第37話

水が冷たい。

最初に感じた冷たさによく似ている。


もう終わるという時に感じる、あの寒気だ。

死にそうになったときに感じる、あの寒気だ。

それが、今周りに充満している。


僕は塵となって消えていく街の中を、泳いだ。


「翡翠!」


彼女がいるはずの、塔を目指して。




 その雨は生きてきた中で一番強く振った。

 山がその水を飲み込むより早く、森がその水を受け止めるよりも多くの水が天から降り注いだ。足元はぬかるみ、その窪地はあっという間に腰までの高さのある池へと変わっていった。


「雨で水かさが増したナ。これでいいカ?」


滝のような突然の雨の中、僕は雨音に叫んだ。


「うん、大丈夫だ。ありがとう、雨音。」

「ウンウン。ではいくがいイ。」

「まて、碧。」


池の中に足を踏み入れた僕に、ハクが続く。


「ハク。」

「たとえ水かさが増しても、水源が枯れているうちは水源京の崩壊は止まらない。もし水源京が完全に崩壊してしまったら、あの異界にあるものすべてがこの世から消えてなくなる。もし崩壊時にお前がそこにいたら、お前は死んでしまう。」

「……」

「だから、オレも行く。水源京が崩壊する時になったら、たとえ引きずってでもお前をここに連れ戻す。」


 その赤い視線は、夕日よりもまっすぐ僕の瞳に向かってきた。きっと彼は、もっと別のことを言いたかったに違いない。それでもそうじゃなくて別の言葉を選んだ彼に、僕は少し胸が痛くなった。


「ハク……ごめん。迷惑を、かけるよ。」

「……気にすんな。おまえにゃいろいろ振り回されているからな。今更だよ。」

「……ありがとう。」


ハクは僕の体に巻き付き、言った。


「じゃあ、さっさと行こう。時間がない。」

「うん。それじゃあ、雨音、行ってくる!」

「ウム。ではまたナ。」




「で、何故千恵は見送らなかったのダ?」

「……」


背後の木影からゆっくりと現れた千恵に、雨音は駆け寄る。


「それに、あの薬、どこから出しタ?ここに来る前に碧に渡した、『泡薬あわぐすり』。水の中でも呼吸ができる、あの薬ヲ。」

「……随分と昔から、預かっておったのだよ。」


千恵は雨に打たれる池の波紋を眺める。


「助けたくてもどうすることもできなかった男から、な。」

「?」


千恵は雨に打たれる自らの葉を撫でる。


「……雨音、さっき汝は言ったな。何故見送らなかったのか、と。

 我にはな、送り出す資格はないのだ。

 こうなることを、分かっていてずっとこの15過ごしてきたのだから。」

「15年?」

「ああ。

 碧の母は──我に、彼を人間として育てたいと言った。

 だからここではなく、精霊の少ない都会に居を移していたのだ。」

「……それで?」

「結果は見れば明らかだろう。碧は、ちゃんと人として成長した人間となった。

 、な。」


雨音はくるりと踵を返し、地を蹴って空に舞う。


「ふぅん。碧からあまり家族の話を聞かないと思ったら、ことカ。」

「精が見えるなど、普通の術者ではない。それは正真正銘、神霊の領域・・・・・。碧の母はそれを取り除きたかったようだが、我はそうさせなかった。

 我は碧が人間として生きることを支援すると言っておきながら、その力だけは消させなかった。」


千恵は雨を見上げる。


「我は賢者ではない。ただの命だ。傲慢なのだ。

 翡翠を助けるためには、人であって人間ではない存在が絶対に必要だ。

 そして──碧は迷わずその道を選ぶだろう。

 だから我には、見送る資格がないのだよ、雨音。」


雨はその胡乱な瞳を千恵に向ける。


「ふぅん。千恵が何を考えているのかは分からないが──」


「それはあまり、面白くは、ないナ」



「いた!!」

「おい、ありゃあ時間がねえぞ、碧。」


 僕は崩れ始めた塔の最上階にいる翡翠を見つけた。その姿は祭りの時のような、力強いものではなかった。色が抜けた寒天のような朧なものだった。

 翡翠は僕を見止めるなり、目を見開いて叫んだ。


「なぜ、ここに来た碧!!」

「助けに来たんだ!」


僕も負けじと叫ぶ。水が肺に入って少し声が重くなる。


「バカなことを言うな!私はこの都の主。この都とともに運命を共にするものだ。ここは今すぐにも崩れて蒸発してしまう。一緒にいたら、お前も巻き添えを喰らってしまうぞ!!」

