第33話


「雨音、何を言っているんだ──」


 白い雨のベールが、彼女の顔を覆う。歪む彼女の像は、一瞬笑って見えた。


「何を、だト?そのままではないカ?」

「いや──」


僕は言葉を飲み込んだ。

ハクの言葉が、じいちゃんの言葉が、脳裏によぎったから。


“あいつらは、自分たちが生きていることを実感したがる。”


“親しき隣人には成り得ても、それ以上には、決してなってはならないモノたちだ。”


 僕は口に入ってきた雨水を飲み込んだ。

その味は甘くて苦くて酸っぱくて、そして冷たくて熱かった。


「──ま、まって。雨音は、雨音は、何か誤解しているよ。」

「誤解?」

「う、うん。友達は、ただ自分が生きていることを認識するためのモノなんかじゃない。

 友達は──友達って言うのは、あたたかいものなんだ。」

「あたたかイ?」


僕はあの夕焼けを思い出す。涼と紅葉と帰った、あの夕焼けの道のりを。


「そう。友達は──ただ一緒にいるだけで、幸せになれるものなんだ。

向かい合っていると、ただそれだけで自然と笑みが零れ落ちる。そんな、存在なんだ。」

「……」


 雨音はしばらく何も言わなかった。だが、僕の体を打ち付けるその雨音あまおとは、無慈悲にも僕の心を凍えさせた。


「なら、やはり同じではないカ?オレ・・だって、翡翠や千恵やハク、そしてお前と話をしていると笑みがこぼれル。ああ、自分は会話をしていると、生きていると、実感できるからナ。

 それに、オレ・・がいないと、お前たちは生きられないだろウ?」

「え──」

「オレは雨。恵みの雨。命をもたらすモノ。

 オレが生きているから、お前たちが生きていル。

 オレが生きていなければ、お前たちはいきていけない。

 それを、何よりもオレにはうれしい。

 だからオレは、お前たちと一緒にいることが幸せダ。

 一緒にいることが幸せであるのが友達なら、やっぱりそういうことなのだろウ?」


「────────」


 初めて、雨音を異質な存在だと、そう思ってしまった。

 彼女が会話を好む理由も、ハクがずっと僕に言っていた理由も、分かってしまった。

『神』は──根本的に人とは、違う。

 その出自が特殊であるからか、それとも生きている環境が違うからなのか。その原因は分からない。それでも、彼女は──『神』は、その有り方も考え方も、全く人間とは相いれない。

 それを、分かってしまった。

 絶句する僕に、雨音は淡々と言の葉をはじき出した。


「まあ、だから、お前がさっき言った『悲しい』というのは、分からなくはなイ。

 翡翠が死ねば、オレが会話をする相手が減ル。

 幸せが1つ減るのは、。」

「ッツ!!雨音それは──!!」

「ダカラ。」


突然、僕の視界は覆われた。

鼻がこすり合いそうになるくらい近くに、彼女の顔がある。


「だから、お前が変えられぬ翡翠の未来を変えたい、救いたい、という気持ちも分からなくはなイ。故に──」


彼女の口角が、不気味に上がった。


「オレとともに来るのはどうダ?」

「は?」

「オレは雨の神、水をはぐぐみ、命を与えル。お前がオレとともに空に登り、空から落ちれば『水の精』を操り好きなところに雨を降らせることが出来るだろウ。」

「それって、僕に──」

「アア。オレの精に中てられて、。」


 背筋に、何か冷たいものを感じた。

 彼女の霞がかった瞳。こちらからその視線を合わせることはできないのに、彼女ははっきりと僕の瞳を見ていることだけは分かる。天を覆う雲のような彼女の瞳が、今にも雨となって僕の顔に落ちてきそうだった。


「千恵やハクはあまり快く思ってはいないだろうが、お前は神霊になることを否定的には捉えていないのだろウ?」

「それは──」

「それに、大体の予想はもうついているのではないカ?翡翠は流水の神──スイの精に中てられて神霊となっタ。そしてずっとあの水源京に居続けた彼女を同化から救うには、同じ時間だけ水源京の外に出さねばならヌ。」

