくていいと言っていたし、あたしのごちゃごちゃした話を、森屋には知られたくなかった。


 でも……言わずにはおれなかった。


 この時のあたしは、胸の中にあるものを、胸の中に留めておくことができなかったんだ。


 自分の名前の由来を、あたしと社長とのことを、森屋に話して聞かせた。


「本村、カイね」


 含みのある言い方だった。


「なによ……言いたいことあるなら、いいなさいよ」


「いや、確かに男の方が有利、だけどよ……」


 らしくなく、森屋は慎重に言葉を選んでいた。


「おまえの口から、そういう愚痴聞くの……なんかむかつく」


 なんだそりゃ。


「なにかい? あたしは森屋様のご希望に沿うような発言しかしちゃいけないと」


「そうじゃねぇよ」


「じゃあなんだってのよ」


「だからよ……」


 こいつが、こんなに言い淀むなんて、初めて見たかもしれない。


「なによ。いつもみたいに空気読まないで、ズバっと言えばいいじゃない」


「おまえまでそういうこと言うのかよ……」


 森屋は思いの外傷ついた顔を、あたしから背ける。


「悪かったよ。でも意外。気にしてたんだ」


「……なぁ海。あいつらはさ、空気読んでなにを手に入れたいんだ? 仲良しこよしか。普通の友達ならそれでいいよ。でもよ、なんでそんなやつがレースやってんだよ。誰が一番か、誰が最速かを決めるレースに出てんだろ。仲良しこよしなんてあり得ないだろ」


 そうだ。その通りだ。それはわかったよ。それでおまえは、あたしになにが言いたい?


「俺たちはよ、人生を懸けて才能を確かめるってレースしてんだよ。レースが始まったら、もう後には引かない。四の五の言わずただ全力を尽くす。そうだろ?」


「要はあたしに、愚痴ってんじゃねぇって言いたいわけ?」


「いやだから……」


 そうじゃない、というように手を降って、でもその手は力なく垂れ下がる。


「むかつくけどよ……認めたくねぇけどよ……」


 絞り出すような声で森屋は続けた。


「海の言うこと……わかんだよ。信じれば夢は叶うとか、気楽に言うやつにさ、自分でもやべぇって思うくらい感情が沸き上がってくるよ。俺だって不安になって、叫びたくなるような時がある。確かにレースは男の方が有利だよ。でもよ、俺たちはもうスタートを切ったレーサーなんだ。走り出したら後ろを振り向かない。全力で、なにがあっても、どんなに苦しくても、それそこ才能って壁が立ちふさがったとしても――」


 森屋は顔を上げ、挑むようなまなざしをあたしに向けて告げた。


「信じるんだよ。自分を信じて、走り続けるんだ!」


 ――ぶっ。


 あたしは吹き出してしまった。


「なにが可笑しいんだよ!」


「だっておまえ、思いっきり矛盾してるじゃん。気づいてないの?」


 森屋は考えるように眉根を寄せてから顔をはっとさせて、あたしは一層おかしくなってシートの上で笑い転げた。


「だから、しゃべんの嫌いなんだよ」


 苦虫を噛み潰したような顔で缶ビールを乱暴に呷り、


「リベンジだ」


 空缶を握りつぶしながら、森屋が唸る。





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