第35話
「──翡翠!」
僕は気が付いたら駆けだしていた。山の裾で彼女を待とうと思っていた僕は、彼女が先に待っていたことに驚いた。
そして彼女と対面した時、僕は息をのんだ。
彼女は、美しかった。
彼女が着ていたのはいつもの桔梗色の着物ではなく、彼女の瞳と同じ鮮やかな藍色の着物だった。その深い青が彼女の白い肌を一層際立たせ、真珠のような輝きを放っていた。
そしてその濃い藍色の瞳は一層深く、そして力強かった。
ああ、きっと彼女の本当の姿はこの姿なのだろうと、僕は感動した。
「……なんだ。何か、おかしい……のか?」
じっと彼女を見つめる僕を見て、翡翠は自分の格好を確かめる。
「あ、ああ、いや、なんでもないよ!」
僕は慌ててそういってから、素直に感想を述べた。
「うん。──とても、綺麗だよ。」
「それは……」
彼女は少し困った顔をして口をつぐもうとした。けれど、何かに気が付いたかのように再び口を開き、彼女は言葉をつづけた。
「……ありがとう。」
「──」
その静かで小さな声は、僕にとって衝撃だった。今まで彼女が己の感情を素直に言葉にしたことは、一度もなかった。
やっと、彼女の心が見えたような、僕はそんな気がしたんだ。
その言葉に、僕は高揚し、うれしく思った。
その言葉は、僕の心をつかんで、放さなかった。
「よし、じゃあ、行こうか!!」
僕は彼女の手を取って、駆けだした。
◇
僕はいろいろな計画を立てていた。涼と紅葉が僕にしてくれたように、翡翠がどうやったら楽しいと思えるかどうかを、必死になって考えた。なにしろ僕自身祭りに行くのは初めてだ。けれど本当に馬鹿なことに、彼女に何時から祭りが始まるかを僕は伝え忘れていた。そのせいで、僕は彼女が来るであろう時間を想定して、幾通りかの計画を練らなくてはいけなくなった。
「……花火は夜に上がるモノだろう?だから……夕刻になる前に、いるようにした。」
何時からあの場所で待っていたのかという僕の問いに、彼女はそう答えた。僕が待とうと思ったのは15時だ。その前からいたと言うのだから、それはもうお昼だ。
「そっか……ごめん。次は、ちゃんと時間伝えるようにします!」
「次……」
翡翠は一瞬目を逸らしてから、小さく穏やかに言った。
「そう、してくれ。」
で、結局幾通りかの計画を立てていたのだけれど、最初からその計画は頓挫した。それは悪い意味ではなくて、いい意味で、だった。
翡翠は目に映るすべてに興味を示した。ある程度の時代の変化は精霊や水を通して知っていたと彼女は言ったが、カレーを見て驚嘆していたように、ほとんどのことが彼女にとっては新鮮だった。
「なんだ、あの……道に立っている柱は。何かの魔よけなのか?」
「ああ、あれ?あれは、『電柱』だよ。家に電気を送るやつ。」
「デンキ……伝記?」
「いや、多分想像しているものとは違うと思う……」
走る車に、アスファルトに、家の外観に、彼女は驚いた。僕は彼女が尋ねるものすべてに応えた。でも彼女の問いに全て答えられたわけじゃない。電気が何か、と尋ねられて、僕は上手く説明できなかった。
けれど、彼女が一番驚いたのは、その人の数だった。
道を埋め尽くす人だかり。老若男女問わず一つの場所に向かって歩くその姿は、彼女にとって新鮮だった。
「こんなにも、人は祭りにいくものなのか。」
その言葉には、驚嘆すると同時にどこかうれしいような、安堵するような響きがあった。
「やっぱり山から会場は遠いから、もうお祭りは始まってるね。」
「む?花火は……どこだ?」
きょろきょろとあたりを見渡す彼女に、僕は説明する。
「ああ、いや、まだ花火は上がってないよ。あと1時間くらいしてからかな。」
「そうなのか。」
「うん。だから、それまで祭りを楽しもう!!」
「楽しむ……具体的には、どうすればいいんだ?」
「それは──」
僕は屋台を眺めた。
射的に水風船、投げ縄に金魚すくい……綿あめにホットドッグ、あっ、唐揚げもある。
僕はかつて自分のためにためていたおこずかいを握りしめて、翡翠に言った。
「よし、片っ端からいこう!!」
◇
会場から離れた、小さな丘の上。背後の林から涼し気な鈴虫の音が聞こえてくる。
僕たちはその公園にあるベンチに座っていた。
