短編「それを愛と人は呼ぶ」

朶稲 晴

【創作小話/それを愛と人は呼ぶ】

 ふ、と意識が浮上する。窓の外をみた。雨が降っていた。やわい掛け布団の感触を足を擦り合わせて確認してから、コーヒーの香りがキッチンから漂ってくるのを確認した。

 名残惜しくもベッドから這い出て着替えをする。のろのろとした動作で寝ぼけながらこんなことを考える。

 ああ、また。今日もまた。恐ろしい、いつもと変わらない毎日がやって来るのだ。昨日とも一昨日とも変わらない今日が、明日も明後日も続くのだ。

 恐ろしい日常が、今日も。

「失礼します。朝食の準備ができました。起きていらっしゃいますか。」

 控えめな声が、耳をノックする。あまりの心地よさにめまいがした。

「今ゆくよ。」

 全身鏡で身なりを確認してから部屋を出る。さして広くもないこの家はわたしの寝室とリビングは一番離れていた。スリッパで床を擦りながら重い足取りで七月にしては冷えた廊下をゆく。そっとリビングのノブに手をかけ深呼吸。ああ、今日も始まる。

「おはよう。」

「おはようございます。」

 花のような笑みが恐ろしかった。ほころびかけの色の薄い芍薬のような。はなやかだがきつすぎない、花のような笑みが。思わず目を細めてしまう。眩しいものを見るかのように。いや、実際にわたしには眩しすぎるのだ。しかしそれは直射日光のそれとはずいぶん違うように思える。温室かなにかの、一層なにかを通してそそぐあたたかな眩しさ。

 わたしはそれを、大変苦痛に感じていた。

 テーブルにつきフォークを手に取る。スクランブルエッグをつっつきながらコーヒーをすすり、その美味しさに毎日のことながら驚愕する。まったく、この新鮮な旨味は衰えないのだ。たかが豆を挽いて湯を注ぎ入れただけのコーヒーが。炒っただけの卵や、焼いただけのベーコンや、切り分けただけのパンが。自分がそうするよりまったく旨いものに変わるのが、不思議で不思議でたまらなかった。

「今日はなにかご予定は。」

 静な声で問われる。

「今日は……とくになにも。」

「そうですか。なら家に。」

「そのつもりでいたが。おまえ、どこか出掛けたいところはないか。」

 どこか出掛けたいところはないかだって!この家から出たいのはわたしではないか!わたしが、彼女のいるこの家から脱出したいのではないか。一刻も早く、少しでも遠ざかりたいと、そう思っているのはわたしの方だ。

「海、はこの天気だし。図書館、も休日なので混んでいるだろう。どこかショッピングにでもいくか。なにか買いたいものはないかな。」

 どうして。そんなに媚を売って。何が楽しいんだろうと思うのとは裏腹に言葉が続く。

「服はどうだろう。夏物がいるのでは。あぁ。これから暑くなるから出掛けるのも億劫だろう。そうなると家の中でなにか暇を潰すもの……そう、本とか、どうだろう。なにかほしいものはないかい。」

 くす。と控えめな笑い声が聞こえた。笑われたのだ。必死に会話を取り繕う偽りの平穏を。努力を。笑われたのだ。憎しみが沸く。腸が煮えくり返るようだ。腹立たしい。わたしはおまえのことなんかちっとも思っていない。ただ、沈黙が怖くて……。

「なにがおかしい。」

「いえ。気を使っていただけるのが嬉しくて。」

 気なんかこれっぽっちも。ただわたしは保身のために、わたし自信のために。

「ねぇ。」

 彼女がテーブル越しにわたしの手をとる。そのあたたかさにぞっとした。まるでけがれなんか、わたしの悪意になんか微塵も気づいていないような、赤子のような純真さを保ったまま器だけ大きくなったかのようなあたたかな手。それはわたしの手よりも細く華奢で、陶磁器のように白く、うつくしかった。

「わたくし、あなたに愛されていれば、それだけで幸せなんです。」

 にこりと笑顔を向けられ、その視線をかわしたくてうつむいた。なにか言いたくても思うように言葉が出てこなくて、ようやっと出た言葉がこれだ。


「わたしもだよ。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編「それを愛と人は呼ぶ」 朶稲 晴 @Kahamame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