「いやだ!僕は絶対にあきらめない。まだ日付が変わるまで時間がある。それまでに、一緒に助かる方法を探そう!」

「やめろっていっているだろう!!」


 彼女は部屋の奥に引きこもろうとして、脚を止めた。目の前に、痛々しい視線を向けているハクがいた。

 翡翠は地団駄を踏むときのように歯を食いしばり、彼女は部屋に降り立った僕に言う。


「もう、やめてくれ……お前と一緒にいると、捨てたはずの思いが、私にのしかかってくるんだ。お前を見ていると、私は情けなさでつぶれそうだ。

 みっともない女だろ?進んで人柱になったくせして、しかもそのころの記憶をなくしていると言うのに、400年も前の思いを捨てきれないんだ、私は。」

「みっともなくなんかない!

 どんなに悩んだっていいだろう!思いを捨てる必要なんかないよ!だって、だって、君は、今ここで生きているじゃないか!!」

「見ろ、この姿を!!」


翡翠は両腕を広げ、その後ろの壁が見える体を露わにする。


「これを、見ろ!これの、どこが、生者なのだ!どこが人間なのだ!!

クラゲとも見分けのつかないこのような存在に成り果てて、なにが──生きていると言えるのか。これが私だ……神霊の行き着く成れの果て。命が消えるその間際。人間として生きた“わたし”は死んだ!!」


僕は一歩彼女に近づく。


「人間も神霊も関係ない!君はいまここに生きている!

だったら、いくらだってやり直せる!

いくらだって願いをかなえるチャンスはある!」

「そんなことは、もうできない!私は──」

「もし君がそれでもできないって言うんなら、僕が叶えてみせる!」

「──!」


足に触れる苔が、僕に待てと絡みつく。


「君をこの籠の中から連れ出して、紅葉狩りにも花見にも、どこにだっていってみせる!」

「……だめだ。やめろ。」


それでも僕は、彼女の前に立つ。


「白い雪を被った富士だって、遠いあたたかな海にだっていってみせる!」

「……言うな。言わないでくれ──」


目と鼻の先に彼女の顔を見据えて。


「映画にも遊園地にも、見たことがない人の世界に、君を連れて行ってみせる!」

「それ以上、私に──私に、有り得もしないものを、できもしないものを見させるな!」


お互いの息が、水の流れが伝わる程近くで、僕は言った。


「いいや、できるさ!

 だって僕は翡翠の、友達だから!」


 翡翠は、唇を震わせた。必死で湧き上がるモノを押さえつけるように、強く胸を押さえつけながら。


「何が、友達、だ。そんなの、何の根拠にだって……」

「いいやできる。だって僕たちは、一緒に花火を見に行けた。それに──」


「翡翠は、友達のために、神霊になったんじゃないか。」

「──!」


 彼女は大きく息を吸った。そしてゆっくり息を吐き出した。

その息は震え、その声はか細かった。


「まったく、本当に自分勝手なやつだなぁ。

 私は400も年上だぞ。

 もっと敬うというか、もっと、空気読むことはできないのかなぁ。

 なんで、こう、まっすぐ我儘なのかなぁ。」


彼女は膝をついた。


「……そんなこと言われたら、あきらめられなくなるじゃないか──」



その肩は小さく手か弱くて、今にも押しつぶされそうなほどだった。

その姿は神霊でも400年を生きた大人でもなくて、

ただの、僕と変わらない普通の子どもだった。

そう。彼女は一人の、女の子だった。



「ねえ、翡翠。今度はどこにいこうか。」



彼女の頬には、透き通るような雫があった。




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