「いやー、遊んだ遊んだ!僕も初めて自分からこのお祭りに参加したけれど、とっても面白かった!翡翠は、どう?」
「そう、だな……」
「どれが気に入った?」
「うむ……」
翡翠はその細い顎に指を当て、少し考えてから答えた。
「あの、タコ焼きなるものは旨かった。特に、あのやわらかい生地が。」
「あれかぁ。確かにおいしかったなぁ。家で作るとなかなか柔らかく作れないし、ああいう少し濃いめの味って、屋台でしか味わえないんだよねぇ。」
「ほう。お前にも、作れないのか?それは、いい経験だった。」
「む、なんか悔しいな。」
「いや、他意はない。気を悪くしたのなら、許せ。」
「そんなことはないよ。うーん、じゃあ、今度お弁当にタコ焼き入れていく!」
「アレを弁当に入れるのか?随分と……献立が難しそうだ。」
「確かにね。」
「お前は、何が楽しかった?」
翡翠の問いに、僕は言葉を詰まらせた。
だって、全部が全部楽しかったんだ。翡翠と回ったどの屋台も、どのゲームも、楽しくて1つを選ぶことが出来なかった。
「ええ~。全部楽しかったから、ひとつなんて──」
「私は1つ選んだぞ。」
「うっ……じゃあ、……ふふ。金魚すくい。」
「……」
「あ、なんで顔をそむけるのさ~翡翠~」
「お前、意地が悪いぞ。」
彼女は目を細めて僕を見る。
「いやあ、だって掬えないからって、掬わずに精を操ってお椀にいれようとしているんだもの。急に金魚が一列になってお椀めがけて飛び込んできたんだもん。面白かった。」
僕はその時の様子を思い出して笑みをこぼす。
周りの人たちは当然のことながら、屋台のおじちゃんなんか顎が外れそうなくらい口をあんぐり開けていたっけ。
「あんな薄い和紙でどうして金魚を掬おうなんて発想が生まれたんだ。できるわけがないだろう。」
「そうかなぁ。僕はほら、ちゃんと捕まえたよ!……一匹だけだけど……」
「似たようなものじゃないか。」
「確かに!」
翡翠が見せた一匹の金魚を見て、僕は笑う。結局僕らは一匹ずつ金魚をもらって、屋台を後にした。鱗が朱色に輝く、美しい金魚だった。その金魚が、海のような彼女の着物の上で、優雅に漂っている。
「……それで、どうしてここに来たんだ?祭りの中心からは、わりと外れているぞ。」
「うん。友達に聞いたら、ここがいい花火ポジションなんだって教えてくれたんだ。」
「ぽじ……なんだって?」
「あっ!ほら、始まったよ!」
◆
どうして行こうと思ったのか。
そんなのは、分からない。
どうして花火を見たかったのか、もう朧げにしか覚えていない。
誰かと見たかったはず……なんだ。
それをもう、私は忘れている。
なのに、私は、こうして碧と花火を見に行くことにした。
幸い、千恵のくれたあの薬は私の姿を、元に戻した。
……はずだ。
私はもう自分の元の姿なんて覚えていないからよくわからない。
碧がじっと私の姿を見ていた時は、やっぱり失敗しているんじゃないかと思った。
けれど彼が言った言葉は、拒絶されるよりも、私の心臓に突き刺さった。
──胸が痛い。なのに、胸が熱い。
いつだったか、遥か昔に、そう言われたような気がした。
不思議と、その痛みに悪い気はしなかった。
ただ、何と答えればよいか分からなかった。
自分のこの痛みが何かも分からないのに、何を言えたものかと。
けれど、そう。
これはもう今日でしかない時だ。
二度と、こんなことは私にはできない。
「汝は後悔したままで終わるのか、それとも──」
彼女の声に押されて、私はたぶんこういうのが適切だろうという言葉を紡ぎ出した。
それがどうして適切だと思ったのかは分からなかったし、今もよくわからない。
けれど、その言葉を吐き出したとき、私の肩は、少し軽くなった。
碧が案内してくれた「屋台」には、私の知らない食べ物や出し物がいくつもあった。てっきり見世物小屋のようなものがあるかと思ったが、そういうものはなかった。ただ、想像していた以上にそれらは奇妙で単純で、そして間近にあった。手に触れるものの感触はどれも新鮮で、耳に届く音は騒々しいが鬱陶しくはなかった。
そして夜空に打ちあがったそれは、満月よりも明るく、天の川よりも強く輝いていた。
1つ1つの光は星の瞬きのように一瞬だが、それらが束になって咲かせる花は、目に焼き付いて離れない。
