第2話 現実は逃避不可。
その後はしばらく話をして、執務が残っているというカルディナ王は城へと戻ることになった。
食事を一緒にどうか? と城への招待を受けたが、時間には帰らないといけないことを理由に丁寧に断る。
時間通りに帰らないと、向こうで騒ぎになることを説明すると、カルディナ王は理解を示してくれた。
護衛の騎士に囲まれて馬車で城へ向かう姿を見送り、その影が俺たちから見えなくなってから家の中に戻ってきた。
昼過ぎには着いていたはずだが、気がつけば窓の外はうっすらと茜色に染まり始めている。
ポケットに入れたままになっていた懐中時計を確認すると、四時を過ぎたあたりだった。
移動などの時間を考慮したとしても、カルディナ王と少なくとも三時間は問答を続けていたのだということだ。
改めて経過時間を認識すると、どっと疲れが押し寄せる。
「はぁー……」
「え? ケ、ケースケさん? どこか具合でも悪いのですか?」
「あー、いや……、大丈夫だ。ちょっと、気が抜けただけだ」
リビングに入ってすぐ、床に崩れるように座り込んでしまった俺に、ネモアが慌てて駆け寄ってくる。
張り詰めていた気を抜いてしまっただけなので、何ともいえない。
何とか手を軽く降って答えるが、すぐに立ち上がれる気分ではなかった。
「変に大人びた子だとは思っていたけど。私と同じ歳とは思わなかったわ」
こぽこぽという音と、紅茶の良い香りが部屋に漂い始める。
さきほどのカルディナ王との会話の中で、この際だからと、勘違いされている年齢のことを告げておいた。
勘違いされたままにしておいて、向こうの対応が多少なりとも子供向けのものにできる、という手もあったが。
今後のことを考えると、地球に関わること以外はできる限り本当のことで固めておいた方が良いと思ったからだ。
こちらでの食生活によって変化が起きるかも知れないが、身長が伸びないというところで変に怪しまれるよりも、事実を話しておいて助けを求められる状況を作る方が良いと考えた。
年齢を告げた時、ユリアは叫んでいたし、叫ばないまでもカルディナ王と騎士達も唖然としたあと、俺の顔をまじまじと観察していた。
身長や体格について見られていた気もするが、それは、まぁ、致し方ないことなので何とも言えない。
男として少し哀しさを感じたのは気のせいだったと思いたい。
何とか床から立ち上がり、紅茶の香りに誘われるようにテーブルにつくと、目の前にカップが差し出される。
自然、先ほど話していたのと同じ席になったため、俺はまたしてもユリアとネモアの対面に一人で座ることになった。
「で、聞きたいことがある。何で王様が此処にいたんだ?」
「……すみません」
俺の問いかけにネモアが深く頭を下げる。
謝罪の言葉が聞きたかったわけではないのだが、と、下げられた頭の所為で表情も解らなくなってしまったネモアの隣に目を向ける。
紅茶のカップに口をつけていたユリアは、俺と目が合うと曖昧に微笑んだ。
何処かしら申し訳ないと思っているのか、形の良い眉が下がっている。
「言い訳にはなるけど。敢えて言うなら、貴方が帰ることを周りに説明していなかった所為、かしら」
「いえっ! ケースケさんの所為ではないんです。俺が上手くごまかせなくて……」
ネモアの話によると、俺が転送の魔法陣で日本に帰った次の日。
学校に登校してこない俺を心配したウィズ達にどうしたのかと聞かれたらしい。
転送の魔法陣のことは、ユリアが世に出すつもりはないと言っていたこともあって、ネモアは俺が風邪をひいて体調を崩したので休むのだと言ってしまったのだ。
その日は納得したウィズたちだったが、それが二日、三日と続くと、俺がよほどひどい風邪を引いてしまったのだと心配になり。ウィズたちが元気づけるために見舞いに行くという話になってしまう。
焦ったネモアは咄嗟にグリサラーサ家で療養しているから大丈夫だと、更に嘘を重ねて。
直接見舞いに来るという事態は避けられたが、グリサラーサ家へ見舞いの品が届けられてしまった。
手紙に書かれている俺を心配する言葉と見舞いの品に、ネモアの父のダンガルがネモアに事情を確認して。
それからも嘘を嘘で重ねている間に話が大きくなっていく。
俺が誰かに拐われて命の危機にあり、ネモアは脅されているのではないか。というところまで話が飛躍してしまった。
理由としては、学習発表会直後に行われた俺への勧誘などがある。
国家魔法士となることで功績は俺個人のものとして扱われることが決まっているとはいえ、俺自身を操るということを考える輩がいてもおかしくはない。
