第5話 すれ違い。
この世界に転移してから三十日が経った。
一年は十二ヶ月で、一ヶ月は三十二日。今月は五月であと三日で六月になる。
五月と言っているが、自動翻訳機能のおかげでそう認識しているだけで、本質は違うのだろう。
日々、生活に慣れることと忙しくしていなくてはいけない気がして、深く考えないようにしていたが。意識をして聞いてみると意味のわからな音だけが聞こえるのだ。
自分が話している言葉は一体何なのだろうか。
当然、日本語だと思っていたが、口から出る声はやっぱり意味のわからない音で、それを無意識に話していることは恐怖だ。
日本語が、自分が地球にいたという事実が、なくなってしまう気がした。
ネモアに色々な言葉で話しかけるという実験をして気づいた事が三つある。
一つ目は声として音になるときに翻訳されている事。
二つ目は意識すれば日本語が話せる事。
三つ目はこちらにない物や動作の名前や意味はうまく翻訳できない事。
この三つは言葉だけでなく文字も同じだった。
授業で使われているのは当たり前だがこちらの文字で、俺はその意味を理解できているし、授業のノートにはこちらの文字が書かれている。
意識をして書いている訳ではないので、勝手に変換されている。悪く言えば、勝手に体が動いている、乗っ取られている、のか。
その事に気づいてからは、毎日寝る前に日本語で日記をつけるようにしている。
少しでも文字を覚えておくために。
たまに意識して日本語で読み返したりもしている。
ネモア曰く、転移の魔法陣の誤作動で違う国の言語や文字が理解できるようになった。という事例はないらしい。
前例がない、他に自分の体にどのような変化があるのか、わからない事が怖い。
「ケースケ、次は授業移動だぞ?」
ウィズに肩を叩かれながら声をかけられて、自分が考え込んでいたみたいだ。
確か化学の授業だったはずだが、ほとんど覚えていない。
周りに生徒の姿は少なく、ネモアが心配そうにこちらを見ている。
「声をかけたのですが、反応がなかったので」
「ごめん、聞こえてなかった」
「いえ、それは、良いのですが」
ネモアは俺が毎日、忘れないように日本語を思い出そうとしているのを知っている。
最近は寝つきが悪く、夜中になんども目が覚める。
考えないようにしようとすればするほど、考える時間が増えている気がする。
「ケースケさん、大丈夫ですか?」
ネモアの言葉に苦笑いを返す。
ネモアはよくしてくれている。
寮の生活は基本的に自主性が求められるが、洗濯や掃除のほとんどはネモアがやってくれている。
勉強や常識もネモアが教えてくれるし、必要なものはすぐに用意される。
ネモアはよくしてくれている。
だけど、でも。
あの時、魔法陣の描き換えに気づけなかったのか。
誤作動があるとわかっている魔法陣をなぜ使うのか。
なぜ俺はここにいるのか。
「ケースケさん?」
いつの間にか立ち止まっていた、ネモアがこちらに手を伸ばしている。
お前の所為で。
……パシッ。
「あ、わるい……」
「……いえ」
肩に触れようと伸ばされた手を気づいたら払っていた。
軽い音だったが、ネモアの表情は、固い。
「最近、眠れなくて」
だから何だと言うんだ。
自分で言っている言葉の脈略がないことはわかるのに、それ以外は言えなかった。
気まずくて、話せなかった。
その後にネモアと話す事はなかった。
謝るのはタイミングが非常に難しい。
後になればなるほど言い出しにくくなるし、大したことがなかったことがいつの間にか埋められない溝になっていることもある。
ちょっとした事こそ、すぐに謝ったほうが良い。
報告とかと同じだ。
仕事でミスをした時もそうだった。
自分の作ったプログラムですぐに直せる程度のバグが見つかって、何も言わずに修正した。
動作確認もしたし退行テストもしたし、問題なかったからそのまま報告しなかった。
しかし、既にソースはリリースされた後で、当然、本番環境のプログラムはバグがある状態。試験期間中にその問題が発覚したため、重大な事態に発展する事はなかったが、上司にはかなり怒られた。
すぐに報告していればよかったのだと、何度も言われた。
仕事でミスをすれば、すぐに謝れるようになった。自分が起こしてしまった責任だから。
でも、今回のは?
