第36話


 ガタンと、硬い音がした。

木箱が岩にぶつかる、ひびの入る音。

つづいてカラコロと箸の転がる乾いた音が、遠くで聞こえた。


僕は、弁当箱を落とした。

目の前に広がる光景に、愕然として。


「翡翠──!」


僕は駆け出し、そのぬかるんだ大地に叫んだ。


返事など、なかった。

僕は手をかざそうとして、それをためらった。

なぜなら、そこには水たまりなどなかった。手で掬うこともできない、金魚の入ったあの小袋程度の水しか、そこにはなかった。

触れてしまえば、それだけで水が土に染みこんでしまいそうなくらい、水源京は小さくなっていた。


「そんな──」


 僕は心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じた。

 生きた心地がしなかった。

 まだ、猶予はあると思っていた。たった一年しかなくても、それでも、まだ一年あると、そう思っていた。だから水源京が干上がってしまったことに、僕はどうしていいか分からなくなった。


「ハク──」

「…………」


共に来た相棒は、力なく視線を逸らした。

だから、僕は気づいた。

彼は、こうなることを知っていた、と。


「は、ハク。これは……これは、どういうことなの!?」


震える声で尋ねた僕に、彼は寂しそうに言った。


「……千恵の元に、行こう。」





「来たか。」

「どういうことなの、千恵!?水が、水源京が、なくなっていた!まだ、まだあと一年はあるって、そう言っていたじゃないか!」


 僕は千恵を見上げ、まくし立てた。彼女は梅ノ木の上でゆらりと僕に視線を向ける。


「いや。まだ、なくなってはいないさ。外からでは認識できぬほどに、小さくなっているだけだ。」

「じゃ、じゃあ、翡翠は!?翡翠は、無事なの!?」

「無事──か。」


彼女はそういうと天を見上げ、そよ風のように声を漏らす。


「それは違うだろうなぁ。」

「!!」


僕の背筋に、寒気が走った。


「じゃ、じゃあ今すぐにでも助けなきゃ!お願い!千恵!どうやったら彼女を助けられるの!?教えてほし──」


 千恵は僕を一瞥した。僕はその瞳に、言葉が出なくなった。

今まで一度も見たことがない、静かすぎる瞳だった。

 雪に閉ざされた山のような、静かで寂しい視線だった。


 僕は彼女が何を考えているのか分からなかった。

 分かったのは、その瞳はひどく悲しく、けれど同時に畏れを抱くものだったということだけだ。僕はただ、何もできずに彼女の言葉を待つしかなかった。

 彼女が言葉を発したのは、僕らの間に旋風が吹いた、その後だった。


「──本来なら、1日出て行くだけではそうはならない。ただ、もうあの水源京はほぼ枯れていた。雨音あまねの旅の道行きが変わってから、あそこは水源で無くなった。あの水源塔の『開門』はな、翡翠が自身の精を使って行っていた、『術』だ。」

「術──」

「分かるか、碧よ。

 あの水源京は彼女“ありき”の場所だった。だが、彼女がいなくなったことで、水源京は限界を超えてしまったんだ。今日──8月31日が終わるころには、あの都は消えてなくなるだろう。」


 僕は言葉が出なかった。

 だって、それじゃあだって!

 花火を見に水源京の外に連れ出してしまったのは、彼女を殺してしまうようなものだったじゃないか!

 それに気が付いて、僕はどうしようもないくらい後悔した。

 彼女に死んでほしくなくて──見殺しにしたくなくて、僕は彼女を外の世界に連れ出したのに、それが逆に彼女を殺してしまうことになるなんて、笑い話にもならないじゃないか!!

 彼女がやけにはっきりものを言ったり、いつもらしくなくお礼を言ったり感情を表に出したのは──こうなると、分かっていたからだったのかもしれない。


「──まって。」


 僕は、あることに気が付いた。


「今、千恵は翡翠が1日水源京を出ていったことを知っているような口ぶりだった。どうして、知っているの?」

「それはそうだろう。翡翠の姿をあのように人間に近いものに戻したのは、我だ。

 我は、翡翠に言ったのだ。汝は後悔したままで終わるのか、それとも“幸せだ”と思ってゆくのか、どちらがいいのか、と──。」

「――!」


僕は彼女の幹に触れ、強く揺さぶった。


「な、なんで!?どうして、翡翠が死んじゃうことを分かって、そんなことを──!」

「では、汝はあのまま翡翠が出てこなくてもよかったと、そういうのかい?」


花の甘酸っぱい香りが、僕の鼻を突いた。

彼女のその淡い薄紅色の瞳が、僕の心を揺さぶってくる。


「そ、それは……ちがう……けど──」

「なんだなんダ。また面白いお話カ?」


 頬に落ちた小さな雫。

小雨と共に現れたのは、雨音だった。


「またお前か……」

「ム。なんだ、ハク。そんなにワタシに会いたかったのか?」

「んな訳あるか!まったくお前は……いつも、タイミングでやってくる……」

「ワタシは雨だ。お前たちの気分で降っているのではないからナ。で?なんのお話なのダ?」

「翡翠の水源京が、もうなくなる寸前だ、という話だ。」

「なんと!」


千恵の言葉に、雨音が目を丸くする。


「そうカ。いよいよその時カ。だが仕方あるまイ。全ては流レ。命の行き着く先を、変えることはできヌ。ワタシが風に逆らえぬように、ナ。」

「……変えることはできない……」


 その言葉が、僕の胸を冷たく刺す。

 そうだ。どんなに頑張っても、命はいつか消えるものだ。

 終わるモノなんだ。その終わりを、排除することはできない。

 僕は彼女を死から救うことはできないんだ。


──そんなこと、分かっている。

分かっているんだ。そんな当たり前のこと。

けれど、けれど!