一時的にカルディナ王直々の証書で落ち着いているが、言われてみれば、そういう行動にうつされても不思議ではない。
オケアノス学院という管理の厳しい校内で過ごしていたおかげで、自然と護られていただけに過ぎず、今後はそういったことにも気をつけないといけない。
そして、未来の国家魔法士の誘拐疑惑となると、自然とオケアノス学院が動き、国が動き。
不幸中の幸いであったのは、その全てが秘密裏に行われていたということだろう。
誘拐となると犯人が存在するわけで、犯人側に行動を悟られないように細心の注意が払われていた。
重ねた嘘にどうにも身動きが取れなくなってしまったネモアは、自分と同じく事情を知るユリアを頼るしかなかった。
「最初の時に嘘なんか言わずに、信頼のおける人にだけ事情を説明して協力して貰えばよかったのよ」
「……すみません」
「いや、俺もそのあたりのことをちゃんと話し合っていなかったのは悪かった。そんなに落ち込むな」
国から呼び出しを受けたユリアは、カルディナ王に転送の魔法陣のことを説明した。
その結果を確かめるため、俺を一週間後に転移の魔法陣で呼び出すということも。
そこからは俺の考えていた通りで。
転送の魔法陣という新たな魔法陣の開発にオケアノス学院を作った国が放っておくはずもなく。
その確認を行う場に、国家魔法研究所の職員を同行させようという話が大臣達から多く上がったのだ。
しかし、研究資料の盗難行為が明るみになった彼らの信用は、かなり深いところまで落ちていて、更にはその被害者である俺に関わることであっただけに、グリサラーサ家とグランヴィスタ家からの猛反対もあって。
結果、カルディナ王と極少数の護衛のみで確認が行われることとなった。
その少数という条件も、ユリア自身が転送の魔法陣を世に出したくないという意思と、ネモアの必死の説得が行われた結果だという。
「転送の魔法陣自体は、転移の魔法陣の誤作動における被害者にしか使用できないものだから。国家魔法研究所に転送の魔法陣を研究資料として提出することで落ち着いたわ」
「転移の魔法陣と転送の魔法陣を見比べるだけでも、移動系の魔法陣の発展に繋がる、という訳か」
「そうね。あ、後、お友達にはしっかりと説明しなさい。ネモアから聞いたけど、すごく心配しているみたいだから」
ユリアの言葉にネモアへ視線で確認すると、肯定を示しているのか、苦笑いを浮かべていた。
俺はその表情に曖昧に微笑んだ。
「後は男同士。話したいこともあるでしょうから。私は先に帰らせてもらうわ」
そう最後に言い残してユリアも家を出ていくと、リビングには俺とネモアの二人だけとなった。
どちらも話さない中、俺のポケットに入れたままの懐中時計がカチカチと静かな室内に響く。
「……今さらだけど。ただいま」
「あっ、お帰りなさい」
何を話そうかと考えながら、すっかりとタイミングを逃してしまっていた、と思って口に出す。
ネモアははっとして、反射的に言葉を返してくれた。
そのやりとりが何だか不思議で、自然とどちらともなく笑いが漏れる。
「元気そうで安心しました。体の調子が悪いとかはないですか?」
「ああ、至って健康。授業で適度に運動していたおかげか、前より良いぐらいだ」
「それはよかったです」
冗談めかした俺の返しに、笑みを浮かべたネモアの視線が、段々と下がっていく。
最後にはじっと机の上を見つめてしまった。
その表情が俯いているためなのかどうかはわからないが、暗く見える。
ネモアが今何を考えているのかは解らないが、この感じは何度か体験していた。
俺とネモア。幾度となく考えのすれ違いで、上手くいかなかった時があった。
「何か聞きたいことがあるんだろ? 言っただろ、気になったことはすぐに聞いてくれって」
「……そう、ですね。あの……、ケースケさんが異世界から来たという話は、嘘……いえ。勘違いだったのですか?」
ネモアの言葉に、彼が気にしたことに思い至る。
ネモアには日本のこと、地球のことの真実を話していた。
こちらと違い月が一つしかないのだとか、移動は専ら車か電車だとか、地球は丸い惑星だとか、こちらと違って精霊や魔物がいないだとか。
俺が今日カルディナ王に語った故郷の話は、ネモアに話していたことに嘘がたくさん混じっている。
ネモアからしてみれば、自分は嘘を吐かれていたのでは? と考えたのだろう。
そして、それに引っ掛かりを覚えていても、黙っていようとしたのは、俺を誤召喚したという負い目があるからかもしれない。