思わず叩いてしまった事に対しては謝った。気持ちに余裕がなかったからと言って、無意識で手を払ってしまったのは悪いと思ったから。
他に何を謝る?
夕食を食べている時も部屋に帰ってからも、寝る前も、ネモアとの間に会話がなかった。
俺が話しかけないんじゃない、ネモアも話しかけてもないんだ。
「ケースケさん、ネモアと喧嘩したのですか?」
放課後、民族学の時間に気になった事があったので、ファンに頼んで図書室でわかりやすい本を探しに来ていた。
いつもついてくるネモアは、担任に呼ばれてここにはいない。
ウィズは図書室という場所が苦手のようで、ミリィは女友達と楽しく話していたので声は掛けていない。
「喧嘩……なのかな」
実質問題、よくわからない。
ネモアだけが俺が異世界から転移してきたことを知っている。彼自身が転移の魔法陣を発動したために、責任を感じているのも知っていた。
ネモアならここでの生活を保証してくれるだろう、絶対に放り出さないだろうとは感じている。
それはネモアの生真面目すぎる性格とこちらの世界での転移の魔法陣の誤作動という事故の認知度が高い事がある。
「ファンは、俺の事ケースケさんって呼ぶよな。ネモアとかは呼び捨てなのに」
ファンは基本は丁寧語で、ネモアやウィズたちにも少し砕けてはいるが丁寧語だ。
最初に比べてたら俺にも多少砕けた丁寧語にはなってきているが、呼び方だけは常にさん付けだった。
よく聞いているとクラスの同級生も、よほど年が離れていない限りは呼び捨てだった。
「何故かと聞かれると深い理由はないのですが。あえて理由を挙げるのなら、ネモアがそう読んでいたからですかね」
「転移の魔法陣の誤作動に巻き込まれた哀れな奴だから?」
「違いますよ」
思わずでた皮肉に、ファンはすぐに否定の言葉を返す。
真剣な目でまっすぐに見つめてくる瞳に、自然とこちらも真剣に見つめ返してしまう。
「ネモアが尊敬していたから、大切にしようとしているのがわかったから、僕も敬意を持とうと思ったんです」
「ネモアは責任を感じて、敬っているだけだろう」
「それだけだったら、僕はネモアをケースケさんから遠ざけます」
何故?
そう聞き返そうとして、ネモアとファンたちを思い出す。
最初に食堂であった時に感じたミリィの視線。人見知りだとあの時は言われたが、クラスメイトとも仲が良く、社交性の強い彼女が人見知りだとは今になると思えない。
ウィズやファンも色々と質問しながら、何かを確認しているようだった。
「ネモアは責任を感じてはいますが。どこか、ケースケさんを兄のように慕っているように感じます」
ネモアに兄弟はいるだろう。その言葉は言わなかった。
明日は週末で授業は休みだ。
今日はネモアとゆっくり話そうと、寮に帰りながら思った。
そう思っていたが、今になるとその勢いはなくなっていた。なくなるというより、勢いを向ける対象が居ない。
「……帰ってこないとは」
ファンが探してくれた本を読みながら、窓の外を確認する。
二つの月がそろそろ真上にこようというところだ。今日が終わる。
寮に付いてしばらくしても帰ってこないネモア。
心配になって探しに行こうと外に出ようとした時に、タルタ爺に呼び止められた。
「急用ができたので、先に休んでいてください」
几帳面で丁寧な文字のメモを渡された。
急用とは多分、放課後の呼び出しの事だろう。あの後から会っていないから、すぐに出たのかもしれない。
話し合う気満々でいたために、出鼻をくじかれ結局すっきりせずに胸のあたりが気持ち悪い。
「急用ってなんだよ」
メモに書かれているのは急用とだけ。
先に休んでいてくださいという事は、今日中に帰ってくるのか。
そう思って、借りた本を読んで待っていたのだが、一向に帰ってくる気配がない。それなりに分厚かった本は既に終盤にさしかかっている。
今日中に話をしたかったのにな。
そう思いながらも、日々の生活の疲れか。おっさんが学生に混じって授業をしているためか、眠気がやってくるのが早くなっていた。
授業での運動量は高校時代に部活で汗を流していた時より多いかもしれない。
真面目に勉強しているためか、頭を使うことによる疲労も溜まっていた。