人であることを諦めた彼女を、僕はそのままにはしておけなかった。

彼女は、本当は生きたがっている。

それは、はっきりと伝わってきた。

それを知って何もしないなんて、友達なら、出来ないじゃないか。


 僕は必死になって考えた。どうすれば彼女を救えるのかを。

一刻も猶予のないこの状況で、今まで生きてきて間違いなく初めて脳を100%使って考えた。

 そして、僕は少しだけ伸び出た藁に縋った。


「ねえ!もしかして、水源京に入るだけなら、できないかな?」

「ん?どういうことダ?」

「さっき千恵は水源京はまだ残っているって言った。水源京の入り口は、水たまりのように小さかった。けれどその中は街が1つ収まる程広かったんだ。だったら、あんな指先適度の水になっていても、中は広いはず。僕が入れる大きさの入り口さえできれば、水源京には行けるんじゃないのかな。」

「確かに、汝の言う通りだ。水源京の入り口さえできてしまえば、まだあちらにはいくことができるだろう。」

「なら!まだ望みは消えていない!雨音!」

「ん?なんダ?」

「お願いだ!雨で──あの入り口を、僕が入れるくらいの大きさにしてほしい!!」


 僕の言葉に、ハクが慌てた。


「まてまて!碧、お前、何を言っているんだ!雨音は神だぞ!?現象なんだ!!そんな人の意志で現象を捻じ曲げる“神頼み”をしたら、代償に何を要求されるか分からないぞ!!」

「けど、今はそれ以外に水源京に入る手段が思いつかないんだ!」

「~~!!」


ハクは耐え切れなくなったように歯ぎしりをして、叫んだ。


「いや、だから!そもそも、なんでそんなに水源京に入ろうとしてんだよ!なんでまだ助けようとするんだよ!……だって、そんなことをすれば──おまえは、神霊になってしまうんだぞ!?」

「──」


 ああ。やっぱり、ハクは、知っていたんだ。

彼女を助ける方法を。

雨音があの日言っていた、翡翠を消滅から救う方法を。

ハクは言った。心臓を吐き出しそうなくらい、苦しい声で。


「──もう、あいつは死んでしまうんだ。確かに、あいつは生きたがっている。人間として生きていきたいと、そうまだ思っている。だけど──それはかなわない夢だ。どうあがいても、この運命は変えられない。

 だから、銀灰は苦しませない道を選んだ。

 オレは──翡翠に死んでほしいなんて思っちゃいないし、助けられるなら助けたい。俺だって友達だ。

 だが記憶を失う苦しみは──その恐怖は、耐え難い。

 オレにとっては──、お前を忘れることが、どんなことよりもつらい。」

「ハク……」

「だから、オレには分かる。自分が大切だと思っていることを忘れてしまう恐怖とその絶望が。

 だからもうあいつは、楽になって──そうなっていいと、思うんだ。

もうこれ以上、何かを忘れることに怯え、手に入れられないものへの憧れに潰される必要も、ないんだ。だったら、もう──」

「でも、まだ彼女は生きている!」


 僕は言った。


「確かに、そうなのかもしれない。これ以上彼女に関わるのは、彼女にとってつらいだけかもしれない。でも、でも、それを辛いとそう思うのは──まだ、彼女がそれを諦めていないからじゃないか!」

「──」


僕は雨音に向かって言った。


「僕は翡翠を、助けたい。だから、協力してほしい。」

「……お前が行って何かできるのカ?」

「分からない。けど、このままお別れなんて嫌だ!」


そして大きく深呼吸してから、さらに続けて僕は言った。


「もし、助けてくれたのなら、君のために一度だけ力を使おう。」

「おい碧!!」


真っ青な顔をするハクの隣で、雨音が笑う。


「あはははは!言うじゃないカ。神に向かって上から目線の商談とはネ。

 だが、イイ。それでこそ、碧ダ。」


彼女はその小さな傘を広げ、スキップをしながら僕に近づいた。


「一つ言っておくゾ。ワタシたち神は己自身の精を自在に操れル。ただ、己の現象を捻じ曲げることはしなイ。それは己の存在の否定だからダ。」

「うん。知っているよ。」

「それを我らにさせるということは、我らの否定ダ。それでも、お前は望むのカ?」


僕は少しだけ考えてから、その僕を飲み込んでしまいそうな曇天の瞳に向かって言った。


「──僕は、確かに『神』の有り方を否定することになるかもしれない。

君の考えていることと、僕の考えは相容れないものかもしれない。

 けれど──よ。」

「フ」


 雨音は口元を緩ませ、吹きだした。


「フハハハハ!ナンダそれは!あははは!!分からなイ!全く分からなイ!何を言っているのかワカラナイゾ、碧!

 ──だが、面白イ!面白いナ!」


雨の中で、少女は踊り、そして言った。


「ああ。それでこそ、お前ダ。。だからワタシはお前が好きダ。

 いいだろう。

 お前のために、ワタシは神の力を振るってやろう。

 ──だが、ワタシのこともある。だから、特別なお前に、今回だけは特別だ。」

「え?」


彼女は笑い、雨粒が弾ける。


「一度きりの、雨の神の人助けだ。」



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