「……」

「そうなれば、彼女を300年近く外に出さねばならないが、それをしたければ300年間は水源京を──あの水源を、保っていなければならなイ。」

「……」

「だが、水源は自然現象。それを保つためには、我ら神の精を操り、水の精を操り、現象を。そんな芸当は、現象そのものである我ら『神』にはできン。それは、現象を否定する行為──すなわち、己の存在自体を否定することになりかねなイ。故に、それが出来るのは、精を操る術を持つ『神霊』だけだ。」

「それは……」

「碧ヨ。」


雨音はその小さな腕を、僕の首に巻き付ける、

彼女の虚ろな口が、僕の眼前に迫ってくる。


「オレはお前が好きダ。お前は人間であり、神霊に近イ。

 

 そのお前が神霊となり、お前がオレの隣に常に居ると言ウノナラ──」



オレハ、コノウエナイ“トモダチ”ヲ、テニイレラレル



 轟音。

 彼女の口が僕を飲み込もうとするその直前、山がはじけ、木々が砕ける音がした。

 そして現れた竜のごとき鉄砲水が、雨音を僕から引きはがした。


「!?」


 辺り一帯は洪水となり、雨音が消えるとそこは巨大な池になった。

突然できた池は腰までの深さのある大きなもので、強く荒々しく、そしてとても熱かった。


「──翡翠、カ。直接会うのは久しぶりだナ。」


 雨音はふわりと池の上で舞う。


「……」


翡翠は、言葉を返さなかった。池の中心。水源京の真上に立ち、じっとその澄んだ藍色の瞳を雨音に向けていた。


「どうしたのダ?随分と険しい顔をしているようだガ。」

「……いや。雨音こそ、随分とらしくないなと、そう思っているだけだ。自分から己の『コウフク』を捨てに行くのだから。」

「うん?そんなことはないと思うゾ?オレはオレだが?」

「そうか。なら、教えておこう。こいつを取り込んでしまったら、もう知恵やハクは、もうお前に会わなくなるぞ。」

「!なんト。それは考えていなかったナ。うん。それは嫌ダ。ハクはともかく、千恵と話が出来なくなるのはつまらなイ。」

「なら、ここを早々に立ち去れ。」

「ウム。そうするとしよウ。碧。」

「え──」

「では、またナ。」


 全く信じられないくらいあっけらかんと、雨音は去っていった。そしてその姿が消えるのを見届けるのと同時に、巨大な池は水を引き始め、あっという間に消えてしまった。まるで何もなかったかのように、大地は静かに水を吸収した。

 そして池だった場所に立つ僕に、翡翠は声をかけた。


「雨音は神だ。神は現象の生命。あいつとともに行くと言うことは、霧の神にあてられた『鈴鳴り』と同等になるということだ。お前は、それを望むのか。」


 僕は首を振った。

 声が、出なかった。

 身体が、震えていた。

 『神』──その本性に触れた僕は、ショックだった。ただ、雨音とは普通の友達でいられると、そう思っていた。けれど、彼女は違った。

 彼女──神の考えている友とは、僕ら人間が考えているようなものではなかった。

それが、僕の心に、大きな穴を穿っていた。

 翡翠はそんな僕に、静かに言った。


「……神は、『生きていることを実感したがる』。故に彼らは命に干渉する。そこに善悪はない。だから……」


彼女は小さくため息をついた。


「……彼らのいう友達というものは、そういう程度のものなんだ。割り切るしか、ない。」


 彼女の瞳は、悲しみに染まっていた。それはきっと、当然だろう。

 だって彼女にとって友達は、あのお菊なんだ。そしてその友達が言ったように、友達とは自分勝手でわがままで、なんでそうなりたいかなんて理由はなくて、ただ、一緒にいるだけで日々が明るくなる。そういうものなんだ。