「日記……書かないと」
机の引き出しから一冊のノートを取り出すと、使い慣れてきたペンにインクを付ける。
今日の授業の事、図書室でのファンとの話、ネモアの急用。
日記というより作業報告に近くなってきているが、懐かしい日本語で書かれたそれを一通り描き終わると満足気に読み返す。
描き始めてから気づいたことだが、仕事ではパソコンばかり使っていたためか、簡単な漢字もすぐに思い出せない時がある。出来るだけ漢字を使うようにしているが、明らかにひらがなの比率が多かった。
……カタン。
後ろから聞こえた小さな音に、日記に落としていた顔をあげて振り返る。
「あ、お帰り」
「……ただいま帰りました」
最初にあった時のように、魔法使いのローブと杖を持ったネモアが入り口に立っていた。
「急用って、転移の魔法陣の事?」
思わず浮かんだこちらにきた時に情景に、聞いてしまう。
小さく目を見開いたネモアは申し訳んなさそうに眉を寄せた。
「今日、師匠が陛下に会いにきていたんです。まぁ、会いにと言っても、街を歩いていた師匠を騎士が見つけて連行したようなものですが」
「師匠……」
「転移の魔法陣の描き換えの事を聞きに行っていました」
その言葉に、ピクリッと体が震える。
師匠に俺が異世界人だと、否、陛下にも言ったのか。事情を話さなければいけない事だとはわかっているが、それがすごく嫌だと感じた。
段々と顔がこわばってくるのが、自分でもわかる。
「師匠は、転移の魔法陣を無効化したのだと。自分ではわからないと言われました」
「そうか」
「殴り飛ばしましたけど」
「そう……は? 殴り飛ばした?」
淡々と告げられた言葉に、相槌を返そうとして聞こえた言葉の意味がわからずに顔を上げる。
申し訳なさそうな顔から苦々しい顔に変わっていたネモア。
「今回ほど、師匠……いや、あれが役立たずと感じた事はないです」
「ネモア?」
「ああ、安心してください。ケースケさんが異世界から来られたことは言っていないです。あの馬鹿に言っても仕方がないですしね。変に興味を持たれてもいやですし」
相当、師匠との遣り取りに苛立っているのか、握り締められた拳は震えていた。
「俺が頑張ります。俺が何としても、ケースケさんを異世界に帰れるように頑張るんで、ケースケさん、俺に時間をください」
しっかりと頭を下げるネモアに、スッと胸の曇りが晴れたような気がした。
彼はこんなに誠実に、自分に向き合ってくれているじゃないか。
「……一緒に、だろ? 俺とネモアで頑張るんだ」
熱くなる目元に、うまく笑えているだろうか、そう思う。
安心したように嬉しそうに笑うネモアがいるんだから、多少変でも、俺は笑えているのだろう。
それからネモアに最近の寝付けない理由と、自分の中にある黒い感情に付いて話した。
考えないようにすればするほど、帰りたいのだと、その原因になったネモアがとても憎く感じてしまうのだと。
ネモアは悲しそうな顔をしたが、それは俺がネモアに対して憎く感じていた事に対してではなく、それを今まで心の内に留めさせてしまった事についての後悔だという。
二十四歳という年齢と、しっかりと自分の考えを述べる俺に、頼ってしまっていた。そう言って頭を下げるネモアに、言えなかった自分も悪いと謝る。
単に自分を守るために弱い部分を見せたくなかった。変に大人なために、帰れないという事は理解できて、帰りたいという気持ちを押さえ込もうとしていた。
「最初にネモアに聞いた話と、この学院で一ヶ月学んできて。帰れないなとわかっているんだ」
「それは、俺が……」
「うん。俺もネモアと一緒だ。帰れないと理解していても、可能性があるのならすがりつきたい。可能性が実現するのがいつかはわからないし、その時、本当に帰りたいのか今の俺じゃわからない」
本当にいつになるかわからない。
一生、帰る方法は見つからないかもしれない。見つかってもよぼよぼの爺さんになっていたから帰らないかもしれない。
どちらにしても、何もしなくて過ごすよりは、充実した日々を過ごしたい。
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