「嘘じゃないさ。俺は異世界から来た」
「でも、さっきは……」
「前も話したけど。人は異質を自然と避けるものだ。異世界なんて未知の存在に誰もかれもが友好的だとは俺には考えられない。カルディナ王だって、得体の知れない俺を警戒していた。同じ得体の知れない人でも、異世界と同世界では感じ方が違うだろう。それに俺は……」
そこまで一気に言って、一度息を吸い直す。
疑い過ぎ、考え過ぎ、臆病なのかも知れないが。
「俺は、まだ、ネモアしか信用できない」
「ケースケさん……」
俺の呟きに少し寂しそうなネモアの声が響いた。
ウィズたちを信じていない訳じゃない。カルディナ王やユリアが悪い人だとは思っていない。
だけど、俺の中で、まだ一歩踏み出すことができない。
ネモアのことは信頼している。
今回だって、結果的には悪い方へと向かってしまったが。ウィズたちに俺が異世界に帰ることを話さないでいてくれた。
最初に会った日に約束したことを、ひたすらに守り続けていてくれている。
「だから、さ。ネモアさえよければ、これからも俺を助けてくれないか?」
「っ! もちろんです!」
元気に拳を握り締めて宣言するネモアに、自然と口元が緩んだ。
後は時間の許す限り、ネモアと話をした。
リュックに詰め込んできた品を出して、俺の故郷の日本が、俺の世界の地球が、どんなところなのかをネモアに知って欲しくて。
精巧に作られた地図や、色々な場所の写真を見せて。
その鮮明さに驚くネモアに得意気に話をしていく。
楽しい時間はあっという間に過ぎていって、すぐに夕食の時間になっていた。
俺は一週間後の朝。ネモアに喚び出してもらうことを約束して、自分の部屋へと帰ってきた。
窓の外はすっかりと暗くなっていた。
夕食ができたことを告げる母さんの声に答えながら。
来週の言い訳を考える。
親の愛情というものを深いと感じることができることは、子供にとってはとても良いことなのだろう。
感謝をしたい時には既にその人はいないだとか。
無くしてしまってからそのありがたみがわかるだとか。
そういう人も少なくはない世の中で、しみじみと実感ができるのは、思いがけず絶体絶命や奇妙奇天烈という人生を体験したからなのだろう。
そうでなければ、実家から離れて一人暮らしをして、盆や正月ぐらいしか顔を出さなかった俺は。
目の前の日々の生活にいっぱいいっぱいで、考える暇すらなかったように思う。
いや、それもただの言い訳になってしまうのだろうけど。
二十五歳にもなった息子が、平日の昼前に起きてきたのに、笑顔の挨拶と温かいご飯が出てくるのは。
当然でも自然でもなく、そうしてくれる人がいるから成り立っている。
「……ふっ」
ついつい飛ばしてしまった自分の思考に、思わず吹き出していた。どこのポエマーだ。
異世界に召喚なんて、夢みていてもなかなか体験しようともできない現実。
実際に自分がそんな現象に直面する前だったら、おおっぴらにそんなことを言う人間がいたら、夢見がちなんだな、とか、それこそカルトかよ、とつっこんでいる気がする。
口に箸をつけたまま、そんなことを考えていると、ふと、視線を感じて顔を上げた。
流し台で洗い物をしていた母さんが、ぽかんっと口を開けてこちらを凝視していた。
行儀が悪かったか、と、未だに口についていた箸を下げると、母さんが急いで水を止めると濡れた手をエプロンで拭きながら近づいてきた。
突然の行動に戸惑っていると、俺の向かいのテーブルに手をついて、こちらに身を乗り出してくる。
近くなった母さんの顔に、思わず上体を仰け反らせると、食い入るように顔を見つめられた。
「な、何かあった?」
「……父さんに似て、緩い笑い方ねぇ」
「は……?」
「うん。笑うっていいことよね」
そう言って満面の笑みを浮かべた母さんは、どこか浮かれながら、中断していた洗い物を片付け始めた。
もう、若いとも言えないその顔には、皺が目立っていた。
近づいた時に目に入ったそこかしこに、白いものが増えていた。
去年……いや、一昨年に見たときより、随分と老け込んでいるように見える。
……笑うっていいことよね。
その言葉に、こちらに戻ってきてからのことを思い出していた。
警察や会社とのやりとりと、病院通い。
そのほかには何もやる気にはなれなくて、居心地の良い自分の部屋に籠りきっていたように思う。
異世界のことを信じてもらえず、自分の精神状態を疑ったときもあった。
俺はその間、笑っていただろうか?
