第34話


 誰か、来た。


森の中に漂う、鼻の奥をくすぐる花の匂い。

捉えようとしても捉えられない。

それでいて、その気配の方はこちらを引き寄せようとする。


無視できない──いや、無視をさせないようにするとき、決まって彼女はこの気配でやってくる。


「……やはり、来たか。」

「おや。我が来ることを知っていたのか、翡翠。あれから40年、一度も会ってはおらぬというに。“知らせ”も精を通しての伝言でしかやっておらんぞ。」


 私は水源塔の最上階で、その来訪者と対峙する。彼女が何を考えているのかは分からないが、何をしに来たのかだけは、私にも分かる。枝葉の髪を揺らしてうっすらとほほ笑むその神霊を、私は疲れた瞳で睨み付けた。


「ふふ。随分と険しい顔だな、翡翠よ。」

「それは当然だろう。何故今更になって、私の心を逆撫でするようなことをする。」

「おや、それはどういうことかな?」


なおも穏やかな表情を見せる彼女に、私ははっきりと言った。


「──碧をこの水源京に落とすよう仕向けたのは、お前だろ。千恵。」




「──ああ。うん。そうなんだ。だから本当にごめん!」


 受話器に向かって頭を下げる僕に、電話の向こうにいる友人は笑って応えた。


「「あっははは。そんな謝んなよ、碧。いいって事よ。だって、どうしても一緒に花火大会に行きたい人がいるんだろ?」」

「うん。だからその……一緒に行けなくてごめん。紅葉にも、謝っておいてほしい」

「「オッケーオッケー。おーい紅葉―、今日やっぱり碧一緒にはいけないってさ~!」」


涼が家の中にいるのであろう紅葉に僕の都合を伝えた。その言葉に、僕は少し驚いた。


「ん?やっぱり?僕がいけないかもしれないって分かってたの?」

「「ん?おう。だってお前、この1か月の間、花火大会の話になると妙にソワソワしてたしよ。ふふふ。なんとなーく、俺ら以外に一緒に行きたい奴でもいるんじゃないかって思ってよ。だって中学最後の花火大会だからな~。ふふ。」」

「ん?なんで涼笑ってるのさ。」

「「いやーだってよー。あのお前がどーしても一緒に行きたい相手がいるって言っているんだ。そういう人が、お前にもいたのか~って思ってさ~。」」

「“そういう人”?」


眉を顰める僕に、受話器は勝手に盛り上がっている。


「「おいおいおい。今更隠す必要ないだろ?いやまあ、あんまり根掘り葉掘り聞くのは良くねーけどさ。ま、子どもなんだし?思春期ですし?そーいう話に興味ないわけではないからね!」」

「??」

「「いや、だからさ。その一緒に行きたい人、好きなんだろ?」」

「え?」


 僕はしばらく涼が何を言っているのか分からなかった。が、時計の秒針が10回ほど動いたところでようやくその言葉の意味に気付き、受話器を空中で踊らせてしまった。

 あわててキャッチした受話器を耳に当て、僕は弁明する。


「いやいやいや。そんなわけではないよ。翡翠はそんなんじゃなくて──」

「「ほー、『ひすい』って名前なのか~。そしてやっぱり女の子であると。」」

「あっいや、その、確かに女の子だけれど、翡翠のことが好きとかそんなのじゃなくて、友達で──」


 友達。そう言ったとたん、次の言葉が出てこなくなった。

 そうだ。あの日から今日までの約1か月、僕は一度も翡翠に会ってはいない。僕は彼女を友達だと思っている。そしてきっと、彼女もそう思っていると思うんだ。けれど、彼女はあの時それに応えなかった。

 肯定も否定もしなかった。

 だから、もしかしたら彼女は僕のことを友達なんかとは思っていなくて、やっぱり僕が自分勝手に友達だと呼んでいるだけなのかもしれない。

 自分が思う『友達』は、相手の思う『友達』とは違う可能性だってあるんだ。

 だから──


「「……どうした?」」


 しばらく黙っていた僕を心配したのだろう。涼が僕の耳元で優しく囁いた。


「いや……その、さ。」

「「うん。」」

「翡翠のこと、僕は友達だと思っているんだ。」

「「うん。」」

「けどさ。彼女は──僕のこと、友達と思ってくれているのかなって……」

「「……喧嘩でもしたのか?」」

「いや、喧嘩じゃ、ないんだ。ただ……」


僕は家の奥にいるであろうじいちゃんに聞こえないように、小さな声で受話器に語る。


「彼女は……ええと、将来のことで悩んでいてさ。それが、自分が本当にしたいことは分かっているのに、周りの環境がそれを許さないから、彼女はその夢を──その未来を諦めようとしているんだ。」

「「……ふむ。」」

「それで、その……僕はその夢を諦めてほしくなくて、彼女を花火大会に連れていきたかったんだ。その、どうして花火大会なのかは言えないけれど……彼女にとって花火は特別なものだったから……」