 雨音ではなく、雨音のいうような存在なんかじゃない。


 彼女は、大切な人と生きていたかった。その相手は、きっと『あの人』だけじゃない。親友とも、一緒に過ごしていたかったんだ。


 僕は、静かに口を開いた。


「翡翠。」

「……なんだ。」

「ありがとう、助けてくれて。」

「……ただの、ついでだ。私はこいつを返しに来ただけだ。」

「それは……」


彼女が差し出した腕の中には、小さな箱があった。そしてその中には、丁寧に収納された僕が彼女に宛てて書いた手紙があった。


「翡翠……」

「眠れないんだ。」

「え……?」

「これがあると──寝れなくなるんだ。だから……」


 僕は、胸が苦しくなった。突き返されたことが、哀しかったんじゃない。

 彼女がまだ人として生きていたいとそう願いながら、彼女がそれを諦めようとしていると分かってしまったことが。

 そしてそれを分かっていながら、僕は彼女を救えないと分かってしまったことが、悔しくて情けなくて、つらかった。

 彼女は、僕の前にすべてを差し出した。僕と過ごした間に僕が彼女の水源京に置いてきた、全てがその腕の中にあった。

 きっとこれを受け取ってしまえば、彼女は彼女が死ぬまで僕と会うことはないだろう。


 だけど、だからといって、僕に何が出来るんだろうか。

 彼女を助ける方法は、人である僕にはなしえないんだ。

 だったら、これを受け取ってしまった方が、彼女のためにもいいんじゃないだろうか。

 彼女も、これ以上苦しむことはない。

 これ以上、悲しむことはない。

 これ以上、諦めることは──


“銀灰は40年前、汝と同じように考え、翡翠をあの水源京から連れ出そうとして失敗したんだ。”



“その想いは彼女にとって重荷になってしまったのだ。彼女は自分の行く末を理解していたし、そのことを受け入れようとしていた。故に、彼女は銀灰を拒絶したのだ。そしてそれ以来、人を──特に『紺家』に、自分の水源京を知られることを拒んだのだ。”


──ああ、そういうことか。


じいちゃんはこれ以上、翡翠を苦しませないようにしたかったんだ。

だから、翡翠を

 翡翠も、それを促し、


じゃあ、これを受け取ってしまったら、それはじいちゃんの失敗を繰り返すことになるだけじゃないか。

ううん。それだけじゃない。

 彼女が生きることを諦める──それを決定づけさせるなんて、殺人と同じじゃないか。

 僕は、そんなことできない。

 だって彼女は、翡翠は僕にとって──


「……碧、これを、持って行ってくれ。」

「ごめん、翡翠。これは、受け取れないよ。」

「……なぜだ。」

「だって、これを受け取ってしまったら、君にはもう会えなくなってしまうから。」

「……もう、会う必要はないんだ。だから──」

「いやだ。」


僕はまっすぐ彼女の目を見て言った。その藍色の瞳の奥に、僕は必死で訴えた。


「……お前、いい加減に──」

「だってこれを受け取ってしまったら、翡翠は生きることを諦めてしまう。そんなのは、絶対に嫌だ。」

「なぜ、そんなに……」

「だって、翡翠は僕の──」


僕ははっきりと言った。

この雨音あまおとにも負けないくらい、山を越えて里に届くような大きな声で。


「友達だから!」


 翡翠は、今にも泣きそうな顔をして、必死でそれを抑えていた。

その絞り出した声は小さく、震えていた。


「……私は、お前を……友達とは──」

「ううん。そんなことはないよ。」

「何を勝手なことを……」

「だって翡翠、記憶の中で言っていたんだ。

“友達を助けたいと思うことに、なにか特別な理由が必要なのか”って。」

「──!」


息をのむ彼女に、僕は言った。静かに。でも、彼女の心に届くように、強くはっきりと。


「翡翠。君は、僕を助けてくれた。それも、水源京を。」

「それは……」


うろたえる彼女に、僕ははっきり言う。


「翡翠。打ち上げ花火を、一緒に観に行こう。」

「……」

「打ち上げ花火を、僕は君と一緒にみたいんだ。」

「それは……」


雨の降る森の中に、僕の声は静かに響いた。


「僕は山の下で、待っているから。」



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