日にちが過ぎるにつれて、あの一年間は俺のただの妄想だったんじゃないかって。
ただの妄想だったら、俺は会社にもいかずに、こんなところで何をしているんだろうって。
暗い感情ばかりが浮かんできて、自分自身の記憶まで信じられなくなってきて。
心配してくれている両親に感謝をしながら、どこか、どこか虚しさを覚えていた。
安心させるように浮かべていた笑みは、笑顔なんて呼べるものじゃなかったのだろう。
だから、父さんも母さんも、あんなに心配していたのか。
……敵わないな。
改めて俺は、いつまでも父さんと母さんの子供なのだと、思い知った。
「……ありがとう」
「んー? 何か言った?」
「なんでもない。ごちそうさま」
「どういたしまして」
そのどこかずれた返しに、聞こえているじゃないか、と、また笑いが漏れた。
俺は異世界……エルコティアソフィア……に再召喚されて、現実であったのだと認識できてやっと、自分を信じることができたのか。
向こうでの一年間を現実としてとらえることでやっと、今、此処にいることが事実だと受け止めることができた気がした。
俺は携帯のアドレスを探すと電話を掛ける。
二回のコール音の後に聞こえてきた低く落ち着いた声。
それがちょっと不機嫌だったことと、今が平日の昼間だったことを思い出して、慌てて頭を下げる。
電話越しだから頭を下げても姿は見えないのだと、自分の行動に苦い笑いしか浮かばなかった。
大通りを一つ中に入った場所に、ポツンッと赤く光る焼き鳥屋の看板。
少し奥まったところにあるが、酒の種類が豊富で、焼き鳥も美味しいと結構古くから続く店らしい。
四人掛けの個室が五つと、カウンター席が十席ほどのあまり大きくはない店だが。
金曜日ともなると仕事帰りの会社員で店の前に列ができることも少なくはない。
「お前はなぁ、もっと早く電話を寄越せよ」
「すみません」
空になったジョッキでこちらを指差しながら、既に赤くなり始めている顔で凄む人に小さく頭を下げる。
不機嫌そうに電話に出た上司。課長の一村さんは、二つ返事で俺の誘いに頷いてくれて、指定されたのは悩みがある時によく誘ってくれた店。
仕事が忙しく無い訳がないのに。
六時の定時で上がって、会社からぎりぎり間に合う七時開始を言われた時には、申し訳ない気持ちが大きくなって一度は断ってしまった。
断ったことを怒られて、七時開始となり、実家からは距離があった俺は結構早い時間に家を出た。
元上司と飲みにいくことを告げた時の母さんの顔は、とても嬉しそうだった。
素直に頭を下げた俺に、一村さんはまた、ぶちぶちと言いながらも次のジョッキに口をつける。
「で? 一年も音信不通で。帰ってきたと思ったら、人事からの通知だけしか寄越さなかった馬鹿な後輩君は、いまさら何の相談だ?」
歯に布着せぬ物言いに、胸が抉られるように感じたが。一村さんのこれは、相手が話しやすいようにわざとやっているのだと、数年の先輩後輩関係の中で学んでいた。
俺は自分の分のジョッキをぐいっと煽ると、喉の奥にくっとくる感覚で気を引き締める。
どんっと強く机にそれを戻すと、目の前に座る一村さんの目を強く見つめた。
机に両手をつくと、勢いよく頭を下げる。
「ご迷惑をお掛けしてすみませんでした!」
店内に響いた大きな声に、一瞬、騒がしかった周りが静かになる。
心配した店員が何事かと覗きにきたが、一村さんが何かを言うとすぐに引き返した。
俺はその間、頭を下げたままだ。
「顔上げろ。大きな声出しやがって。こっちが恥ずかしいわ」
「……すみません」
「まぁ、元気そうでなによりだ。無事だったんなら、それでいい」
そう言った一村さんは、焼き鳥を口に頬張る。
飲め飲め、食え食え、と言いながら酒と焼き鳥を勧める一村さんに口元が自然と緩んだ。
一年前は、頻繁ではなかったが行われていたやり取り。
上着を脱いだスーツ姿の一村さんに、俺もスーツを着てくればよかった、と、私服で来たことを少し残念に思った。
「今は何をしているんだ?」
「仕事は特に何も。病院に通ったり、部屋でのんびりしたり、ですかね」
「……元気そうに見えたが、どこか悪いのか?」
「いえ……。記憶喪失らしいので、その治療に」
「らしいので、って。自分のことじゃないか」
