第3話 怪獣のバラード

 転換点は、いつも唐突に誰にも予兆し得ない形で訪れる。

 何故なら、それは善意と情熱によって成される偉業の影だからだ。

 だから、ある日俺達に訪れたこの転換点も、因果を辿ればそれは「良かれ」と思う誰かの願いに違いなかった。


 それは昼日中、鮮やかな夏の快晴時、あまりの暑さにキレたリーザの発案による「一週間分の食料買い貯めして夏に引きこもろう」作戦の買い出し中に現れた。

 二本の足で立ち、六本の腕を有する巨大な猪。

 それが街の流れの集約点である大交差点のド真ん中に突っ立っている光景は、驚異を通り越してシュールだった。


 「おい、リーザ。アレ……」

 「はい、バルバロスです」


 神と魔と人が並び立ち、均衡が保たれていた世界、ウィンブルム。

 しかし神と魔と人以外の生物が存在しないわけではなかった。

 アレはそのうちの一つ、人では到底敵わない怪力を誇り、下級の神や悪魔も手こずらせる程の強力な魔獣、バルバロス。

 紛れもない、である。


 「え、いや、なんで?あ、えっと、そうだ木刀」

 「落ち着いて下さいミズハ、木刀は持ってきていませんし、木刀でどうにか出来る相手ではありません」

 「いやそれはそうだけど、でも」


 俺達がなんとかしなければ。

 アレをなんとかしないといけないと知っているのは、俺達だけなのだから。


 言ってる側から大交差点の人々が盛り上がりながらスマホを向けて写真を撮っている。何かのCGか巨大模型か、とにかく何かのイベントだと思っているのだろう。

 無理もない。俺だって何も知らなければそう思うだろう。 


 何故か微動だにしていなかったバルバロスが、フラッシュに反応したのか群衆の一角に向けてゆっくりと動き出した。

 騒ぎは一気にヒートアップし、今正にバルバロスに掴まれようとしている女子高生はラッキーだとでも思ったのか、興奮してキャーキャーはしゃぎまくっている。


 バルバロスの握力は、甲冑を着込んだ人間も一瞬で潰す。


「リーザ、投げろ!!」

「……ッ、はい!」


 リーザが俺を抱え上げ、バルバロスに向かって全力で投げ飛ばした。

 単純な腕力なら俺よりリーザのほうが上だ。間に合わせるにはこれしか無かった。

 しかし、間に合ったところで、ここからどうすれば。

 思考が白熱したまま、バルバロスの掌に飛び蹴りをかます。

 かろうじて女子高生にはぶつからずに済んだが、殆どギリギリだったので勢いで吹き飛ばしてしまった。


 「馬鹿野郎、さっさと逃げろ!」

 「えっ、なに、誰?」

 

 未だに事態が飲み込めていない女子高生は、倒れ込んだまま呆然とこっちを見上げている。この時、再度伸ばされたバルバロスの腕が彼女ではなく俺を掴んだこと、掴まれたのが頭ではなく右腕と右脚だったのは、不幸中の幸いだったのだろう。


 ぶづん、という音が全身に響き渡った。

 痛覚から大量の信号が送り込まれ、脳髄が意識を一瞬でショートさせる。


 俺の体から吹き出した大量の血液が女子高生に降り注ぎ、彼女を強制的に覚醒させた。


 「きっ、きゃぁあああああああああああああああああ!!」


 悲鳴を上げ、失禁しながらも立ち上がることが出来ず、這いずって逃げようとする彼女の反応でようやく周囲の群衆も事態を正確に把握した。


 歓声と興奮が悲鳴と恐慌に変わり、群衆が一斉に避難し始めた。

 これでひとまず最悪の事態は避けられ――


 そこまで思考した所で視界が急激に吹き飛び、バルバロスが急に小さくなった。

 「ああ、投げ飛ばされたのか」と思えたのはオフィスビルの壁に激突してその衝撃で気絶しそうになってからだった。

 

 「ぐぅ、あ……」


 俺の体はウィンブルムの冒険を経て、かなり丈夫になった。

 ここまでやられてもまだ死んでないし、意識がある。

 しかし、ちょっと体を動かすのは無理そうだ。

 なにか、何か出来ることはと探しても薄ぼんやりした視界に映るのは道路標識を引っこ抜くバルバロスだけで残った左手も脚も動かなくて投げる石の一つもなさそうで投槍みたいに飛んできた道路標識の先端を見つめながら頭に刺さったら流石にまずいからせめて横に倒れ込もうとするけど飛んでくるスピードの方が全然速くてあんなに尖った金属がもう目の前に