「「なるほど。」」

「けれどね?それは……彼女にとっては苦しみを増やすことになる。僕にはどう頑張ったって彼女を助けることはできないのに、そんなことをするのはただ彼女を苦しませるだけで、そんなことをするのは友達なんかじゃないんじゃないかって。

そんなことをする人間を、彼女は友達なんかじゃないって、そう思っているんじゃないかって。」

「「……」」


 家の時計の音が、耳に響く。その時を刻む音を聴くたびに、得体のしれない不安が僕の心に広がった。

 だが、涼の言葉で、そのすべては払拭された。


「「大丈夫だよ、碧。」」

「え?」

「「確かに『友達』は人それぞれで捉え方が違うだろう。碧が考えている『友達』と、その翡翠って子が考えている『友達』は違うのかもしれない。だから、それは確かに分からないんだ。」

「……」

「「けどさ、これだけは言える。きっと向こうはお前のこと、絶対に嫌いではないと思うぜ。」

「どうして?」

「「だってお前、それだけその翡翠って子のことを考えて、悩んで、力にはなれないかもしれないと思いながらも、それでも力になりたいって思っているんだろ?きっとそれは、相手にも伝わっていると思うぜ。お前、だいぶ素直だからな。

そんな人を、俺なら嫌いにはならないよ。」

「……」

「「それに、その子さ、お前と一緒にいることが本当に嫌なのかな?」

「え?」


彼の言葉は夏のそよ風のように、受話器の奥から僕の頬を撫でた。


「きっと翡翠が本当にお前のことを嫌だと思っているのだとしたら……お前はそこまで、その子のことを考えるようにはなっていないと思うぜ。」



「──おや、それはどういうことだ?翡翠。」


 千恵はすべてを分かっていると言うように、うっすらとほほ笑む。


「あの『鈴鳴り』を碧が知らないと分かった時、すぐに気が付いたさ。

 『鈴鳴り』はこの山でさまよい続ける神霊・・・・・・・・・・だ。ならば、山に毎晩通っている碧が、『さまよう存在』に2年以上も出会っていないというのはおかしい。」

「それで?」

「お前はただの神霊じゃない。私と同じ、『ぬし』だ。この“山”という異界の王。

お前が自身の『梅ノ木本体』から離れてこの水源京に来られるのも、それが理由なのだろう?」

「ふふ。いかにも。」

「ならば、簡単だ。『さまよう存在』に碧が今まで出会わなかったのは偶然じゃない。千恵、お前が『鈴鳴り』を捕らえている・・・・・・からだろう。」


彼女は答えない。


「『主』は、その世界の支配者だ。その世界ある限り、その世界を認知し、その世界の『精』を操る──いや、その世界に自分の『精』を浸透させるといった方がいいか。故に、その中に住む生き物をある場所から出さない、入れないなど、造作もないからな。」

「ふふ。翡翠よ。汝も『主』らしくなってきたではないか。」


千恵は穏やかに微笑んだまま、私に言った。


「『主』になると、その“世界”を存続させねばならないという、無意識の本能のようなものが生まれてくる。故に、“世界”を滅ぼす存在を、我らは許容できぬ。、な。」


彼女は私の顔を調べるように、視線を動かす。


「『鈴鳴り』は精を貪る。家に帰りたいが故に、そこまでの行燈を求め、『命』という行燈を手にしようとするのだ。それは、手当たり次第で見境がない。それでは森は枯れ、山は死ぬ。故に、我は『鈴鳴り』を山の奥の洞窟に隠した。流石に殺すのは──忍びないからな・・・・・・・。」