呆れた顔で返した一村さんはそれ以上深く聞いてこようとはしなかった。
会社の先輩で、人生の先輩であり。俺が何かを隠しているのにも、気づいているのかもしれない。そういう勘は鋭い人だった。
それでも聞いてこようとしないのは、流石、先輩だからと言えるのだろうか。
「それで、皆井は会社に帰ってくる気はあるのか?」
「……それは、厳しいんじゃないですか?」
一村さんの言葉に苦笑いを返す。
俺が会社に電話を掛けた時、人事の人に言われた。
社内の人事規定で、理由もなく長期にわたり無断欠勤を行った社員は強制退職となるらしい。この場合、退職金などはでない。
退職金と言っても、入社五年未満の俺にはあってないようなものだったが。
それでも、有給いっぱいまで一村さんや同じ部署の人が頑張ってくれていたらしい。罰則とか罰金とかの話がなかったのも、彼らのおかげだと聞いた。
ただ、そんな事情を起こした人を再雇用するなんて、そう簡単にはできないですよ、と釘を刺されている。
そう話した俺に、一村さんはわざとらしくため息を吐く。
「お前はなぁ……。やっぱ、聞き分けが良すぎるんだよ、少しは我を通せって言ったのを覚えてないんだろ?」
「覚えていますよ。いまどき珍しく、素直なやつ、なんですよね」
「覚えていても行動に移せなきゃなぁ……」
「移していますよ。今」
にやりっと笑った俺に、一村さんが目を丸くして固まった。
そして、苦笑いを一つ浮かべると「俺にかよ!」と笑いながらつっこんだ。
その後は、会社のことや元同僚のこととかの話を聞いたりして、楽しい時間が過ぎていく。
終電の時間が近づいてきたので店を出た俺と一村さんは、電車までの道をゆっくりと歩いていく。
雲ひとつない空には、満月が浮かんでいた。
次の日から、俺は知り合いに次々と連絡を取った。
元会社の同僚や先輩、学生時代からの友達、バイト先で知り合った友人。
誰もかれもが俺が一年間行方不明になっていたことを知っていて、理由については深くは聞かれなかったが、心配していたことや良かったなという言葉をくれた。
俺の事情を知っていた理由が、一時期騒がれていた。現代版神隠しなどではなく、両親が必死に知り合いを探して、情報を集めてくれていたためだと聞いた時には、頬に熱いものが流れた。
病院通いを極力減らし、地元の大きな図書館に通ったり、母さんと家事をしたり、父さんの通勤に合わせて散歩をしたり。
無意識に引き篭もっていたんだな、と改めて実感した。
そして、一週間後の土曜日。
「じゃぁ、母さんたち行ってくるけど。何かあったら連絡するのよ」
「はは。小学生じゃないんだし。ゆっくり楽しんで来いよ」
「ふふ、そうね。じゃぁ、行ってきます」
そう言って手を振る母さんの隣で、父さんが大きめの旅行鞄をタクシーに積み込む。
母さんの学生時代からの親友に娘がいて、その子が明後日、結婚式を挙げるらしい。それも何と国際結婚で、海外で行われるのだとか。
俺が居なくなって時間が経つごとに暗く落ち込んでいた両親に、気分転換になればと親友が誘い、一ヶ月前には決まっていた予定だったのだが。
突然、俺が帰ってきたことで、二人は行くのを取りやめようとしていたらしい。
数日前、その親友からあった電話に、たまたま出た俺がその話を聞いた。
たまたま、と言っても、俺はほとんど家にいるのだから、半ば必然的とも言えるのだろうが。
悩んでいる二人に、行ってきなよ、と背中を押した。
先週までの俺のままだったら、二人も納得はしなかっただろうけど。
日に日に現実と向き合って進んでいく俺の変化を感じてくれたのか、今日、予定通りに出発することになった。
元々、気分転換という海外旅行も兼ねていたので、結婚式と観光で一週間後に帰ってくる予定になっている。
日に一度か二度は、連絡をして、両親に安心してもらう必要はあるだろうが。
「……俺も用意するか」
家の戸締りを入念に確認すると、自分の部屋に鍵を掛ける。
先週と同じリュックを取り出すと、携帯の時計を見ながら、懐中時計の時刻にずれがないことを確認する。
九時丁度。オケアノス学院の授業が始まる時間。
光り輝く魔法陣に一つ深呼吸をした。
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