そしてその花は、一輪だけではなかった。
幾つも幾つも打ちあがる花火は、そのどれもが色鮮やかで、どれもが違う形をしていた。
彼岸花のような深紅の花。
菫のような淡い青。
野原に咲く鮮やかな菊の色。
咲いたばかりの睡蓮のような桃色の花。
夕日に照らされた黄金色の稲穂。
そのどれもがはかなく、けれど力強く、夜空に散った。
身体の奥底にまで響くその音は、同時に心臓をも強く打った。
夜の帳に咲いた熱い花は、私の頬をほのかに温めていた。
◆
翡翠と僕は、花火が全て打ち終わるまで、一言もしゃべらなかった。
彼女は打ちあがるすべての花火を一つ一つ、その藍色の眼に捉えていた。
落ち逝く全ての花を、掬い取ろうとするかのように。
すべての花火が打ちあがった後、僕は翡翠に尋ねた。
「ねえ、翡翠。今日は、楽しかった?」
「ああ、そうだな。楽しかったよ。」
「よかった~!」
翡翠の声は少し小さかったけれど、その言葉が聴けて僕は安堵した。もしここで「いや」なんて言われたら、なんのために彼女を水源京から連れてきたのか分からない。
それに──
「──でも、きっとそういってくれると、思ってた。」
僕の言葉に、翡翠は言った。小さく。けれど、今まで一番、あたたかな声で。
「なんだそれは。……全く、自分勝手なやつめ。」
翡翠が見せたその微笑みは、初めて見た花火よりも美しく輝いていた。
◆
山の麓。今日一日の終わり。
碧は家に、私は泉に。ただ歩いて帰るだけだ。
何も特別なことはないのに、私はその山を見て思わず足が止まりそうになる。
星の瞬く夜空の帳が、漆黒の山に覆いかぶさっている。
けれど、その山を見た瞬間、私は自分でもわからず口角が上がってきているのを感じた。
よく考えたら、自分がいた山を見るのは初めてだ。
嗤える話だ。
自分の家すら、私はどこにあったのか、分からなかったのだから。
碧は帰路の最中、私に様々な話をしていた。祭りの起源や、私が人間であった頃の花火とは色が鮮やかになって多種多様になったことなど、必死で書き綴ったメモを見ながら私に教えてくれた。
よく似ている、と、何故か思った。
誰に似ているのかもう思い出せないが、ああ、そう、「あの人」という人に、きっと似ているのだろう。
いつだったか、その人は私に私の知らないものをたくさん言って聞かせた。
その内容すらもう覚えてはいないけれど、きっとその時の「あの人」の顔は、今の碧のような輝いた瞳を持っていたに違いない。
碧は別れ際、私にあるものを手渡した。
「あのお祭りで、とってもきれいなものがあったから。」
それは、真っ青なガラスが1つついた、耳飾りだった。
何故こんなものをと尋ねると、碧は答えにくそうに頭を掻いた。
「いや、その、どういうわけか、友達が絶対買っていけってうるさくて。
や、やっぱり迷惑だったかな?僕よくわかんないんだ。紅葉に聞いても具体的に答えてくれなくて、全ては勢いよ!とか言われても、どういうことなのか……」
私は、そのガラスを星の光にかざした。どこまでも透き通る空のような蒼さ。それが、星の瞬きに合わせて涙のように煌めいた。
私は着物の袖を強く握って答えた。
「いや、迷惑ではないさ。」
私は、それを言うので、精一杯だった。
碧は私の言葉にホッと胸をなでおろし、すぐさま私に言った。
「じゃあ、こんどは紅葉狩りにいこう!」
「え!?またどこかに行くのか?」
「うん。だって、楽しかったでしょ?」
「それはそうだが──」
私の言葉を待たずして、彼は駆け出した。
「約束だぞ!」
その悪戯な笑顔は今日見たどんな花火よりも強く、太陽のように輝いていた。
私は、反論するのを止めた。
あんな太陽に抗ったって、どうしようもない。
あんな花火を見て、気分が悪くなることなど、ない。
「わかったわかった。本当に、自分勝手なやつだよ、お前は。」
私はそういって、彼を見送った。
私は一日が経つごとに、何かを1つずつ忘れていく。
まだその自覚があるうちはいい。
きっと、その自覚がなくなる時が、すぐに来る。
けれど──
最期の瞬間まで、今日みたその花は──覚えていようと、そう誓った。
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