 ずぶん。


 なにか、重いものを水に投げ込んだような音がした。

 飛んできた標識が自分の目の前1cmで止まっている。

 さっきより少し目の前が暗くて、ふと見上げるとリーザが覆い被さるように立っていた。


 「無事ですか、ミズハ」

 「まあ、死んでないからセーフかな」

 「それは良かった。では逃げますよ」

 「ああうん、一旦木刀取りに戻らないとな」

 「違います。ここから、この街から逃げるんです」


 リーザは基本表情が変わらないので、考えてることが分かりにくい。

 脇腹辺りに道路標識が貫通してる今ですら、見た目は平静のままだ。

 しかし、珍しく今はリーザの気持ちが分かる。

 怒っている。かつてないほどに。


 「逃げるって、そんなわけには行かないでしょ。あんなのほっとけるわけ」

 「何故です。何故ミズハがそこまでしなければいけないのです」

 「何故って、そんなの」

 「どうして、ミズハは誰も見捨てないのですか。もっと早く見捨てていれば、こんなことにならなかったのに」


 ぱたぱたと、リーザの涙が顔に落ちる。

 リーザは基本表情を変えない。喜ぶ時も、悲しい時も、辛い時も、苦しい時も。

 カレーが美味しい時も、ベランダから花火を見た時も、二人で水風呂に浸かった時も殆ど同じ表情で、だから動作やしぐさで感情を推し量ることしか出来なくて。

分かりやすいのは、こうやって涙を流すときだけなのだ。


 「泣いてる時くらいは、悲しそうな顔しても良いんじゃないの?」

 「泣いてなどいません。ばか。ミズハのばか」


 リーザの涙に打たれて覚悟は決まった。

 いつかこうなることは分かっていた。

 それが予想していたよりちょっと早めに来たってだけだ。


 「リーザ、とりあえずそれ抜いて。それで穴は塞がずにそのままで」

 「ミズハ、それは」

 「いいんだ。きっと大丈夫。きっと、何も変わらないから」


 少し戸惑い、やがて諦めたようにリーザが標識を引き抜き投げ捨てる。

 そこにぽっかりと空いた穴から見える中身は蒼色で、リーザの中には蒼の血がみっしり詰まっている。

 体に残された最後の力でどうにかリーザの脇腹に顔をうずめて、蒼色の液体を飲み下す。


 普通の人間でしか無かった俺が、異世界で死ななかった理由。

 それは「神の血を三度飲んだから」だ。


 一度目は致命傷が全快した。

 二度目は人体の限界まで能力が引き上げられた。

 三度目は人間には出来ないことが出来るようになった。


 「人でいたいなら三度目は飲むな」と火神蜥蜴サラマンドの族長に言われていた。そしてこれは四度目になる。

 でも、こうなったら仕方がない。きっと、一度目の時点でこうなることは決まっていたのだ。

 どろりとした重い蒼色が喉を通り胃に落ちたのを感じ、変化が現れたその一瞬。

 ほんの少しだけ後悔した。


 溶ける。胃から下の内臓が溶けて一つの塊になっていく。

 全ての臓腑が統合されて、それが全身に行き渡る。

 呼吸が止まり、心音が停止した。

 変化はやがて骨にも及び、用済みになった神経も後を追う。

 脊髄をバイパスに侵蝕は脳に至り、最後に眼球へと流れ込む。

 俺の内側は蒼と肉の混合物で満たされて、人だった頃の名残は皮だけになった。


 「……ミズハ」

 「ああ、うん。大丈夫。なるほど、こんな感じなんだな、リーザの世界は」


 リーザのコバルトブルーの瞳に、俺の顔が映り込む。

 髪も瞳も変わったけれど、それは確かに記憶の中にある自分の顔だった。

 だから、この形をちゃんと覚えておこう。

 これからも、リーザの側に居続けるために。


 「さて、と」


 立ち上がろうとして、右腕と右脚がないのを思い出す。

 断面に少し力を入れると、と新しいのが生えてきた。

 ただ、ちょっと見た目が硬そうで、指が四本で爪が長くてついでにヒレも付いていた。なるほど、人体をイメージせずに作るとこうなるのか。

 これは色々と慣れるまで大変そうだ。けど、今は丁度いい。

 これなら、あの猪を殺し切れる。

 

 「リーザ、ちょっと退いてて」


 右脚を前に出し、意識を集中させる。

 体内の液体を流動させ、右脚と腕に40%ずつ集めて押し固める。

 猪は、何かを感じ取ったのか標識のあった場所から動かず、こちらを見ている。

 さっさと逃げれば良いものを。


 右脚のを開放して、音速で猪に肉薄する。

 秒速340mで動く視界を、今度はちゃんと認識できた。

 猪の横をすれ違いざまに、右腕を寸分の狂いなく振り抜く。

 と厚紙を切ったような感触がして、振り返れば猪の下半身だけが地面に残り、上半身は緑の血を撒き散らしながら空中を舞っていた。

 

 「……ごめんな」


 そのまま地面に落ちた猪の頭に、供養の意味で謝罪を呟く。

 きっと、こいつはただ迷い込んだだけなのだろう。


 「ミズハ」

 「ああ、リーザ。そっちは大丈夫?」


 駆け寄ってきたリーザの体を見ると、さっきの穴はもう塞がっていた。

 ウィンブルムの神は基本的には不老不死なのだ。


 「私は大丈夫です。ですが」

 「ああうん、これはちょっとマズいね」


 大半の野次馬は逃げ去ったとはいえ、幾らかの人は残っていた。

 彼らは皆一様に押し黙り、ただ遠巻きにこちらを見ている。

 何人かはスマホをこっちに向けてるけど、インスタ映えとかではなさそうで。

 それは紛れもなく、怪物を見る眼差しだった。

 

 「仕方ない、行こうリーザ」


 咄嗟にリーザの手を握り、その場を走って逃げ出した。

 うっかり右手で掴んだことに走ってる途中で気づいたけど、握り返してくるその手の力は、いつもと何も変わらなかった。


 

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