「……なら、隠した『鈴鳴り』を外に出したその行為は、やはり故意だ。碧に、遭わせるために。」

「そうだな。」


彼女の言葉を聞いて、私は尋ねた。


「何故だ。」

「何故?」


千恵は瞼を閉じ、眠る様な笑みを浮かべる。


「そこまで分かっていて、汝はわからないのか?」

「……わからない。私は、賢者ではない。お前がやったことまでは分かるが、その理由までは分からない。」

「具体的には、何が分からないのだ?」


 千恵の問いに、私は口を閉ざした。


 分かっている。分かっているんだ。

 この300年、この千恵という賢者を見て、この神霊がどんな存在なのかを。

 けれど──

 私が、それを受け入れたくないのだ。

 この神霊が私に・・何を望んでいるのか、それを分かっているから。


私は、彼女から視線を逸らした。


「……40年前、銀灰──碧の祖父がここにやってきたときと、だった。碧がこの水源京にやってきた理由が。

あの日も、強い雨が降った日だった。

 あいつは私を──この水源京から救いたいと言った。それが出来ないと、そう私はいい、あいつは諦めた。それでよかったんだ。

 ──よかったのに、何故、同じことをする。千恵。」

「簡単だよ、翡翠。汝は、本当は生きたいと願っているからだ。」


私は彼女に背を向けた。


「私は神霊だ。私は──人柱として川に身を投げ、ここに来たんだ。もう、『わたし』は死んだんだ。」

「だが、汝はまだここに生きている。」

「……だから、どうしろというのだ。」

「生きているのなら、いくらでも夢を追いかけていいと言うことだ。」


私は唇を強くかんだ。


「何を……。それに、私がここを出て行ってしまっては、この都は──」

「こんな終わりゆく都のために、300年以上焦がれてきた一日を、無為にするのかい?一日くらい、都を空にしたっていいだろうさ。」

「……」


 言葉を返さなくなった私に、千恵は優しく、けれどどこか子どものように明るく言った。


「我はな、いつ終わるとも分からない命が、どうしようもなくかわいいのさ。

 いつか必ず終わるとわかっているのに、その短くか弱いその時間をどんな生き物も懸命に生きている。あの足掻きが、苦しみが、楽しさが、我はどうしようもなく愛しいのさ。

 そしてな、我には飛び切りのお気に入りの命があるんだよ。何だと思う?」


彼女は私の正面にやってきて、その淡い瞳を輝かせた。


「人間さ!あんなに無駄ばっかりやっている命は見たことがない。

 仕事?娯楽?我々植物や動物たちとは全く異なる生命体だよ、アレは。

 だが、あの命の有り方を見ているのは、飽きないんだよ。」

「……」

「仕事をして汗を流し、友人たちと語らい、時に涙し、時に笑う。あんなにも生きることそのものが輝いている生き物が、他にいるだろうか?祭りなんて、その最たるものだろう?生きるためだけなら、祭りは不要なものだ。無駄な出費に無駄な労力を費やして、限りある命の一日を無駄に過ごすんだ。そんな無駄なものを何度も何度も積み重ねて、彼らは最期にこういうのさ。

“ああ、楽しかった、幸せだった”──とな。」


彼女の言葉が、否応なく私の耳に染みこんでくる。


「なあ、翡翠よ。命というものは気まぐれなんだ。

 我のように、気が付けば1000年を超えて生きる者もいれば、突然逝ってしまうものもいるのだ。

 誰もかれも、その命は蝋燭のようにか細く揺らめいているんだ。

 故に、生き物は──特に人は、生きている“時”を大事にするんだ。

 そして、その蝋燭の炎の“色”は皆違う。どんな色で輝き、どのようにして生きるのか──それが、人生だろう?」

「……」

「我は、その“色”を見ていたいのだ。その“色”がどのようにして輝き、どのようにして終わるのか、それを見ていたいのだ。あの淡く切なく、強く温かい光に、我は魅せられているのだ。

 だが、今の汝はその“色”がくすんでいる。汝が本当に求める“色”は、今の“色”ではないと、その光が──『精』が、言っているんだ。」

「私は……」

「翡翠よ。」


 彼女は私に、あるモノを手渡した。それは太陽の日差しのような、あたたかな光を放つ、一本の竹の水筒だった。


「汝はとっくに気が付いているかもしれぬが……我と銀は、汝に嘘をついた。この山の麓にある街──かつての里は、汝の過ごした里だ。」

「……」

「汝は川に流され、海にたどり着き、。流水の神──スイの流れに乗って、50。」

「……」

「我らは同じ神霊だが、人間の身で神霊になった者は、我ら人ならざる生き物から神霊となった者以上に苦しむ。だから──」


ああ。分かっていたとも。

千恵も銀も、そういう奴なのだ。

どうしようもなく、命に寄り添うのだ。


 長らく“水”として過ごした私は、『精』が溶け出している。『精』の薄い神霊は、姿が朧げとなる。そのような存在が、人間に真っ当に認識されるわけがない。

 そしてそれが──であったと知っていたなら、尚更であろう。


「翡翠よ。この水筒には、我の40年前の『精』から創られた酒が入っている。これをある術者に調整してもらい、薬とした。故にこれを飲めば、一時ではあるがその体の精を元に戻せるだろう。」

「──!?まて。実、だと!?それは――」

「ああ。我の梅の実には『精』だけでなく、その時の『記憶』も入っている。我は人間のようなはできぬからな。」

「何故、そんな──記憶を自ら捨てる行為・・・・・・・・・・を!?」


私の問いに、彼女は笑った。


「言ったであろう?我は“命の色”を見ていたいのだ。その色がくすんでしまっているというのなら、助けたいと思うものだ。

特に──友人であるならば、尚更な。」

「……」


私は、その水筒の中身を見つめた。

鮮やかな新緑に輝くその液体が、わたしの目の奥を熱く照らした。


「翡翠よ。確かに、汝がかつて会いたがっていた者には、もう会うことはできない。

だが、今はまだ会えるものが居る。ならば、会いに行くべきだ。」


彼女ははにかみ、私に言った。


「あの輪廻の二人は、最後には必ず笑っていた。

幸せであったと、そう言っていた。

我は、汝にもそうあってほしいのだ。

汝がどんな選択をしようとも、それは構わぬ。

ただ──後悔だけを残したままにすることは、してほしくないのだ。

だから、もう一度問おう、友よ。」


彼女は優しく、静かに言った。


「汝は後悔したままで終わるのか、それとも“幸せだ”と思って逝くのか、どちらがいいんだい?」



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